第8話 初めての買い物
翌朝。
エレーナは朝食の席で、一枚の紙を見つめていた。
正確には、昨夜のうちに書き足した“やることリスト”である。
一、帝国の歴史と地理の把握。
二、魔力の制御。
三、父との話し合い。
四、楽しいことを探す。
そして昨夜、新たに加わった項目。
五、王都へ行く。
ペン先でその文字を軽く叩く。
王都。
エレーナとして十七年生きてきたが、実はまともに出歩いた記憶がほとんどなかった。
必要最低限の社交。
婚約関連の行事。
それだけだ。
前世の菜月なら驚くだろう。
高校生だった頃は、帰り道に本屋へ寄るだけでも少し楽しかったのに。
今の自分は、それすらほとんど経験していない。
昨日の言葉を思い出す。
『なら、もっと増やせ』
ヴァルターの声だった。
『楽しいことだ』
本人は助言のつもりだったのだろうか。
それとも単なる思いつきだったのだろうか。
どちらにせよ。
少しだけ、やってみたくなった。
「お嬢様?」
ハンスが不思議そうな顔をする。
「何か良いことでもございましたか」
「そんな顔してた?」
「ええ」
即答だった。
最近、本当に顔に出やすくなった気がする。
エレーナは少しだけ苦笑した。
「王都へ行こうと思って」
するとハンスが珍しく目を丸くした。
「お一人でですか」
「まさか」
「安心いたしました」
失礼な反応だった。
だが否定できない。
今の自分が一人で王都へ出れば、たぶん道に迷う。
そんなことを考えていると、外から馬の足音が聞こえた。
窓の外を見る。
黒い馬。
見慣れた姿。
「早い……」
思わず呟いた。
まだ朝食の途中だ。
約束の時間よりかなり早い。
けれどヴァルターはそんなことを気にする男ではない。
案の定、数分後には食堂へ現れた。
「おはようございます」
「ああ」
短い返事。
そして着席。
なぜ当然のように朝食へ参加しているのだろう。
エレーナはもうツッコむ気力もなかった。
ハンスも自然に追加の紅茶を用意している。
完全に慣れている。
「何を見ていた」
ヴァルターが紙を見た。
「やることリストです」
「また増えたな」
「増やしました」
エレーナは少しだけ胸を張る。
するとヴァルターが紙を見る。
数秒。
その視線が最後の項目で止まった。
「王都へ行く」
「はい」
「なぜだ」
エレーナは少し考える。
「楽しいことを探そうと思って」
するとヴァルターが黙った。
妙な沈黙だった。
何かを考えているような。
「……王都か」
そしてぼそりと言う。
「なら今日行くか」
エレーナは瞬きをした。
「今日?」
「ああ」
「そんな急に?」
「思いついたときにやる方がいい」
意外な返事だった。
どちらかといえば計画派に見える人なのに。
「閣下も来るんですか?」
「護衛だ」
「便利な言葉ですね、それ」
「事実だ」
真顔だった。
エレーナは小さく笑う。
するとヴァルターが少しだけ視線を逸らした。
最近わかってきた。
この人、笑われるのが苦手なのだ。
昼前。
馬車は王都へ入った。
アシュフォード領から半日ほど。
高い城壁。
広い石畳。
行き交う人々。
窓の外を見ながら、エレーナは思わず声を漏らした。
「すごい……」
前世で言うならヨーロッパの古都みたいだった。
けれど魔法灯が並び。
空には箒で移動する魔法使いの姿も見える。
異世界だ。
改めてそう思う。
「そんなに珍しいか」
向かいのヴァルターが聞く。
「珍しいです」
「来たことはあるだろう」
「ありますけど」
エレーナは窓の外を見る。
「見てなかったんだと思います」
社交会場。
婚約者。
失敗しないこと。
いつもそちらばかり気にしていた。
街を見る余裕なんてなかった。
ヴァルターはしばらく何も言わなかった。
やがて低く呟く。
「そうか」
その声は少しだけ重かった。
最初に入ったのは雑貨店だった。
エレーナは店内を見回す。
色とりどりの小物。
香水瓶。
手帳。
栞。
アクセサリー。
それだけで楽しい。
「すごい……」
「何がだ」
「全部です」
ヴァルターは理解できない顔をした。
エレーナは思わず笑う。
「閣下、本当に興味ないんですね」
「必要なら買う」
「そういう問題じゃないんです」
たぶん、一生わからないだろう。
でもそれも少し面白かった。
棚を眺めていると、一冊の小さなノートが目に入った。
深い青色の表紙。
銀の箔押し。
夜空みたいだ。
「これ、綺麗」
手に取る。
ただのノートだ。
必要性なんてない。
でも欲しいと思った。
その瞬間、エレーナは少しだけ驚いた。
欲しい。
前世では、そんなふうに物を選ぶことがほとんどなかった。
必要だから買う。
勉強に使うから買う。
そういう理由ばかりだった。
「買うのか」
ヴァルターが聞く。
エレーナはノートを見る。
そして頷いた。
「買います」
「使うのか」
「使わなくてもいいんです」
ヴァルターが沈黙した。
たぶん理解できていない。
けれど否定もしなかった。
エレーナは少し嬉しくなる。
そのときだった。
「……あら?」
聞き覚えのある声。
振り返る。
店の入口近くに立っていたのは、一人の若い女性だった。
淡い桃色のドレス。
整った顔立ち。
そして、その隣には見覚えのある男。
イグナーツ。
元婚約者だった。
空気が、わずかに変わる。
女性が目を見開く。
イグナーツも固まっていた。
そして次の瞬間。
彼の視線が、エレーナの隣へ向く。
ヴァルターを見た瞬間。
その顔色が変わった。




