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婚約破棄の瞬間、前世が戻りました ~元女子高生、今世は自分のために生きます~  作者: 楠木 悠衣


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第2話「翌朝の私と、突然現れた問題」

 朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは「受験が終わった」ということだった。


 それからすぐに――受験はとっくに終わっている、というか、そもそもその「受験」は前世の話だ、と気づいて、エレーナはベッドの天井をぼんやり見上げながら、自分のことが少しだけ面白かった。


 十七年分のエレーナの記憶と、十七年分の菜月の記憶。


 まだそのふたつが、うまくひとつになりきれていない。


 朝起きると「今日も早起きして自習しなきゃ」と思う前世の癖。


 でもすぐに「いや、今は馬車で書類を運ぶより先にやることがある」という今世の感覚が追いかけてくる。


 頭の中がふたり分あるというのは、思っていたより奇妙な感覚だった。


 (慣れるんだろうか、これ)


 たぶん慣れる。


 人間はたいていのことに慣れる。


 前世の菜月はそうやって十七年生き延びてきた。


 エレーナは布団を除けて、窓のカーテンを開けた。


 六月の朝の光が、斜めに差し込んできた。


 庭の白い花が揺れている。


 名前はわからない。


 エレーナとして生きた記憶の中にもなかったから、この帝国の植物なのだろう。


 (植物の名前も覚えないといけないな)


 いつの間にかリスト思考が発動していた。


 一、帝国の歴史と地理の把握。


 二、魔力の制御。


 三、父との話し合い。


 四、楽しいことを探す。


 昨日の夜、寝る前に作ったリストだ。


 眺めていると、なんだか真顔になってしまう。


「楽しいことを探す」という項目が、他の三つに並ぶことで急にしょぼく見える。


 いや、大事なことのはずなのに。


 (まず朝ごはんにしよう)


 現実的に考えることにした。


 食堂に降りると、父はもういなかった。


 席の上に紅茶だけが残っていて、まだ湯気が立っていたから、つい先ほどまでいたのだろう。


 ハンスが無言で新しいカップを運んできた。


 ハンスはアシュフォード家で二十年以上働いている老執事で、必要なこと以外はあまり喋らない。


「お嬢様、昨日はご無事で」


「ありがとう、ハンス」


「旦那様は、朝早くから王都に出られました」


「用事があったの?」


「存じません」


 そうか、と思った。


 父は多くを語らない人だから、どこへ行ったかはわからないし、理由も教えてくれない。


 でも昨日のあの顔を思い出すと――行き先は、なんとなく、検討がつく。


 (婚約破棄の後処理、かな)


 娘が婚約破棄されました、という報告とその対処。


 貴族社会はそういうことに目ざとい。


 先手を打たないとあっという間に噂が一人歩きを始める。


 父はそれをわかっていて、動いている。


 前世の菜月なら「なんで相談してくれないんだろう」と思っていたかもしれない。


 でも今は、そういう父なんだ、と静かに受け止められる。


 (エレーナとして生きた十七年は、伊達じゃないな)


 パンをひとかけ取って、バターを塗りながら、エレーナは思った。


 ふたつの記憶のどちらかが正解なんじゃなくて、どっちもちゃんと本物なのだ、と。


 食後、エレーナは書斎に入った。


 本来は父の部屋だけれど、本だけは自由に使っていいと言われている。


 大きな本棚が二面を埋めていて、歴史書から魔法の研究書まで、わりとなんでも揃っている。


 最初にとりあえず手に取ったのは、『アシュワール帝国 建国史 上巻』という、背表紙からして重そうな本だった。


 開いてみると、文字が小さくて、ページが分厚い。


 (なんというか、受験参考書みたいだ)


 菜月の血が騒いだ。


 気づいたら没頭していた。


 帝国の建国が三百年前で、初代皇帝は魔法使いだったこと。


「呪い」と「魔力封印」の違いは帝国史の中でも何度か議論されてきたこと。


 エレーナが「呪い持ち」と言われてきたのは、正確には「封印持ち」という記録が残る家系に生まれたからで、これは百年前から続いているアシュフォード家の固有の事情だということ。


 (固有の事情?)


 読み進めると、アシュフォード家の欄に注釈があった。


 曰く、アシュフォード家は三代に一度、強大な魔力を持つ子が生まれる。


 その子は幼少期に自ら制御できない魔力を暴走させる危険があるため、生後まもなく封印を施すのが慣例とされてきた。


 (生後まもなく、封印)


 エレーナは本を閉じた。


 いや、閉じたというより、手が止まった。


 十七年間、ずっと「呪い」だと言われてきた。


 社交界で囁かれてきた。


 婚約破棄の理由にもなった。


 でもそれは、呪いじゃなくて、封印だった。


 しかも、理由がある封印。


 (なんで教えてくれなかったんだろう、お父様)


 怒っている、わけではなかった。


 怒る前に、もっと別の感情が先に来た。


 なんというか。


 胸の奥に、ゆっくり水が染みてくるような、しんとした感じがした。


 庭に出たのは、頭を冷やしたかったからだ。


 書斎の窓から見えていた白い花の側まで来て、しゃがんで近くから見てみると、花びらが六枚あって、真ん中が薄い黄色だった。


 小さいけれど、複雑な形をしている。


 触ってみると、驚くほどやわらかかった。


「――お嬢様」


 唐突に声がして、エレーナは立ち上がった。


 振り向くと、ハンスが白い顔でこちらに向かって歩いてくる。


 いや、小走りだ。


 ハンスが小走りをしているのを、エレーナは今まで一度も見たことがなかった。


「お客様が」


「お客様?」


「旦那様あてのお客様でございますが、旦那様は不在でいらっしゃいますので、お嬢様に取り次いでよいものか……」


「誰が来たの」


 ハンスはひとつ息を吸って、言った。


「ケストナー公爵閣下が」


 エレーナは三秒ほど、その名前を頭の中で反芻した。


 ケストナー。


 公爵。


 (……ケストナー公爵?)


 記憶を探る。


 エレーナとしての知識で言えば、帝国で五本の指に入る大貴族で、現役の魔法師でもある。


 帝国最強の魔法士と呼ばれていて、軍部にも関わっているらしい、という程度の知識しかない。


「らしい」というのは、そもそもエレーナがその人物と面識がないからだ。


 (なんでそんな人が、うちに?)


「案内して」


 反射的にそう言っていた。


「よろしいので? 旦那様がおられない中で……」


「旦那様がいない中でもお客様を追い返したとなれば、それはそれで失礼でしょう。応接室に通して」


 ハンスが「かしこまりました」とだけ言った。


 廊下を歩きながら、エレーナは自分の格好を確認した。


 朝に着替えた薄いグリーンのドレス。


 髪は侍女のルイに軽く結ってもらっている。


 化粧はしていない。


 婚約破棄の翌日に公爵と会うには、些か地味すぎる気がしたが、今更着替えるより早く行った方がいい。


 (礼儀の話をするなら、朝に突然来る方が失礼だ)


 菜月の現代的な価値観が、ひょっこり顔を出した。


 応接室の扉の前で、エレーナは一度だけ深呼吸した。


 扉を開けた。


 男が立っていた。


 座らないで、窓の外を見ていた。


 それだけで、なんとなく、この部屋の中で他の全てが少し小さく見えた。


 背が高い。


 肩幅が広い。


 軍人のような立ち姿をしているが、軍服ではなくて濃紺の上着を着ている。


 髪は黒くて、少し長めで、首筋に少しかかる程度だ。


 エレーナが入ってきた気配に気づいたのか、男がこちらを振り返った。


 顔を見た瞬間、エレーナは少し面食らった。


 端整というより、きつい顔だった。


 目つきが鋭くて、口元が引き締まっていて、笑ったときにどんな顔になるのかが想像できない。


 年齢は二十代後半から三十手前くらいだろうか。


 男は一秒か二秒、黙ってエレーナを見た。


 それからわずかに目を細めて、言った。


「アンドレアス卿の娘か」


 挨拶でも名乗りでもなかった。


 確認だった。


「はい」


 エレーナも同じくらい端的に返した。


「エレーナ・フォン・アシュフォードです。父は本日外出しております。ご不便をおかけして申し訳ありません、ケストナー公爵閣下」


「俺に謝らなくていい」


 男――ヴァルター・フォン・ケストナーは、そう言いながら椅子を引いた。


 どうぞ、という仕草で、エレーナに対して。


 自分の家の応接室で、客に促されて座ることになった。


 エレーナはそれを内心でどう受け止めればいいかわからなかったが、とりあえず座った。


 ヴァルターも向かいに腰を下ろした。


 足を組んで、腕を肘掛けに乗せて、エレーナを見る。


 何かを探るような目だ、とエレーナは思った。


「父への用件でしたら、後日改めて――」


「お前に用がある」


 エレーナは口を閉じた。


 ヴァルターは続けた。


「昨日、封印が解けた。お前の」


 間があった。


 エレーナの体の中で何かがひやりとして、でもすぐに落ち着いた。


 昨夜、廊下で誰かが「封印が解けた」と言っていた気がした。


 それがこの男だったのか、と今わかった。


「……存じています」と、エレーナは言った。


「自覚はあります」


「怖くないか」


「怖い、というのは、何がですか」


「封印が解けた魔力が、どの程度のものか、お前にはわかっていない」


「わかっていません」


 エレーナは認めた。


「だから調べていたところです」


 ヴァルターの目が、少しだけ変わった。


 何が変わったのか、うまく言えない。


 ただ、温度みたいなものが、ほんの少し違う気がした。


「……調べていた」


「書斎で歴史書を読んでいました。アシュフォード家の魔力封印の歴史については、大まかに把握しました」


「大まかに、か」


「三代に一度、封印が施される。過去に二例。どちらも二十歳を超えた頃に封印が解け、その後は帝国の魔法師として活動した。ひとりは百年前に女性で、花を育てることに魔力を使いたいと言って、農業の発展に貢献した。もうひとりは七十年前に男性で、その人の詳細はあまり書かれていませんでした」


 ヴァルターは、しばらく黙って、エレーナを見ていた。


「二十歳を超えた頃、と書いてあったか」


「はい」


「お前は今いくつだ」


「十七です。昨日が誕生日でした」


 ヴァルターが息をひとつ、短く吐いた。


「では、記録より三年早く解けた」


「……それは、何か問題がありますか」


「ある」


 間を置かずに言われた。


 エレーナの背筋が少しだけ、本能的にぴんとなる。


「封印解除が早いということは、内側の魔力が想定より強い、ということだ。歴史書に載っている二例と同じ扱いはできない」


「つまり」


「お前は今、自分の魔力がどれだけのものか、わかっていない状態で、それを体の中に抱えている。それは、栓を外した樽を両手で抱えているのと同じことだ」


 エレーナは少し考えた。


 例えが微妙にわかりやすくて、でも少し乱暴で、この人の説明は詩的ではないな、と思った。


「溢れる、と?」


「溢れるどころじゃない。最悪、暴走する」


「暴走したらどうなりますか」


「お前が、消える」


 さらっと言われた。


 エレーナはそれを、頭の中で一度咀嚼した。


 消える、というのは、死ぬということだろう。


 (また死ぬのか、私は)


 前世は受験勉強で死んで、今世は魔力の暴走で死ぬのか、と思うと、なんというか、笑えない冗談みたいだった。


「……それを、教えに来てくださったんですか」


「そうじゃない」


 ヴァルターはそこで初めて、背もたれから少し前に傾いた。


「俺が来たのは、お前の魔力を制御するためだ」


 エレーナは、今度こそ少しだけ本当に驚いた。


「なぜ、公爵閣下が」


「俺の魔力も、同じ種類だ」


 静かに言われた。


「同じ、種類」


「正確には、相性がいい。お前の魔力の型と、俺の魔力の型は、対になっている。だからお前の封印を長年、俺が外から補強していた」


 エレーナの頭の中で、いくつかのピースが静かに音を立てて落ちた。


 (補強していた、ということは、この人は私が生まれたときから関わっていたということか)


「……閣下は、今おいくつですか」


「二十八」


「では、私が生まれたとき、閣下は十一歳で」


「そうだ」


「十一歳から、他人の封印を補強していたんですか」


「帝国の依頼だ。俺が選んだわけではない」


 そっけなく言われた。


 でもエレーナはその言葉の裏に、何かもっと大きいものがある気がして、少し引っかかった。


 十一歳から、十七年間。


 それはどういう――


「質問は後にしろ」


 思考を断ち切るように、ヴァルターが言った。


「今は、まず制御が先だ。お前の魔力は昨夜から急速に動き始めている。一週間以内に方法を覚えなければ、最悪の話が現実になる」


「一週間」


「早い方がいい」


 エレーナはしばらく、向かいの男を見ていた。


 きつい目と、引き結んだ口。


 さっきから表情がほとんど変わらない。


 それなのに、嘘をついているようには見えない。


 むしろ真反対で、無駄なことを一切言わない人のように見える。


 前世の菜月の感覚で言うなら、こういう人は信用できる。


 何かを飾る気がない人だから。


「わかりました」と、エレーナは言った。


「一週間、ご指導いただけますか」


 ヴァルターが頷いた。


 あっさりと。


「明日の朝から始める」


「は、はい」


「朝は早い方がいいか、遅い方がいいか」


「早い方が好きです、前世から」


 言ってから、しまった、と思った。


「前世から」というのは、つい菜月の口癖が出てしまった。


 ヴァルターの目が、ほんのわずかに動いた。


「前世、か」


 問い返しでも驚きでもない、ただの確認みたいな声だった。


「……ご存知でしたか」


「知らなかった。だが、昨日の封印解除のタイミングと、今のお前の言動は、そういうことを示唆しているように見える」


 エレーナは一瞬だけ迷って、答えることにした。


「はい。昨日、婚約破棄の場で、前世の記憶が戻りました。日本という国の、女子高生でした」


「日本」


「ご存知ない国だと思います。この世界とは別の場所にある、魔力のない世界です」


「魔力がない」


「はい。かわりに、電気がありました」


 ヴァルターが少し眉を動かした。


 何かを考えているときの顔だ、とエレーナはなんとなくわかった。


「――それで」


「え?」


「お前は今、ふたつ分の記憶を持ちながら、平気そうにしている」


 平気そうに、という言葉が少し引っかかった。


「平気じゃないこともあります」


「そうは見えない」


「そう見える方が得だと思っているので」


 ヴァルターが少しだけ、黙った。


 それから今度こそ、ほんの少し、唇の端が動いた。


 笑った、とは呼べないくらいの、小さな変化だった。


「正直だな」


「嘘をつくのは疲れるので、前世から苦手なんです」


「前世から」


「……また言ってしまいました」


「慣れたらいい」


 不思議と、意地悪な言い方じゃなかった。


 ヴァルターが帰ったのは、昼前だった。


 明日の朝、また来る、とだけ言って、玄関まで案内する間も追加の言葉はなかった。


 馬が一頭、外で待っていた。


 護衛も従者もいない。


 (公爵がひとりで来る、というのは普通じゃない気がするけど)


 この人にとっての普通がどこにあるのか、今日一日ではわからなかった。


 馬が遠ざかるのを見送りながら、エレーナはふと気がついた。


 (一度も、婚約破棄の話に触れなかった)


 公爵ほどの立場の人間なら、昨日の話は当然耳に入っているはずだ。


 それでも一切触れずに、魔力の話だけをした。


 それがこの人の判断なのか、あるいはそういうことに興味がないだけなのか、まだわからない。


 (まあ、いい)


 前世の菜月の癖で、エレーナはとりあえずの結論を出した。


 わからないことは、わかったときに考える。


 今はまず、やることがある。


 体の中の「熱」に、もう一度だけ意識を向ける。


 夜明け前よりは、ずっとはっきり感じる。


 じわじわと、でも確実に、体の中を埋めてくるような感覚がある。


 これが一週間で暴走するというなら、早めに動いた方がいい。


 (明日、ちゃんと聞こう。どうやって制御するのか)


 玄関を振り返ると、ハンスがまだそこにいた。


「ハンス」


「はい、お嬢様」


「私、今日から少し、変わると思う」


 ハンスが少しだけ目を見開いた。


 エレーナは続けた。


「前世の記憶が戻って、いろいろ思い出したことがある。だから、急に変に見えることがあるかもしれない。でも問題はないから、お父様にもそう伝えておいて」


 ハンスは数秒間、真顔でエレーナを見ていた。


 それから深く、丁寧に頭を下げた。


「……かしこまりました、お嬢様」


「ありがとう」


 返事の内容より、そのお辞儀の角度の方が、なぜか少し胸に来た。


 エレーナは庭に戻って、さっきの白い花の前にもう一度しゃがんだ。


 触ると、やっぱりやわらかかった。


 (この花の名前、明日ヴァルター閣下に聞いてみようか)


 魔力の話でもなくて、貴族の礼儀の話でもなくて、庭の花の名前を公爵に聞くのはどう考えても場違いだ、と菜月の感覚が言う。


 でもエレーナとしての感覚は、別にいいんじゃないかと思っている。


 (聞いてみよう)


 前世でずっとできなかった、「どうでもいいことを、どうでもいい感じに聞く」というのを、今世でやってみることにする。


 それが、四番目の項目の最初の一歩になるかもしれない。


 楽しいことを、探す。


 花びらが六枚の、名前を知らない白い花が、風に揺れた。

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