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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第四章 軍神、泥を駆ける(後編)

翌日。


上杉勢は攻めてこなかった。


太鼓も鳴らない。


法螺貝も響かない。


敵兵たちは陣に留まり、ただ尾曳城を見つめていた。


三日目も同じだった。


四日目になっても、一兵たりとも泥へ踏み込んでこない。


城兵たちは首をかしげた。


「恐れをなしたのではないか」


「越後へ逃げ帰る機を探しておるのだ」


そんな声さえ上がった。


だが、文六の不安は深まるばかりだった。


敵は、何もしていないのではない。


見えない場所で、すでに次の手を打っている。


そのことは、間もなく明らかになった。


城の周囲に点在する村や小さな砦が、上杉の別働隊に次々と押さえられ始めたのである。


城へ物資を運ぶ水路が塞がれた。


沼を渡るための平底舟も奪われた。


夜陰に紛れて城へ入ろうとした商人は捕らえられ、戻ってこなかった。


さらに上杉勢は、土地の猟師や漁師を集め、沼の深さを調べ始めた。


どこが底なしなのか。


どこに浅瀬があるのか。


どの水路が城へ通じているのか。


北風が吹けば、舟はどちらへ流されるのか。


赤井家の者だけが知っていたはずの泥の道筋が、一つずつ暴かれていった。


捕らえられた村人たちは、殺されなかった。


上杉輝虎は村々へ触れを出した。


上杉に従う者の所領と暮らしは守る。


刃向かわぬ者には危害を加えない。


食を求める者には、米を与える。


その噂は、からっ風よりも速く領内へ広まった。


戦に怯え、年貢に苦しんでいた領民たちにとって、上杉勢は恐ろしい侵略者であると同時に、秩序をもたらす新たな支配者にも見えた。


昨日まで赤井家へ仕えていた者が、今は上杉の陣で沼の道を教えている。


舟を隠していた漁師が、米一俵と引き換えに水路の秘密を明かす。


文六は物見からの報告を聞き、拳を震わせた。


「土地を知る者を、味方につけたのか……」


軍神は、泥を埋めようとはしなかった。


力ずくで踏み越えようともしなかった。


泥を知る人間を取り込み、その目と足を借りようとしている。


祖父・照光が自然の声を聞いたように、上杉輝虎もまた、この土地に生きる者たちの声を聞こうとしていた。


しかも、赤井家よりもはるかに大きな力と、豊かな褒美をもって。


やがて敵の手は、城壁の内側へも伸びた。


夜になると、城内のあちこちで密書が見つかるようになった。


――今降れば、命は助ける。


――所領も家名も認める。


――若い城主と運命を共にする必要はない。


誰が持ち込んだのかは分からない。


足軽の詰所に置かれていることもあれば、重臣の部屋の前へ差し込まれていることもあった。


文六が廊下を通ると、それまで続いていた話し声がぴたりと止まる。


目を合わせようとしない者も増えた。


昨日まで共に戦った者が、今日は敵へ通じているかもしれない。


疑いは、城の中を病のように巡った。


一人が疑えば、隣の者も疑う。


誰かが夜中に厠へ立っただけで、密使と会っていたのではないかと噂される。


勝利に沸いていた城から、笑い声が消えた。


上杉兵は、まだ城内へ一歩も踏み込んでいない。


それでも尾曳城は、すでに内側から崩れ始めていた。


月のない夜だった。


からっ風は昼よりも勢いを増し、城の屋根や戸板を絶え間なく鳴らしていた。


城内が寝静まった頃。


三の丸から、突然、火の手が上がった。


「火事だ!」


見張りの叫びが闇を裂く。


鐘を鳴らそうと兵が走る。


火は乾いた風にあおられ、たちまち葦葺きの建物へ燃え移った。


その直後。


城の南側から、重い木が軋む音が響いた。


ぎい、と。


固く閉ざされていた城門が、ゆっくりと開いていく。


「なぜ門が開く!」


「敵だ!」


「違う!」


誰かが絶叫した。


「内からだ! 裏切り者が門を開けたぞ!」


門の外で、幾百もの松明が闇を埋めた。


待ち構えていた上杉勢が、一斉に城内へなだれ込んでくる。


先頭には、土地の者らしい案内人がいた。


彼らは泥の浅い場所を選び、赤井方の仕掛けを避け、最短の道を通って城門へ達していた。


昼には軍神の兵を呑み込んだ城沼が、今は何の役にも立たない。


裏切ったのは、泥ではない。


泥の道を知る人間が、敵へ道を渡したのだ。


城内は、たちまち混乱へ陥った。


火を消そうとする者。


門へ駆ける者。


上杉方へ寝返り、味方へ刃を向ける者。


誰が敵で、誰が味方なのか。


闇と炎の中では、その区別さえつかなかった。


本丸の縁側に立ち、文六は燃え上がる三の丸を見つめていた。


味方同士が斬り合う声が聞こえる。


女や子供の悲鳴も混じっている。


その光景を前にして、文六はようやく大国の本当の恐ろしさを知った。


兵の数ではない。


武勇でもない。


相手の心へ入り込み、恐れと欲を膨らませ、昨日まで一つだった者たちを敵と味方へ分けてしまう力。


石垣も堀も越えずに、城を内側から開かせる力。


それこそが、大国の戦だった。


「軍神め……」


文六は乾いた笑いをこぼし、腰の刀を抜いた。


刃が炎を映し、血のように赤く輝く。


「泥を駆けたのではない」


からっ風に運ばれた火の粉が、文六の周囲を舞った。


敵兵の足音が近づいてくる。


「人の心の隙という浅瀬を、渡ってきたか」


祖父が築いた尾曳城は、いま燃えている。


受け継いだ城。


守るべき土地。


赤井一族の誇り。


そのすべてが、炎の向こうで崩れようとしていた。


だが、不思議と文六の心は静かだった。


――城を守れとは言わぬ。


――人を守れ。


――城と人を天秤にかけるな。


――迷わず、人を取れ。


祖父の最期の言葉が、胸の奥によみがえる。


文六は振り返った。


本丸には、まだ一族の者たちがいる。


女子供がいる。


最後まで付き従う家臣たちも残っている。


ここで討ち死にすることは容易い。


刀を振るい、敵陣へ斬り込み、赤井の名を叫びながら果てればよい。


武士らしい最期であったと、後世には語られるかもしれない。


だが、それでは一族が終わる。


文六は刀を握り直した。


「老臣どもを集めよ」


側近が息を切らして駆け寄ってくる。


「殿、敵はすぐそこまで――」


「分かっている」


文六は炎の向こうを睨んだ。


「ここで死ぬことだけが、意地ではない」


城ではなく、人を残す。


一人でも多く逃がす。


たとえ泥にまみれ、敵へ頭を下げる日が来ようとも、赤井の魂まで渡してはならない。


「一族の者を、本丸裏の葦原へ向かわせよ」


「はっ」


「動けぬ者は背負え。負傷者も置いていくな」


側近が頭を下げ、走り去った。


文六は迫り来る上杉勢へ向け、刀を掲げた。


「赤井山城守が孫、赤井文六!」


声が燃える城内へ響き渡る。


「尾曳の泥に生きる者の意地、とくと見よ!」


若き城主の号令とともに、赤井の兵たちは最後の防戦へ動き出した。


それは、城を守り抜くための戦ではなかった。


一族と領民を逃がし、赤井の血を次の時代へ残すための戦だった。


からっ風にあおられ、炎はさらに勢いを増していく。


燃え上がる尾曳城の上で、「毘」の旗が夜風にはためいていた。


軍神は泥を越えた。


だが、泥に生きる一族の魂までは、まだ屈していなかった。


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