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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第十章 水責めの城

天正十八年、夏。


忠家は、二十四になっていた。


荷駄方の下役から、十年近くが経っていた。


十四で忍を追われた少年は、いつの間にか、髭を剃るのを忘れる日もある男になっていた。


小田原の陣は、長い。


秀吉の大軍が、小田原城を幾重にも囲んでいる。


だが忠家のいる本多勢は、その本隊から離れ、北へ向かっていた。


武蔵国、忍城。


その名を聞いたとき、忠家の手が、一瞬止まった。


荷駄の縄を結ぶ手が。


忍。


父・文六が、館林を追われて逃げ込んだ城。


客分として迎えられながら、次第に冷遇され、藁葺きの小屋で息を引き取った、あの城。


「どうした」


平八が、馬上から声をかけてきた。


「いや」


忠家は、縄を結び直した。


「何でもない」


だが何でもないはずがなかった。


十年前、少年だった忠家を、この城の者たちは見捨てた。


その城を、今度は攻める側として見ている。


因果というのは、こういう形で回ってくるものらしい。


石田治部少輔三成が、総大将として布陣していた。


忍城は、沼と深田に囲まれた、攻めにくい城だった。


三成は、城を水で攻めることに決めたという噂が、陣中に流れた。


堤を築き、利根川と荒川の水を引き込み、城ごと沈めるのだと。


「馬鹿げている」


古参の足軽が、笑いながら言った。


「そんな堤、一月やそこらで築けるものか」


だが三成は、本当にそれをやった。


数万の人足が駆り出され、昼夜を問わず土を運んだ。


忠家たち荷駄方も、その普請に食糧と道具を運び込む役目を負わされた。


土嚢を担ぐ人足の列は、地平線まで続いているように見えた。


堤は、驚くほどの速さで伸びていった。


石田堤、と誰かが呼んだ。


全長二十八里に及ぶという、その堤を、忠家は幾度も荷駄を引いて往復した。


働きながら、忠家は城を見た。


沼田の向こうに浮かぶ、忍城。


三成の水攻めにもかかわらず、城はまだ落ちていなかった。


城主・成田氏長は小田原に詰めており、城を守っているのは、その一族の者だという話だった。


百姓や町人までもが城に籠り、女子供までもが弓矢を取っていると聞いた。


「あの城の者たちは」


忠家は、ある夜、平八に尋ねた。


「なぜそこまでして守る」


平八は、焚き火の向こうで、しばらく黙っていた。


「守るものが、あるからだろう」


短く、それだけ言った。


守るもの。


忠家には、それがなかった。


館林を追われ、忍を追われ、あちこちを渡り歩いてきた忠家には、命がけで守るべき土地というものが、どこにもなかった。


そのことに、今さらのように気づいた。


堤が完成し、水が引き込まれた夜。


轟音とともに、水が沼田になだれ込んだ。


だが城は、沈まなかった。


沈んだのは、城を囲む味方の陣地の方だった。


堤の一部が、水の勢いに耐えきれず崩れた。


濁流が、寄せ手の陣を襲った。


忠家は、荷駄の馬を必死に引いて、高台へ逃げた。


叫び声と、水音と、馬のいななきが、闇の中で入り混じった。


翌朝、水が引いた跡には、流された兵の亡骸がいくつも転がっていた。


城は、びくともしていなかった。


沼の向こうに、変わらず佇んでいた。


まるで、水の攻めなど最初からなかったかのように。


忠家は、その光景を見て、ふと父のことを思った。


文六もまた、この城の水と泥に、何かを飲み込まれたのかもしれない。


城そのものではなく、城を取り巻く、この土地の意地のようなものに。


小田原城が、やがて開城したという報せが届いた。


北条氏が滅び、天下は秀吉のものとなった。


忍城も、それを受けて、程なく開城した。


水では落ちなかった城が、主家の滅亡によって、静かに明け渡された。


忠家は、開城の行列を、遠くから眺めた。


城を出て行く者たちの中に、かつて父を冷遇した者の顔があるのかどうか、忠家にはわからなかった。


わかったところで、どうにもならないことだった。


ただ、ひとつだけ、忠家の胸に残ったことがあった。


守るものがある者は、水攻めにも落ちない。


守るものがない者は、流される。


自分は、これから何を守って生きていくのか。


沼田に立ち込める朝靄を見つめながら、忠家は、その問いを、まだ答えの出ないまま、胸の奥にしまい込んだ。

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