第二章 尾曳の縄張り
「殿は狂われたらしい。」
そんな噂が、館林の周囲を囲む国衆たちの間を駆け巡っていた。
寄合の席では酒を酌み交わしながら、誰もが赤井照光を笑った。
「よりによって沼の真ん中へ城を築くだと。」
「雨が降れば城ごと沈む。」
「敵が攻める前に、人夫が泥に呑まれるわ。」
嘲笑は日に日に大きくなった。
だが、その言葉が照光の耳に届いても、彼は少しも腹を立てなかった。
「笑わせておけ。」
ただ、それだけだった。
尾曳の普請は難航した。
百姓も足軽も腰まで泥に浸かり、丸太の杭を何百本と打ち込む。
昨日立てた杭が翌朝には傾き、土を盛れば沈み、水を塞げば別の場所から湧き出してくる。
他国から招いた普請奉行も首を振った。
「殿、この地では城は築けませぬ。」
「土が言うことを聞かぬのです。」
照光は黙って泥をすくい上げた。
掌の泥は、水を含んでゆっくりと指の間から流れ落ちる。
「ならば。」
静かな声だった。
「泥の言うことを聞けばよい。」
奉行は目を丸くした。
「泥の……ですか。」
「沼を埋めるな。」
照光は言った。
「水を敵と思うから負ける。」
その瞬間、夢で見た白狐の姿が脳裏によみがえる。
尾を引きながら湿地を歩く狐。
その足跡は、深みを避け、自然に盛り上がった微高地だけをつないでいた。
あれこそ、この土地が教えてくれた縄張りだった。
普請は大きく変わった。
沼は埋めない。
湿地はそのまま残す。
堀も新たに掘らず、自然の入り江を利用する。
郭も四角く造らず、水の流れに合わせて歪ませる。
人が歩ける場所だけに細い木道を設け、その道筋を家臣だけが覚えた。
数か月後。
館林には奇妙な城が姿を現した。
高い石垣はない。
壮麗な天守もない。
遠目には、ただの沼地にしか見えなかった。
しかし一歩踏み込めば世界は変わる。
道と思えば底なし沼。
浅瀬と思えば泥が足を吸い込み、二歩、三歩と進むうちに腰まで沈む。
正門は囮。
本当の入口は葦の奥深くに隠されている。
敵は城を見ることすらできない。
照光は静かにうなずいた。
「よい城だ。」
老臣は首をかしげた。
「これが……よい城なのでございますか。」
照光は沼を見渡した。
「強い城とは、大きな城ではない。」
「敵が戦い方を知らぬ城だ。」
「どこを攻めればよいか分からぬ城は、落としようがない。」
老臣は何も言えなかった。
完成した城の一角に、小さな祠が建てられた。
夢で縄張りを示した白狐を祀る稲荷である。
照光は自ら鍬を持ち、祠の周囲へ静かに土を盛った。
家臣たちが見守る中、照光は語る。
「狐が城を造ったのではない。」
「我らは、この土地の声を聞くことを教えられたのだ。」
その傍らには幼い孫・文六がいた。
泥だらけになった祠を見上げ、不思議そうに尋ねる。
「おじい様。」
「泥にも声があるのですか。」
照光は優しく笑った。
「ああ。」
「踏み方を誤れば怒る。」
「流れを止めれば牙をむく。」
「だが敬えば、これほど頼もしい盾はない。」
文六は目を輝かせた。
「では、この泥は赤井の家臣ですね!」
照光は首を横に振る。
「違う。」
孫の頭を撫でながら静かに言った。
「我らが泥の家臣なのだ。」
「この土地に生かされている。」
その言葉を、家臣たちは誰一人忘れなかった。
それから間もなく、館林を記録的な豪雨が襲った。
渡良瀬川は濁流となり、周囲の沼はみるみる水位を上げる。
「殿!」
近習が駆け込んだ。
「水が城まで迫っております!」
乾いた土地の城なら大騒ぎである。
だが照光は少しも動じなかった。
「案内せよ。」
外へ出る。
激しい雨。
黒い水。
轟く濁流。
だが本丸はびくともしない。
水は白狐の示した通りに流れ、低地だけを満たしていく。
城の周囲は一夜にして巨大な湖となった。
敵は近づくことさえできない。
照光は若者の肩を軽く叩いた。
「見たか。」
「これが尾曳城だ。」
「水は敵ではない。」
「最も忠実な兵なのだ。」
翌朝。
雨は嘘のように上がっていた。
朝日を浴びた尾曳城は、水面に浮かぶ島のように静かに佇んでいた。
遠巻きに眺めていた国衆たちは息を呑む。
沈むと笑っていた城は、沈むどころか、水を味方につけていた。
やがて誰も笑わなくなった。
代わりに広まったのは、一つの噂だった。
「あの泥城には手を出すな。」
「底なし沼そのものが、赤井の兵らしい。」
照光は幼い文六の手を引き、水面を眺めながら静かに言った。
「文六。」
「力で押し切るだけが戦ではない。」
「自然に逆らわず、その力を借りる者が最後に勝つ。」
文六は何も答えず、水鏡に映る尾曳城を見つめ続けた。
その光景は、やがて赤井一族三代へと受け継がれる「尾曳の知恵」の始まりとなる。
泥は城となり、水は盾となった。
そして尾曳城は、迫り来る戦国の嵐を、静かに待ち受けていた。




