第1話「婚約破棄は突然に、前世の記憶もついでに帰ってきました」
告げられた言葉は、思ったよりずっと軽かった。
「エレーナ、婚約を解消したい」
春の光が差し込む白亜の応接室で、イグナーツ・フォン・ランバークトは、紅茶のカップを置くのと同じくらいの気軽さでそう言った。
十七歳の誕生日から、ちょうど三日後のことだった。
エレーナ・フォン・アシュフォードは、向かいのソファに背筋を伸ばして座ったまま、ゆっくりとまばたきをした。
目の前には婚約者だったイグナーツと、その隣でハンカチを握りしめる赤毛の少女――エレーナも知っている、侯爵家に仕える侍女の娘。
ミリア、とかいう名前だったはず。
(ああ。そういう展開ですか)
なぜか、ひどく遠いところから自分を見ているような気がした。
「……理由を、聞かせてもらえますか」
声に乱れが出なかったことを、エレーナは少しだけ誇らしく思った。
「君は呪われている」
イグナーツは迷いなく言った。
端整な顔が、まるで事実を述べているだけだというように、穏やかに整っている。
その落ち着き払った様子が、どういうわけかエレーナには少し可笑しかった。
「生まれながらに魔力封印の呪いを持つ君を妻に迎えることは、ランバークト家の体裁に関わる。それに……ミリアの存在も、もはや隠せないところまで来ている」
きっちりとした言い回しで、彼は二つの理由を並べた。
ミリアが鼻をすすった。
か細い声で「ごめんなさい」と言った。
(あなたが謝ることじゃないと思いますよ、と言ってあげたほうがいいのかな。でも、それより先に)
エレーナの頭の中で、何かが、音を立てて解けた。
それは鍵が開くような感覚ではなかった。
分厚い氷の壁が、内側から一気に砕けるような――そういう、激しくて痛くて、でもどこかすっきりした感覚だった。
気がついたら、別の誰かの「記憶」が流れ込んできていた。
桜の木。
灰色の校舎。
教科書と参考書が山積みになった机。
インスタントコーヒーの苦い匂い。
冬の朝に白く曇る窓ガラス。
友達の少ない教室。
誰にも気づかれないまま続けてきた、ひとりの勉強時間。
(あ)
(私、ここじゃなかった)
神崎菜月、享年十七歳。
受験勉強をしすぎて、心臓が止まった。
――そうだ。
私、一度死んでいる。
思い出した。
全部、思い出した。
それが起きるのに、たぶん一秒もかかっていなかった。
けれどエレーナ――前世の記憶が戻ったエレーナ――の中では、まるで長い夢から覚めたような、ゆっくりした時間の流れがあった。
現実には、まだイグナーツが続きを話していた。
「……エレーナ、聞いているか?」
「ええ、聞いています」
自分の声が、不思議と落ち着いている。
前世の菜月の記憶が戻ったばかりなのに、エレーナとしての十七年間も同時にしっかりそこにある。
ふたつの人生が混じり合って、でも不思議と矛盾しない。
(なるほど。転生、か)
どこかで読んだことがある設定だ、と菜月は思った。
というか、かなり定番じゃないか。
婚約破棄の瞬間に前世の記憶が戻る、というのは。
前世で読んでいたあれやこれやの小説を思い出して、エレーナはひとり、ひっそりと納得した。
「……なら、わかってくれるな」
イグナーツが言った。
わかってくれる、という言葉の中に、どこか安堵の色があった。
面倒なことにならないでほしい、という打算が透けて見える。
エレーナは静かにほほえんだ。
「ええ、もちろん。よくわかりましたよ、イグナーツ様」
「……そうか。それなら」
「ただ、一点だけ確認させてください」
「なんだ」
「婚約破棄の件、正式な書類はこちらから用意いたします。ランバークト家の費用は一切かかりません。また、本件についてアシュフォード家に非があったという形での発表をご希望でしたら、それについても――」
「え?」
「――対応可能です。ただし、その場合はアシュフォード家への誠意として、相応の慰謝料をご用意いただくことになりますが。いかがでしょうか」
沈黙が落ちた。
イグナーツが目を見開いた。
ミリアも口を半開きにしている。
エレーナは穏やかに、でも一ミリも笑みを崩さずに、向かいのふたりを見つめ返した。
(これが前世の知識というものか、と実感する)
菜月は受験生だった。
歴史も好きだったし、社会科目で学んだ契約と交渉の基本知識も頭に残っていた。
それ以上に大きかったのは――
(私、もう泣かない)
泣かなくてもいい、とわかったからだ。
前世の菜月は、ずっと誰かの期待に応えることで生きてきた。
親の望む「いい子」でいるために、ひとりで勉強して、成績を上げて、自分の感情を後回しにしてきた。
今世のエレーナも、似たようなものだった。
「呪われた令嬢」というレッテルを貼られながら、それでも誰かに認めてもらおうと、ひっそりと努力を続けてきた。
でも。
ふたつの記憶が今、同じ体の中にある。
だとしたら――いい加減、自分のために生きてもいいんじゃないか。
イグナーツは数秒間、言葉を失ったあとで、ようやく口を開いた。
「……君は、怒っていないのか」
「怒っていません」
これは本当のことだった。
菜月の記憶が戻る前のエレーナなら、泣いていたかもしれない。
でも今は不思議と、怒りより先に静けさがある。
「悲しんでいないのか」
「悲しんでいないと言えば嘘になります」
エレーナはゆっくり続けた。
「でも、それよりもずっと――少しだけ、ほっとしています」
イグナーツが黙った。
ミリアが顔を上げて、複雑な顔でエレーナを見た。
「ほっと、って……」
「わたくしは長年、この婚約にしがみついていたんだと、今気づきました」
エレーナはていねいに言った。
「あなたに愛されたかったからではなく――そうしないといけない、と思っていたから。でも正直に言えば、イグナーツ様が本当に好きだったかと問われると、そうでもなかった気がしています」
これも、記憶が戻ったことで初めてわかったことだった。
エレーナとして生きてきた十七年間の中に、確かにあった感情。
婚約者への淡い期待と、それ以上の、漠然とした孤独感。
「好き」と「安心」を混同して、どこかずっと、自分をごまかしてきた。
「……俺は、」
イグナーツがなぜか、ひどく居心地悪そうな顔をした。
「君はもっと、怒ればいい」
「なぜですか」
「その方が、俺がやりやすい」
エレーナはしばらく考えてから、ほんの少し、笑った。
「申し訳ありませんが、あなたのやりやすさに付き合ってあげる義理は、もうないんです」
帰りの馬車の中、エレーナはひとりだった。
窓から流れていく春の街並みを見ながら、ゆっくりと息を吐く。
(整理しよう)
今わかっていること。
一、自分は「神崎菜月」という名の日本の女子高生だった。受験勉強のしすぎで心臓が止まって死んだ。
二、転生先は「アシュワール帝国」の伯爵家次女・エレーナ。
三、エレーナは生まれながらに「呪い」を持つとされており、社交界での評判は芳しくない。
四、婚約者に愛人を作られ、婚約破棄された。定番の展開だ。
そして、五。
(私の「呪い」は、魔力封印だと言われている)
これが今まで謎だったのだが――前世の記憶が戻った瞬間から、体の奥で何かが満ちていくような感覚がある。
川の上流から水が押し寄せてくるような、じわじわした圧力。
魔力、というやつかもしれない。
エレーナは手のひらを広げて、じっとそれを見つめた。
魔力は目に見えるわけではないけれど、手のひらの内側がほんのり熱い。
(封印が、解けた?)
婚約破棄のショックで前世の記憶が戻った。
その衝撃が封印を破ったとしたら――
(それはちょっと、大変なことになるかもしれない)
菜月、じゃなかった、エレーナは少し考えてから、まあいいか、と思うことにした。
大変なことになっても、なんとかなる。
前世で培った知識と、今世で身につけたエレーナとしての経験がある。
ふたつ分の十七年が、今の自分を作っている。
それは、案外悪くない武器じゃないか。
馬車が揺れた。
窓の外で、街路樹の白い花びらが舞った。
(そうだ。まず何がしたいか、考えよう)
前世の菜月は、勉強が好きだった。
歴史が特に好きだった。
「なぜこうなったのか」を追うことが、パズルを解くみたいで楽しかった。
ただ、それはほとんど義務感に近かった。
純粋に「楽しい」と感じたことは、正直あまりなかった。
今世のエレーナには、魔力がある。
それを使って――何かできるかもしれない。
何が、かはまだわからない。
でもそれを考えるだけで、なぜか胸の奥がほんの少し、明るくなる気がした。
(これ、もしかして楽しみ、っていう感覚か)
前世ではずっと後回しにしてきた感情だった。
アシュフォード邸に帰ると、父・アンドレアスが書斎で待っていた。
縦にも横にも大きな体をした、口数の少ない父だ。
母はエレーナが五歳のときに流行病で亡くなっており、父とエレーナのふたりが、この屋敷の家族だった。
「どうだった」
父は書類から目を上げずに言った。
「婚約破棄されました」
「……そうか」
また書類に目を落とした父の横顔を、エレーナはしばらく観察した。
悲しんでいる、というよりも、予期していた、という顔だ。
前世の記憶が戻る前のエレーナなら、きっとそれに傷ついていた。
知っていたなら、なぜ止めてくれなかったのか、と。
でも今は違う。
この父は、不器用なりに娘を守ろうとしてきた人だ、という記憶が、ちゃんとエレーナの中にある。
だからこその無言なのだ、と――なんとなく、わかる。
「お父様」
「なんだ」
「私に、少し時間をいただけますか。これからのことを、考えたいので」
父がようやく顔を上げた。
灰色の目が、エレーナをまっすぐに見た。
「……何か変わったか、エレーナ」
「変わりました」
エレーナは静かに言った。
「ずっと眠っていた何かが、今日、目覚めた気がします」
父の表情が、かすかに揺れた。
それは驚きではなかった。
むしろ――覚悟を決めた人間が、ある知らせを聞いたときの顔に似ていた。
「……少し、待ってくれ」
その声に、かすかな温度があった。
エレーナは小さく頷いた。
自室に戻り、ベッドに横になって天井を見上げながら、エレーナは静かに考えた。
(今世では、自分のために生きよう)
前世では、誰かの期待を背負って死んだ。
今世では、「呪われた令嬢」というレッテルを剥がすために生きてきた。
どちらも、自分以外の何かに振り回された十七年間だ。
でも、これからは違う。
婚約者がいなくなった。
それは確かに痛手かもしれないけれど、同時に――自由になった、ということでもある。
大げさじゃなく、そう思えた。
(何がしたいか、か)
頭の中でリストアップする。
これは菜月として生きていた頃の癖だ。
何かを考えるとき、箇条書きにして整理する。
一、帝国の歴史と地理を把握する。(菜月の知識でカバーできる部分と、できない部分がある)
二、魔力について調べる。(封印が解けたなら、早めに制御を覚えないと危ない)
三、今後の生活について、父と話し合う。(婚約破棄後の令嬢がどういう立場に置かれるのか、確認が必要)
それから、四番目を書きかけて、止まった。
四、楽しいことを、見つける。
なんだか、書いていて照れくさかった。
義務でも勉強でもなく、楽しいことを探す、なんて。
前世の自分には似合わない言葉だ。
でも。
(書いておこう)
人生で一度も書いたことのない類の目標だったけれど、今日から始める分には、遅くはないはずだ。
意識を集中する。
手のひらに力を込めるでもなく、ただそっと、体の奥にある「熱」に意識を向けた。
すると。
「……あ」
指先から、ちいさな光の粒が零れた。
手のひらに舞い降りて、またすぐに消えた。
ほんの一瞬だけ、夜の砂浜みたいに、静かにきらめいた。
(魔法、というやつか)
エレーナはじっとその手のひらを見つめた。
菜月として生きた十七年間に、魔法なんてものは存在しなかった。
でも今、自分の手の中に確かにある。
それもこんなに自然に、何の詠唱もなしに。
(なんで、こんなに普通に、できたんだろう)
不思議だった。
でも不安じゃなかった。
むしろ、心地よかった。
ベッドの上で、エレーナはひとり、子供みたいに笑った。
それは誰かのために作った笑顔じゃなかった。
誰も見ていない、誰にも見せる必要のない、本当に久しぶりの、自分だけの笑いだった。
廊下で、足音が止まった。
扉の向こうで、誰かが立ち止まっている。
だがエレーナはそれに気づかなかった。
指先の光に夢中で、初めてずっと、自分の力のことだけを考えていた。
廊下の暗がりの向こうから、低く、掠れた声が漏れた。
「――封印が、解けた」
それはエレーナには聞こえなかった。
だがその声の持ち主は――長い廊下のどこかで、扉の向こうの気配を確かめるように、しばらくそこに立っていた。
やがて、もう一度だけ呟く。
「十七年、か」
声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、長い時間をかけてようやく追いついたものへの、静かな確信があった。
足音が、遠ざかっていく。
エレーナの部屋の中では、指先の光がまた一粒、生まれて、消えた。




