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白狐の尾は江戸へ続く ――館林赤井氏、流浪の三代――  作者: 水川仁


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第九章 名乗る日

雪解けの頃、平八が研ぎ場に飛び込んできた。


 


「忠家、来い。」


「今すぐにだ。」


 


有無を言わさぬ声だった。


老研ぎ師は、砥石から顔も上げずに言った。


 


「行ってこい。」


「お前の研ぎは、もう教えることがない。」


 


その一言に、忠家は思わず立ち尽くした。


老人は、それきり何も言わなかった。


 


 


平八に連れられて向かった先は、本多家中でも下士が詰める長屋だった。


 


「実はな。」


 


歩きながら、平八が話し始めた。


 


「先だっての御刀の一件、殿の御耳にまで届いておる。」


「見事な研ぎであった、と。」


 


忠家は、黙って聞いていた。


 


「今度、上州攻めの支度で人手が要る。」


「腕の立つ者、算用に明るい者、なんでもいい、使える者を集めよとの仰せだ。」


 


平八は、ちらりと忠家を見た。


 


「お前、上州の生まれだったな。」


 


心の臓が、跳ねた。


 


「まさか——」


 


「そのまさかだ。」


 


平八は、にやりと笑った。


 


「上州の地理に明るい者が、要る。」


 


 


長屋の奥、質素な板間に通された。


 


そこにいたのは、初老の武士だった。


物静かな佇まいだが、目だけは油断なく忠家を見据えていた。


 


「平八から聞いた。」


 


低い声だった。


 


「上野の生まれとか。」


 


「はい。」


 


忠家は、膝に手を置き、頭を垂れた。


 


「元は、いずこの家中か。」


 


この問いを、忠家は何年も避け続けてきた。


 


答えれば、笑われる。


館林城一つ守れなんだ家の生き残り、と。


 


だが、今は違う気がした。


 


 


「館林、赤井の一族にございます。」


 


初めて、他人の前で名乗った。


十四で忍を出て以来、初めてのことだった。


 


板間が、一瞬静まった。


 


「赤井、か。」


 


初老の武士は、それだけを呟いた。


 


嘲りではなかった。


嫌悪でもなかった。


ただ、静かに事実を確かめるような声だった。


 


「聞いたことがある。」


 


「上杉に攻められ、落ちた城よ。」


 


忠家は、顔を上げられなかった。


 


「面を上げよ。」


 


言われて、ようやく顔を上げた。


 


初老の武士の目に、忠家が予期していたものはなかった。


侮蔑も、憐憫も。


 


あったのは、ただの興味だった。


 


「落城の折、いくつであった。」


 


「まだ生まれておりませぬ。」


 


「父の代の話にございます。」


 


「ほう。」


 


 


しばらくの沈黙のあと、初老の武士は言った。


 


「上州の地理、道筋、国衆どもの縁。」


 


「詳しいか。」


 


「幼き頃より、父から聞かされて育ちました。」


 


「城の縄張りも、覚えております。」


 


半ば、誇張だった。


だが、噓ではなかった。


父の言葉の一つ一つを、忠家は骨まで刻み込んでいた。


 


 


初老の武士は、しばらく忠家を見つめた後、静かに頷いた。


 


「よかろう。」


 


「当座は、荷駄方の下役として使う。」


「働き次第では、上を見てもよい。」


 


「はっ。」


 


忠家は、深く頭を下げた。


 


声が、震えていた。


 


 


長屋を出ると、外はすでに夕暮れだった。


 


平八が、待っていた。


 


「どうだった。」


 


「拾っていただいた。」


 


「そうか。」


 


平八は、それだけ言うと、忠家の肩を強く叩いた。


 


「言っただろう。」


「大事なのは、家の名じゃあない。」


 


忠家は、答えなかった。


 


代わりに、懐の短刀にそっと手を当てた。


 


「父上。」


 


心の中で、そう呼びかけた。


 


「まだ、館林ではありませぬ。」


 


「されど——一歩、踏み出しました。」


 


夕焼けが、浜松の空を赤く染めていた。


 


その色は、いつか見た、燃える尾曳城の色と、どこか似ていた。


 


だが今度は、故郷を焼く炎ではない。


 


忠家自身の中に灯った、小さな、けれど確かな火だった。

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