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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第三章 境界の静寂

歳月は、音もなく人を変えていく。


かつて館林の沼地を歩き回り、自ら鍬を握って尾曳城を築いた赤井山城守照光も、すでに老境を迎えていた。


黒々としていた髪は雪のように白くなり、頑健だった背も、いまではわずかに曲がっている。


かつて大弓を引いた腕は細り、歩くときには漆塗りの杖が欠かせなかった。


それでも、照光の目だけは衰えていなかった。


城の櫓から関東の空を眺めるその眼差しには、若い頃と変わらぬ鋭さが宿っている。


だが、関東に小国の生きる余地は、年ごとに狭まっていた。


北の越後では、長尾景虎が勢力を伸ばしていた。


やがて上杉の名と関東管領職を受け継いだ若き武将は、「義」の旗を掲げ、たびたび大軍を率いて関東へ押し寄せるようになる。


西の甲斐からは、武田の軍勢が西上野をうかがっていた。


風林火山の旗の下、地を揺るがして進む騎馬武者たちの噂が、商人や旅僧の口を通じて館林にも届いていた。


そして南では、小田原を本拠とする北条氏が、国衆を一つ、また一つとその支配下へ呑み込んでいた。


上杉。


武田。


北条。


三つの巨大な勢力が牙をむく、その境目。


尾曳城は、荒れる水面に浮かぶ木の葉のような存在だった。


大国の使者が城門を叩くことも、珍しくはない。


「我らに味方せよ。戦後の恩賞は望みのままだ」


尊大に言い放つ者もいた。


「軍勢を通す。道を開けよ。拒むならば、敵と見なす」


刀の鞘を鳴らし、脅す者もいた。


「関東の大義のため、兵を出されよ」


正義を掲げて迫る者もいた。


照光は、どの使者にも柔和な笑みを向けた。


だが、決してその場で答えを与えなかった。


「兵を出したいのは山々ですが、昨年の不作で領内は疲弊しております」


あるときは、そう言って頭を下げる。


「道をお貸しすることに異存はございませぬ。しかし、このところ雨が続き、沼へ軍馬を入れるのは危険かと」


あるときは、天候を理由に話を逸らす。


承知したとも言わない。


拒んだとも言わない。


曖昧な言葉と、底の読めぬ笑み。


それこそが、小さな赤井家が大国の間で生き残るための戦だった。


周囲の国衆たちは、そんな照光を老獪だと嘲った。


だが、どの勢力も尾曳城へ兵を進めようとはしなかった。


彼らが恐れていたのは、照光の知略だけではない。


城の周囲に広がる、深い沼だった。


どこまでが道で、どこからが底なしなのか。


土地の者にしか分からない城沼は、大軍であればあるほど、その足を縛る。


尾曳城には高い石垣もなければ、巨大な天守もない。


それでも大国の軍勢をためらわせる、目に見えぬ壁を持っていた。


その壁は泥だった。


---


政務の合間を縫って、照光は孫の文六をたびたび城沼へ連れ出した。


文六は、早世した照光の息子の忘れ形見である。


まもなく元服を迎える年頃となり、弓や馬にも優れ、家臣たちから将来を期待される若者へ成長していた。


ある秋の夕暮れ。


二人は葦の生い茂る沼のほとりに立っていた。


冷たい風が吹くたび、無数の葦がさわさわと音を立てる。


足元には、陸とも水ともつかぬ黒い泥が広がっていた。


照光は杖の先で泥を突いた。


ぽこりと泡が浮かび、湿った土の匂いが立ち上る。


「文六」


「はい」


「この泥を、どう思う」


文六は眉を寄せた。


「どう、と申されましても……」


しばらく考えた末、正直に答えた。


「汚いものだと思います。足袋も袴も、入れば泥だらけになります」


「それだけか」


「足を取られます。馬で踏み込めば、進むことも退くことも難しくなりましょう」


「他には」


照光は、もう一度尋ねた。


文六は黙り込んだ。


祖父がただ感想を求めているのではないことは分かっている。


夕日に照らされた沼を、じっと見渡した。


煌びやかなものは何一つない。


ただ濁った水と、黒い泥と、風に揺れる葦がある。


やがて文六は顔を上げた。


「敵も、足を取られます」


照光の口元に笑みが浮かんだ。


「そうだ」


杖を泥へ深く突き刺す。


「都の者も、大国の武者も、この泥を嫌う。立派な甲冑が汚れるからだ。名のある武将ほど、泥の中を這い回ることを恥だと思う」


「はい」


「だが、我らは違う」


照光は、自らの泥に汚れた足袋を見下ろした。


「我らは、この泥の中で生きてきた。美しさなど、腹の足しにもならぬ。小さな国衆が生き残るためには、泥にまみれることを恐れてはならん」


「泥に、まみれる……」


「泥は弱き者の盾だ」


照光は静かに言った。


「強い者は、正面から戦いたがる。兵の数を誇り、旗の多さを見せつけ、力で押し潰そうとする」


その視線が、遠く尾曳城へ向けられる。


夕日を背負った城は、葦原の向こうで黒い影となっていた。


「だから我らは、正面から戦わぬ。勝てぬ相手と同じ戦い方をしてはならん」


「これから関東には、もっと大きな嵐が来る」


文六の表情が引き締まった。


「上杉でしょうか」


「上杉だけではない。北条も武田も、この地を欲しておる」


照光は低い声で続けた。


「いずれ、小さな家が己の名だけで立つことのできぬ世が来る。昨日は上杉に従い、明日は北条へ頭を下げる。大国の都合で旗を変えねば、生き残れぬ日も来よう」


文六は唇をかんだ。


「ならば、勝つ家に従えばよいのでは。」


少年らしい、真っ直ぐな問いだった。


「強い者へ従えば、戦を避けられるかもしれませぬ。家も領民も守れるのでは」


照光は怒らなかった。


むしろ、よく尋ねたというようにうなずいた。


「従うことは恥ではない」


「では――」


「生きるために頭を下げることもあろう。城を守るため、敵の前で笑わねばならぬ日もある。それは卑怯ではない」


照光は文六の肩へ手を置いた。


老いた手は冷たかった。


だが、驚くほど重かった。


「ただし、従いながらも、自分が何者かを忘れてはならぬ」


文六は祖父の顔を見つめた。


「北条に従っても、心まで北条のものになるな。上杉の旗を掲げても、根まで引き抜かれてはならぬ」


照光の指に力がこもる。


「我らは、館林の者だ」


「泥と水の中で生きてきた、赤井の一族だ」


「その魂だけは、誰にも渡すな」


帰り道、文六は何度も城沼を振り返った。


昼間には汚く見えた泥が、夕闇の中では、あらゆる敵を呑み込む深い淵のように見えた。


---


それから間もなく、照光は病に倒れた。


日に日に食が細くなり、起き上がることも難しくなった。


かつて巨木のようだった身体は小さく縮み、肌は土のような色へ変わっていく。


城内には重苦しい空気が満ちていた。


誰もが悟っていた。


尾曳城を築いた男の命が、尽きようとしている。


ある夜、照光は文六を枕元へ呼んだ。


部屋の中では、一本の蝋燭だけが揺れている。


「文六……近くへ」


声は、かすかだった。


文六は枕元へ進み、膝をついた。


「ここにおります、祖父上」


照光は濁った瞳を孫へ向けた。


「お前に……一つ、伝えておく」


息を整えながら、言葉を継ぐ。


「城を守れとは……言わぬ」


文六は目を見開いた。


武士であるなら、城を死守せよと言われるものだと思っていた。


「祖父上、それは、どういう――」


「人を守れ」


照光の声が、わずかに強くなった。


「城は木と土に過ぎぬ。焼かれても、奪われても、生きていれば築き直せる」


乾いた唇が、ゆっくりと動く。


「だが、人は戻らぬ。一族が絶えれば、赤井の名も、魂も、そこで終わる」


「城と人を天秤にかけるな」


「迷わず、人を取れ」


「祖父上……」


「そして、泥を忘れるな」


突然、照光の手が布団の中から伸びた。


枯れ枝のように細い指が、文六の腕を強くつかむ。


肉に食い込むほどの力だった。


「泥は、人に見捨てられた土地ではない」


照光の目に、最後の光が宿る。


「誰もが嫌い、誰もが捨てるからこそ、我らの居場所になる」


「大国がどれほど攻め寄せようとも……この泥がある限り、赤井の魂は沈まぬ」


文六は、涙をこらえながらうなずいた。


「はい」


「泥を愛せ」


「泥に生きよ」


それが、赤井照光の最後の言葉となった。


文六の腕をつかんでいた指から、ふっと力が抜けた。


細い手が、畳の上へ静かに落ちる。


長い吐息とともに、尾曳城を築いた老将の命は、夜の静寂へ溶けていった。


「祖父上……」


文六は、その手を両手で包み込んだ。


「祖父上!」


叫びは、暗い部屋の中へ虚しく響いた。


そのとき。


城の奥、尾曳稲荷の森から、一匹の狐の声が聞こえた。


コォォォン――。


夜空を裂くような、長い鳴き声だった。


それは照光の死を悼んでいるようにも聞こえた。


同時に、すぐそこまで迫る戦乱の時代を告げる、不吉な警鐘のようでもあった。


文六の頬を伝った涙が、畳へ落ちる。


その夜。


赤井文六は、もう少年ではなくなった。


そして、祖父から受け継いだ泥の教えを胸に、荒れ狂う関東の境界へ立つことになる。


尾曳城の外では、風に揺れる葦が、幾千もの兵の足音のように鳴り続けていた。

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