第3話 夜明けの花
翌朝、エレーナは日の出より少し早く目を覚ました。
昨夜は寝つきが悪いかと思ったけれど、意外なほどすんなり眠れた。
むしろ問題だったのは、起きた瞬間だった。
体の奥が、熱い。
熱と言っても発熱のようなものではない。
血液の代わりに、光を流し込まれているような感覚だった。
じわじわと全身の内側を満たしていて、じっとしていると、皮膚の下が微かに脈打つ。
(……昨日より強い)
ベッドの上で手を開く。
すると指先に、淡い光が滲んだ。
「うわ」
思わず声が出た。
慌てて握り込むと、光は消える。
けれど消えたというより、引っ込んだだけだった。
そこにいる。
確実に。
エレーナは深く息を吐いた。
怖い。
昨日ヴァルターの前では平然としていたけれど、実際にこうして得体の知れないものが自分の中で動いているのを感じると、さすがに少し怖かった。
(いや、でも)
前世でも似たようなことはあった。
模試の判定。
試験本番。
突然倒れた母親。
どうしようもない状況で、とりあえず机に向かっていた。
怖くても、やるしかないことはある。
エレーナは顔を洗い、着替えを済ませて部屋を出た。
廊下は静かだった。
まだ使用人たちも完全には動き出していない時間だ。
窓の外は薄青く、庭に朝靄がかかっている。
食堂へ向かおうとして、その途中で、エレーナはふと足を止めた。
妙な気配がした。
冷たい、というより、張り詰めた感覚。
空気が少し重い。
昨夜から敏感になった魔力の感覚が、屋敷の外側に何かを感じ取っていた。
(来てる)
直感だった。
エレーナは方向を変えて、そのまま玄関へ向かった。
扉を開ける。
朝の空気が流れ込んできた。
石畳の向こう、門の近くに黒い馬がいる。
その隣に立っていた男が、ゆっくりこちらを見た。
「早いな」
ヴァルターだった。
エレーナは少し驚いた。
「閣下こそ」
「約束の時間より前だ」
「……私、時間を決められていましたっけ」
「決めていない」
真顔で返された。
エレーナは数秒考えて、諦めた。
この人はたぶん、こういう人なのだ。
「おはようございます」
「ああ」
短い返事。
でも昨日より少しだけ空気が柔らかい気がした。
気のせいかもしれない。
ヴァルターはエレーナを一瞥して、すぐに眉を寄せた。
「もう漏れているな」
「漏れてる?」
「魔力だ」
言われた瞬間、エレーナの指先がぱち、と光った。
「わっ」
「力むな」
「いや急に言われても」
「感情に反応している。昨夜より進行が早い」
ヴァルターが近づいてくる。
朝の冷たい空気の中で、彼だけ妙に存在感が濃かった。
「庭へ出ろ」
「庭?」
「屋敷の中で暴発されたら困る」
さらっと怖いことを言われた。
エレーナは素直に従った。
朝露に濡れた芝生を歩く。
白い花が風に揺れていた。
昨日見ていた、あの花だ。
ヴァルターは庭の中央あたりで立ち止まった。
「まず確認する。お前、自分の魔力をどう認識している」
「どう、というと」
「熱か。光か。流れか。人によって感覚が違う」
エレーナは少し考えた。
「……熱、です。あと、水みたいな感じもあります」
「水」
「体の中に満ちてる感じがするので」
ヴァルターは小さく頷いた。
「悪くない認識だ」
それから彼は右手を上げた。
「見ていろ」
空気が震えた。
次の瞬間、ヴァルターの周囲に淡い銀色の光が広がる。
朝靄の中で、それは静かな月光みたいに見えた。
けれどエレーナは息を呑んだ。
綺麗、と感じる前に、圧倒された。
空気そのものが支配されているような感覚。
巨大なものが、静かにそこにある。
暴力的なのに、恐ろしく整っていた。
「……すご」
「これが制御された魔力だ」
ヴァルターは淡々と言った。
「魔力は感情で暴れる。だが、意識で流れを決めれば従う」
「簡単そうに言いますね」
「簡単ではない」
「ですよね」
「だから教える」
エレーナは少し黙った。
この人、本当に説明が最低限だな、と改めて思う。
でも不思議とわかりにくくはなかった。
余計な言葉がないからかもしれない。
「お前も出してみろ」
「今ですか」
「今だ」
「失敗したら」
「俺が止める」
迷いのない声だった。
エレーナは小さく息を吸った。
怖い。
でも、この人が「止める」と言うと、本当に止まりそうな気がした。
ゆっくり目を閉じる。
体の奥を探る。
熱。
光。
水みたいに満ちている何か。
それを意識して――。
ぶわり、と風が吹いた。
庭木が大きく揺れる。
白い花びらが舞い上がった。
「っ!」
エレーナが反射的に目を開ける。
同時に、視界いっぱいに白銀の光が広がった。
ヴァルターの魔力だった。
一瞬でエレーナを包み込む。
暴れかけた熱が、急速に静まっていく。
まるで冷たい水を流し込まれたみたいだった。
「……ぁ」
膝が抜けそうになる。
ヴァルターが片手で支えた。
「馬鹿か」
「いきなり難易度高くないですか!?」
「加減した」
「今ので!?」
エレーナは半分本気で抗議した。
ヴァルターは無表情だった。
「今のは魔力を外へ出しすぎた状態だ。もっと細く流せ」
「蛇口みたいに言われても」
「蛇口だと思え」
「雑」
「本質だ」
エレーナは思わず吹き出しそうになった。
この人、たぶん本人は真面目に言っている。
「笑う余裕があるなら続けるぞ」
「う」
即座に真顔へ戻した。
ヴァルターはほんの少しだけ目を細める。
昨日も見た、小さな変化。
この人、もしかすると案外表情がわかりやすいのかもしれない。
「もう一度」
「……はい」
エレーナは今度こそ慎重に意識を集中させた。
溢れる力を、少しだけ。
本当に少しだけ外へ流す。
指先が淡く光る。
今度は風も吹かなかった。
ヴァルターが頷く。
「それでいい」
褒められた。
たぶん。
かなりわかりにくいけれど。
でもエレーナは少し嬉しかった。
受験時代の癖なのか、正解をもらうと安心する。
「……なんだ」
「いえ」
「顔が緩んでいる」
「そんなことないです」
「ある」
即答だった。
エレーナは諦めて咳払いした。
そのとき、不意に風が吹く。
白い花が揺れた。
エレーナはふと思い出した。
「あの」
「なんだ」
「この花、名前なんていうんですか」
ヴァルターが沈黙した。
数秒。
本当に数秒。
でも妙に長く感じた。
「……今、それを聞くのか」
「気になっていたので」
「魔力の暴走寸前で」
「だからこそ?」
自分でも理屈はよくわからなかった。
でもヴァルターはしばらく無言だったあと、庭の花を見下ろした。
「ルクレツィア」
「ルクレツィア」
「古い帝国語で、“夜明け”の意味だ」
エレーナは花を見た。
白い花びら。
朝露。
六月の光。
なんだかその名前は、この景色によく似合っている気がした。
「綺麗な名前ですね」
そう言うと、ヴァルターはなぜか少しだけ視線を逸らした。
「……そうだな」
その声は、今までで一番、柔らかかった。




