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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第五章 尾曳落城(後編)

本丸裏の葦原へ足を踏み入れた瞬間、戦の喧騒がわずかに遠のいた。


だが、それも束の間だった。


からっ風は、なおも燃え盛る尾曳城の炎をあおり続けている。


火の粉が夜空を舞い、黒い城沼へ赤い雨のように降り注いでいた。


背後では、櫓が崩れ落ちる轟音が響く。


祖父・照光が築き上げた尾曳城は、今まさに炎の中へ沈もうとしていた。


「急げ。」


老臣が低く命じる。


「敵も間もなくこちらへ回る。」


先頭へ立った案内役が、葦をかき分けて進み始めた。


そこには道などない。


あるのは、水とも泥ともつかぬ黒い沼だけだった。


赤井一族だけが知る、生きるための道。


照光が若き日に幾度も歩き、自ら確かめた命の道である。


「鎧を捨てよ。」


老臣の命に従い、武士たちはためらいなく大鎧を脱いだ。


重い具足は、そのまま泥へ沈める。


家伝の甲冑を置いていく者もいた。


涙を浮かべながら兜へ手を合わせる者もいた。


それでも誰一人、振り返らなかった。


生きるためだった。


文六もまた、肩当てを外し、籠手を解いた。


残したのは刀一本。


祖父から受け継いだ短刀だけを懐へ収める。


「参る。」


文六が一歩踏み出す。


ずぶり、と。


冷たい泥が足首を呑み込んだ。


二歩目。


三歩目。


場所によっては膝まで沈む。


少しでも踏む場所を誤れば、そのまま腰まで落ちる。


沼は敵味方を区別しない。


祖父が言った通りだった。


泥は盾であると同時に、油断した者すべてを呑み込む。


夜の水は骨まで冷えていた。


傷を負った兵たちは歯を食いしばり、声も上げずに歩き続ける。


老人は若者の肩を借りる。


若者は子どもを背負う。


誰一人、仲間を置いていかなかった。


その姿を見て、文六は胸の奥が熱くなるのを感じた。


これこそが赤井だった。


城ではない。


人だった。


照光が守れと言い遺したものが、今、自分の目の前を歩いている。


そのときだった。


背後から歓声が上がる。


上杉勢が本丸へなだれ込んだのだ。


炎はさらに高く吹き上がる。


からっ風を受けた火柱は、夜空を真昼のように赤く染め上げていた。


文六は思わず振り返る。


尾曳城。


生まれ育った城。


祖父と語り合った櫓。


幼い日に駆け回った庭。


すべてが炎に包まれている。


胸が締めつけられた。


だが、その瞬間。


老臣の声が飛ぶ。


「殿!」


文六は前を向いた。


もう振り返らない。


生きる者には、前しか残されていなかった。


やがて一行は、小さな築山へたどり着く。


そこには、小さな祠がひっそりと建っていた。


尾曳稲荷。


照光が毎朝欠かさず手を合わせていた社である。


文六は泥水へ膝をついた。


冷たい水が膝を包む。


「稲荷よ……。」


掠れた声が漏れた。


「祖父へ、この地を授けたのは……お前ではなかったのか。」


返事はない。


風だけが吹く。


「ならば、なぜ奪う。」


静寂。


「なぜ……。」


そのときだった。


祠の脇の築山へ、一匹の白狐が姿を現した。


燃え盛る尾曳城を背に、静かに立っている。


白い毛並みは泥に汚れ、長い尾も煤に黒く染まっていた。


神の使いさえ、泥と炎から逃れることはできない。


白狐は、ただ文六を見つめている。


責めるでもない。


慰めるでもない。


ただ静かに。


文六は、小さく笑った。


涙とも笑みともつかぬ表情だった。


「そうか。」


泥だらけになった掌を見る。


「お前まで……泥にまみれたか。」


白狐は一度だけ尾を揺らした。


そして闇の中へ音もなく消えていく。


その姿は、祖父・照光の背中と重なって見えた。


「参りましょう。」


老臣が静かに促した。


文六は立ち上がる。


もう涙は流れていなかった。


どれほど歩いただろう。


夜明けが近づく頃、一行はようやく対岸へたどり着いた。


泥だらけの身体を土へ投げ出す。


誰もが疲れ果て、言葉を失っていた。


文六だけが、ゆっくりと立ち上がる。


朝焼けの向こう。


尾曳城はなお燃えていた。


櫓も。


門も。


屋敷も。


祖父が築いた城も。


すべてが炎の中へ消えていく。


文六は、その光景を黙って見つめ続けた。


祖父の声が聞こえる。


――城は焼けても築き直せる。


文六は静かに首を振った。


「違う……。」


城は築ける。


だが、この夜だけは二度と戻らない。


命を落とした家臣。


焼けた村。


泣き叫ぶ子どもたち。


失われた故郷。


それらは決して元には戻らない。


文六は足元の泥を拾い上げた。


冷たいはずの泥は、不思議なほど温もりを宿していた。


祖父が愛した泥。


赤井が生き抜いてきた泥。


その泥を強く握り締める。


「私は諦めぬ。」


風が吹く。


泥が指の間からこぼれ落ちる。


「必ず戻る。」


燃え落ちる尾曳城をまっすぐ見据える。


「この尾曳へ。」


それは若き城主の誓いだった。


故郷を取り戻す。


赤井の旗を、もう一度この地へ立てる。


その願いだけが、文六を立たせていた。


だが、その誓いは歳月とともに姿を変えていく。


子へ。


孫へ。


さらに、その先の子孫へ。


「失われた尾曳を取り戻す」という願いは、一族の悲願となり、やがて血に刻まれた宿命となって受け継がれていく。


この夜。


館林の泥の中で生まれた誓いは、時を経て執念となった。


その執念は、百年を超えてなお、赤井一族の胸で燃え続けることになる。


朝日が昇り始める。


燃え落ちた尾曳城から立ち上る黒煙は、冬空へ細く伸びていた。


その煙を見つめる文六の瞳には、涙はなかった。


燃えていたのは城ではない。


その胸に宿った、決して消えることのない帰郷の炎だった。

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