第五章 尾曳落城(前編)
からっ風は、容赦を知らなかった。
山から吹き下ろした乾いた風は、燃え始めた尾曳城の火をたちまち巨大な業火へと変えていく。
火は屋根から屋根へ飛び移り、葦葺きの家々を一瞬で呑み込んだ。
爆ぜる梁。
崩れ落ちる土壁。
無数の火の粉が夜空へ舞い上がり、赤く染まった城沼へ降り注ぐ。
黒かった水面は炎を映し込み、血のような深紅に揺れていた。
まるで沼そのものが燃えているかのようだった。
「殿!」
本丸へ、煤まみれになった老臣が駆け込んでくる。
肩で息をし、甲冑は泥と血で黒く染まっていた。
「南門は破られました!」
「敵兵、二の丸を突破!」
「三の丸は火の海にございます!」
報せが入るたび、城内の叫びは近づいてくる。
勝鬨。
悲鳴。
鉄と鉄がぶつかり合う音。
そのすべてを、からっ風が一つに混ぜ合わせていた。
文六は静かに立ち上がる。
炎の向こうには、祖父・照光が築いた尾曳城があった。
泥を盛り。
沼を掘り。
三十余年を費やして築き上げた、赤井一族の城。
その城が今、燃えている。
文六は刀を抜いた。
赤く染まった刃が、炎を映して揺れる。
「本丸の守備兵を集めよ。」
「ここで敵を食い止める。」
老臣が息を呑んだ。
「殿!」
「女子供は裏の逃げ道へ。」
「負傷者も置いていくな。」
文六の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「敵が本丸へ迫る前に、一人でも多く城外へ出せ。」
「そのための時間は、私が稼ぐ。」
側近たちは顔を見合わせた。
誰も異を唱えられない。
城主自ら殿軍となる。
それは武士として当然の覚悟だった。
老臣が一歩前へ出る。
「ならば、わしも。」
「いや。」
文六は首を振った。
「そなたには、一族を導いてもらう。」
「殿!」
「祖父上は申された。」
文六は炎の向こうを見つめた。
「城を守れとは言わぬ。」
「人を守れ、と。」
老臣の目が大きく見開かれる。
若き城主は、祖父の教えを忘れてはいなかった。
「ここで私が敵を引き受ければ、皆は逃げられる。」
「それでよい。」
しかし。
老臣はゆっくりと首を横へ振った。
「違います。」
文六が振り向く。
「照光様がお守りになれと申されたのは、一族だけではございませぬ。」
老臣は震える声で続けた。
「殿、あなた様でございます。」
その言葉に、文六は息を止めた。
「赤井を継ぐのは、殿でございます。」
「殿が討たれれば、一族はいずれ散ります。」
「この城は失われても、赤井は終わりませぬ。」
「ですが――。」
老臣は深く頭を下げた。
「殿を失えば、本当に終わるのでございます。」
沈黙が流れた。
外では、火の勢いがさらに増している。
からっ風は容赦なく炎を育て、本丸の屋根まで火の粉を運んできた。
一枚。
また一枚。
焼けた板が夜空へ舞い上がる。
文六は静かに目を閉じた。
祖父の顔が浮かぶ。
『迷わず、人を取れ。』
あの日。
病床で聞いた声は、今も耳の奥に残っている。
人とは、一族だけではない。
赤井家そのものだった。
自分もまた、その中の一人なのだ。
文六は長く息を吐いた。
そして刀を鞘へ納める。
「……分かった。」
誰も口を開かない。
「全軍。」
文六は振り返った。
「順に退け。」
「女子供を先に。」
「負傷者を中央へ。」
「健脚の者は最後尾につけ。」
「敵へは私が最後まで当たる。」
老臣たちの目に涙が浮かんだ。
それは敗走の命令だった。
だが、敗北ではない。
赤井の血を未来へ残すための命令だった。
「急げ!」
怒号とともに、一族と家臣たちが本丸裏へ動き始める。
城はなお燃え続ける。
からっ風は火をさらにあおり、尾曳城全体を巨大な松明へ変えようとしていた。
文六は最後に一度だけ振り返る。
祖父が築いた城。
自らが守り抜くと誓った城。
その姿を、瞳に焼き付けるように見つめた。
「必ず……。」
小さく呟く。
「必ず帰る。」
その言葉だけを胸に、若き城主は本丸裏の葦原へ向かって歩き出した。
その先に待つのは、赤井一族だけが知る「泥の道」。
命をつなぐ、最後の退路だった。




