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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第四章 軍神、泥を駆ける(前編)

永禄五年――一五六二年二月。


上州の冬は、まだ終わっていなかった。


山から吹き下ろすからっ風が、館林の平野を容赦なく駆け抜けていた。


田畑を覆う霜を巻き上げ、葦原を白く波立たせ、尾曳城の板壁を激しく鳴らす。


沼の水は鉛のように冷たく、日陰には薄い氷さえ残っている。


春の気配など、どこにもなかった。


だが、その凍える大地を揺るがす地響きが、北から近づいていた。


越後の軍神が動いたのである。


長尾景虎――上杉の名跡と関東管領職を継ぎ、輝虎と名乗った若き武将。


のちに「謙信」の名で天下へ知られる男は、大軍を率いて三国峠を越え、雪崩のような勢いで関東へなだれ込んだ。


立ちはだかる国衆を従え、拒む城には兵を差し向ける。


上杉勢は、北から南へ。


一城、また一城と進んできた。


やがて尾曳城の物見櫓からも、地平を埋め尽くす旗の群れが見え始めた。


「敵勢、なおも増えております!」


物見の兵が、からっ風に負けじと声を張り上げる。


数千か。


いや、万を超えているのか。


もはや数えることに意味はなかった。


城沼を挟んだ対岸へ、黒々とした軍勢が次々に陣を敷いていく。


無数の槍。


無数の旗指物。


風にあおられた陣幕が、獣の腹のように膨らんでは縮んでいた。


その中央に、ひときわ高く掲げられた一旒の白旗がある。


大きく染め抜かれた一文字。


――毘。


毘沙門天の加護を示す、軍神の旗印だった。


白旗は、からっ風を受けて激しくはためいている。


その様子を、赤井文六は櫓の上から黙って見つめていた。


知らず、拳に力がこもる。


爪が掌へ食い込むほど握り締めても、身体の奥から湧き上がる震えは止まらなかった。


寒さのためだけではない。


祖父・照光が世を去って、まだ数年しか経っていない。


文六は元服し、赤井家の当主となっていた。


幼さの残っていた顔にも、いつしか城主としての厳しさが刻まれ始めている。


それでも、相手は関東中へ名を轟かせる上杉輝虎である。


若き城主が初めて対峙するには、あまりにも巨大な敵だった。


文六は櫓を下りた。


広場には、城を守る将兵たちが集まっている。


皆、口を固く結んでいた。


誰もが、沼の向こうに翻る「毘」の旗を見ている。


家臣たちの顔にも、隠し切れない不安があった。


文六は大きく息を吸った。


冷たい風が肺へ入り込み、胸の奥が痛んだ。


それでも声を張り上げる。


「怯むな!」


将兵たちの視線が、一斉に文六へ向いた。


「敵は越後の者だ。この沼を知らぬ!」


文六は城沼を指した。


冬枯れの葦が、からっ風の中で一斉に身を伏せている。


「兵の数がどれほど多かろうと、踏み込める道は限られている!」


「祖父上が築いた尾曳の縄張りを信じよ!」


一瞬の沈黙。


やがて老臣の一人が、槍の石突きを地面へ打ちつけた。


「おおっ!」


それを合図に、槍の穂先が一斉に天を突いた。


尾曳城を揺るがす鬨の声が、寒々しい沼へ響き渡る。


その声に背を押されるように、文六も刀の柄を握り締めた。


近くに控えていた老臣だけは気づいていた。


若き城主の叫びが、家臣たちだけでなく、自らを奮い立たせるためのものでもあったことを。


翌朝。


夜明けとともに、上杉勢が動いた。


太鼓が鳴る。


法螺貝が響く。


からっ風に乗った音が、沼を越えて尾曳城へ押し寄せた。


先陣の兵たちは槍を揃え、城沼の湿地へ向かって進み始める。


その攻め方は、驚くほど堂々としていた。


小細工もない。


迂回する素振りもない。


尾曳城の正面へ向かい、一直線に押し寄せてくる。


「進め!」


上杉方の武将が采配を振った。


「小城一つに手間取るな! 毘沙門天の御威光を示せ!」


上杉兵が鬨の声を上げ、冬枯れの葦原へ踏み込んだ。


最初の一歩は、何事もなかった。


二歩。


三歩。


先頭の兵が、不意に足を止めた。


「なっ――」


草の生えた地面に見えていた足元が、ぐらりと沈んだ。


次の瞬間、兵の脚が膝まで泥へ呑み込まれる。


「泥だ!」


「足が抜けぬ!」


「止まれ! 後ろから押すな!」


だが、後続には聞こえない。


勢いのまま押し寄せた兵が、先頭の者へ次々とのしかかる。


狭い湿地で隊列が崩れた。


兵たちは味方の槍や肩へすがりつき、折り重なるように倒れていく。


磨き上げられた具足が、たちまち黒い泥にまみれた。


「今だ!」


城壁の上で、文六が軍配を振り下ろす。


葦の陰に伏せていた赤井の兵たちが、一斉に立ち上がった。


弓弦が鳴る。


無数の矢が冬空を覆い、泥濘でもがく上杉兵へ降り注いだ。


盾を構えようにも、足が動かない。


逃げようにも、背後には味方が詰まっている。


矢を受けた兵が悲鳴を上げ、次々と泥の中へ倒れた。


続いて、赤井家が備えていた数挺の鉄砲が火を噴いた。


轟音。


白煙。


からっ風に流された煙が葦原を包み、泥水の上へ血が広がっていく。


一方、別の上杉勢は、城へ続く細い木道を見つけていた。


「道があるぞ!」


騎馬武者たちが叫び、次々と木道へ乗り入れる。


乾いた板の上で、馬蹄が激しく鳴った。


先頭が木道の中央へ差しかかったとき。


葦の陰に潜んでいた赤井の足軽たちが、太い縄へ刃を当てた。


「切れ!」


縄が断たれる。


木道を支えていた横木が外れ、床板が大きく傾いた。


「罠だ!」


叫びが上がったときには、すでに遅かった。


人も馬も折り重なるように沼へ落ちていく。


重い具足をまとった武者は浮かび上がれず、黒い泥水の中で激しく手を振った。


馬のいななき。


兵の悲鳴。


水を叩く音。


それらの声さえ、吹き荒れるからっ風に引き裂かれていく。


やがて上杉勢は、退き鉦を鳴らした。


緒戦は、赤井方の勝利だった。


夕刻。


上杉軍が引いていくのを見届けると、尾曳城内は歓声に包まれた。


「勝ったぞ!」


「軍神とて、尾曳の泥には勝てぬ!」


「尾曳城は落ちぬ!」


兵たちは肩を叩き合い、わずかな酒を回して勝利に沸いた。


だが、本丸の文六だけは笑わなかった。


冷たい板敷きに座り、沼の向こうに残る上杉の陣を見つめている。


上杉勢は大きな被害を出した。


それでも陣を畳む気配はない。


乱れもない。


兵を退かせた後も、陣は不気味なほど整然としていた。


「殿。我らの勝ちにございます」


老臣が声をかけた。


文六は答えなかった。


あまりにも、攻め方が素直すぎた。


敵将が本当に愚かならばよい。


だが、あの上杉輝虎が、尾曳城の地形も調べず、ただ兵を泥へ投げ込んだとは考えにくい。


「まるで……」


文六は、小さく呟いた。


「こちらの仕掛けを、見せろと言わんばかりではないか」


からっ風が本丸を吹き抜け、戸板を大きく鳴らした。


勝利の歓声が響くなか、文六の胸には、氷のように冷たい不安が広がっていた。

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