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第24話「悲鳴蒸留所と、懺悔ちゃんの仕事場」

三十九日目の朝、食堂に呼ばれた。


懺悔ちゃんからだった。リビング・オブ・カオスに「来れる?」という走り書きが貼ってあった。字が丸くて、でも内容がよくわからない書き方だった。


食堂に行くと、懺悔ちゃんがエプロンをつけたまま椅子に座って、何かを食べていた。クッキーだ。朝からクッキーを食べている。


「おはようございます」


「おはよう好代ちゃん」と懺悔ちゃんが言った。「今日、一緒に来てほしいところがあって」


「どこですか」


「悲鳴蒸留所」と懺悔ちゃんが言った。クッキーを一枚好代に渡しながら。「私の仕事場。月に一回、素材の補充を見に行くんだけど、今日一人で行くのが少し気が進まなくて。来てくれる?」


「……蒸留所、というのは、ぱんでむの中にあるんですか」


「地下。エレベーターで降りる。ただ、少し雰囲気が重いから——嫌だったら断っていい」


好代はクッキーを食べた。普通においしかった。何の知識も来なかった。


「行きます」


懺悔ちゃんが少し安心した顔をした。




【第一章】地下への道


エレベーターに乗って、地下のボタンを押した。懺悔ちゃんが「B7」と書かれたボタンを押した。普段のぱんでむのエレベーターより、ずっと下だ。


降りていくにつれて、においが変わった。


バックヤードのにおい——草と電子と世界線の複数のにおいが混ざったやつが、少しずつ消えていった。代わりに来たのは——重いにおいだ。


どう言語化するか少し考えた。絶望のにおい、とは少し違う。もっと物質的だ。煮詰まったもの、抽出されたもの、時間をかけて濃縮されたものの感触。終わりに向かっていた何かが、液体になった感触だ。


「……においがします」と好代は言った。


「もうわかるんだ」と懺悔ちゃんが言った。「すごい。最初の日に来た時は、扉を開けてから気づいた」


「怖いにおいでは、ないですが——重いです」


「そう。重い」と懺悔ちゃんが静かに言った。「でも本当に怖いわけじゃない。ここで作られるものは全部、何かの終わりから来てる。終わりはね、重いものだから」


扉が開いた。




【第二章】悲鳴蒸留所


広い場所だった。


天井が高い。ぱんでむの地下なのに、倉庫くらいの広さがある。壁が石造りで、所々から湯気のようなものが出ている。床の中央に、大きな機械が並んでいた——蒸留器だ。何十本もの管が複雑に繋がって、液体が少しずつ落ちている。


液体の色は、管によって違う。透明なもの、暗い赤のもの、黒に近いもの、少し発光しているもの。


においがした——全部のにおいが同時に来た。好代は棚を半分閉じた。全部開けると情報量が多すぎる。


「……ここで、ソースを作っているんですか」


「そう」と懺悔ちゃんが言った。「世界線の終わりの瞬間——断末魔とか、最後の息とか、誰かが最後に感じた絶望とか。そういうものが、空間に残留する。それを回収して、ここで蒸留して、ソースにする。シェイクの原材料にもなる。終末フライの油も、ここから来てる」


好代は蒸留器を見た。管の中を液体が少しずつ流れている。


「……誰が回収するんですか、残留物を」


「専門の回収チームがいる。外商チームの一部。あと彷徨ちゃんが迷い込んだ先で拾ってくることも多い。彷徨ちゃんは本人が迷い子だから、終わった世界線にもよく辿り着く」


「……悲鳴を蒸留する、ということは——その世界線で何かが苦しんだということですか」


「そう」と懺悔ちゃんが言った。「でも——蒸留すると、苦しみは素材になる。誰かの最後が、終末フライとして別の誰かに届く。食べた人が「終わりの感触」を受け取る。それは——苦しみが消費されることじゃなくて、苦しみが伝わることだと思ってる」


好代はその言い方を聞いた。


「……懺悔ちゃんが、この仕事をしているのは」


「私の担当は「欲望と後悔」だから」と懺悔ちゃんが言った。「後悔は終わりに近いものだ。何かが終わって、できなかったことが残る——それが後悔。ここで作るものは全部、後悔に近いにおいがする。だから私が合ってる」


懺悔ちゃんが蒸留器の一本に近づいて、管の状態を確認した。記録用紙に何かを書いた。仕事の動作だ。


好代は蒸留器を一つ一つ見た。においを一つずつ嗅いだ。


終わった世界線のにおい。最後の瞬間のにおい。誰かが最後に感じたものが、ここに来ている。名前はわからない。どこの世界線かもわからない。でも確かに——何かがここにある。


「……一つ、聞いてもいいですか」


「うん」


「ここにあるものは、苦しいですか」


懺悔ちゃんが手を止めた。


「……蒸留されたら、苦しくない」と懺悔ちゃんが言った。「苦しみは液体になると、「感触」になる。感触は苦しくない。ただ、重い。重さは残る。でも苦しさは残らない」


好代はそれを聞いた。


重さは残る。苦しさは残らない。


においを嗅いだ——確かにそうだった。重いにおいだが、苦しいにおいではなかった。痛みのにおいではなく、時間のにおいだ。


「……おいしいものに、なるんですね」


「なる」と懺悔ちゃんが言った。「誰かが最後に残したものが、別の誰かの「感触」になる。それがぱんでむのサイドメニューの、一番根っこにある話」




【第三章】蒸留所の奥で


懺悔ちゃんが記録を続ける間、好代は蒸留所の奥の方を見た。


奥に行くにつれて、においが変わった。新しいにおいではなく——古いにおいだ。ずっと前から蒸留されている感触。時間が積み重なったにおい。


一番奥に、他の蒸留器より少し大きな設備があった。管の数が多い。液体の流れが遅い。


においを嗅いだ。


知っているにおいが混ざっていた。


ぱんでむのにおいだ。ぱんでむそのものの、古い部分のにおい。それからもう一つ——ダンジョンの深部で感じた、前の人間のにおいに少し似た何かが、かすかに混ざっていた。


好代は少し止まった。


「……懺悔ちゃん、この設備は」


懺悔ちゃんが来た。奥の蒸留器を見た。


「これは——一番古い蒸留器です。ぱんでむが最初にできた頃から動いている」


「何を蒸留していますか」


「……秩序ちゃんでも全部は把握していない原材料を処理しています」と懺悔ちゃんが言った。「私も詳しくは知らない。ただ——この設備だけ、止まったことがないんです。ぱんでむができた日から、ずっと動いている」


好代はにおいをもう一度嗅いだ。


前の人間に似た何か——と思ったが、よくわからなかった。似ているようで、少し違う気もした。それより、もっと元になるものに近い感触かもしれない。


「……気のせいかもしれないですが、少し懐かしいにおいがします」


「懐かしい?」と懺悔ちゃんが少し不思議そうな顔をした。


「……うまく言えないですが」と好代は言った。「知っているにおいじゃない。でもどこかで嗅いだことがある感触です。何のにおいかはわかりません」


懺悔ちゃんが少し黙った。


「……私には何のにおいかわかりません」と懺悔ちゃんが言った。「でも——好代ちゃんがわかるなら、それは確かにあるにおいだと思う」


好代は記録した。棚に、この感触をしまった。名前はつけられなかった。




【第四章】戻り際、渾沌ちゃんと秩序ちゃん


エレベーターで上に戻ってきたところで、渾沌ちゃんに会った。


渾沌ちゃんが廊下にいて、好代を見て「あ、どこ行ってたの?」と言った。


「悲鳴蒸留所を見てきました」


「あー!」と渾沌ちゃんが言った。「懺悔ちゃんと行ったの? あそこ重いよね、においが」


「そうでした」


渾沌ちゃんが好代のそばに来た。好代のにおいを——意識してではなく、自然に嗅いでいるような動作をした。


渾沌ちゃんが少し止まった。


「……なんか」と渾沌ちゃんが言いかけた。「地下のにおいがするけど、あと——」


「姉さん」と秩序ちゃんの声がした。廊下の角から来た。「今日の外商の定例確認、昨日の続きが残っています」


「あ! そうだった!」と渾沌ちゃんが振り向いた。「今いく! すきよちゃん、またね!」


渾沌ちゃんが走っていった。


秩序ちゃんが好代を見た。


一秒。


「悲鳴蒸留所、どうでしたか」と秩序ちゃんが聞いた。いつもの声だった。


「重かったですが、怖くはなかったです。懺悔ちゃんの話が面白かったです」


「そうですか」と秩序ちゃんが言った。「記録しておきます。初回見学日」


それだけ言って、渾沌ちゃんの後を追っていった。


好代は廊下に一人残った。


渾沌ちゃんが「なんか」と言いかけたことを少し考えた。でもよくわからなかった。


何のにおいだったんだろう、と思ったが——結論が出なかったので、先に進んだ。




【第五章】午後——分類不明バーガー、二回目


午後の訓練のあと、摩天ちゃんが分類不明バーガーの二個目を持ってきた。


前回より少し小さい包み紙だ。においを嗅いだ——また、カテゴリが読めなかった。ただ今回は前回と種類が違う感触だ。前回は「深い」感触だったが、今回は「薄い」感触がした。薄いが、広い。


「……前回と違う種類だと思います」


「そう。これは別の世界線から来たやつだ。食べてみろ」


一口食べた。


情報が来た——今度は素直に来た。「空間の端を感知する」知識だ。空間がどこかで途切れる境目、次の空間が始まる手前。その感触。


喉は熱くならなかった。


でも食べ終わった後、数秒して——手の甲が少しだけ痺れた。


ほんの三秒ほどで消えた。


好代は手を見た。外見に変化はない。


「……大丈夫か」と摩天ちゃんが聞いた。また顔を見ていた。


「はい。手が少し痺れました。もう治まりました」


「場所は」


「手の甲です。右手」


摩天ちゃんが手帳を出した。また何かを書いた。


「今回は喉じゃなくて手ですか。分類不明は体の反応の出方が変わる感じがします」と好代は言った。「体調が安定していないのかもしれないです。今日は悲鳴蒸留所にも行ったので、少し刺激が多かったかもしれないです」


摩天ちゃんが手帳から顔を上げた。何も言わなかった。


「……あと、「空間の端を感知する」知識が入りました。「境界を感知する」知識と重なっているかもしれないです。前回の知識と今回の知識が、同じ棚の隣にある感触です」


「知識の格納は問題なかったか」


「問題なかったです」


摩天ちゃんがうなずいた。それ以上何も言わなかった。


好代は手の甲を一度見て、先に進んだ。




【クルー視点モノローグ】


──────────────────

懺悔 ── 三十九日目の記録


好代ちゃんを蒸留所に連れていった。


正直、一人で行くのが気が進まなかった理由が何なのか、自分でもよくわかっていなかった。


でも——好代ちゃんが一番奥の古い蒸留器のにおいを「懐かしい」と言った。


私にはわからないにおいだ。何年もここに来ているが、あの設備のにおいを「懐かしい」と感じたことは一度もない。


重い、古い、ぱんでむに近い——それはわかる。でも「懐かしい」は来なかった。


好代ちゃんには来た。


一緒に来てほしかった理由が、何かわかった気がした。うまく言えないが——一人で見ていたものを、「わかる人」に一緒に見てほしかったんだと思う。


気のせいかもしれないけど、それが気のせいじゃないと感じる誰かが必要だった。




──────────────────

摩天 ── 分類不明バーガー記録(二回目)


今日の反応:喉部熱感なし。右手甲部の軽度痺れ、三秒で消失。知識格納に支障なし。


前回:喉部熱感、三秒で消失。

今回:右手甲痺れ、三秒で消失。


体の別の場所に出た。継続時間は同じ。格納への影響はどちらもない。


本人は「体調」「刺激の多さ」で説明した。


否定できない説明だ。でも正しくない可能性がある。


分類不明バーガーの残り二個。次に食べる時も確認する。出方が変わるか、同じ場所か、消えるまでの時間が変わるか。


データが積み重なれば、何か見えてくる。


今は待つ。




──────────────────

秩序 ── 本日の記録補足


姉さんが今日また感知しかけた。


「なんか」と言いかけて止まった。外商の定例確認を理由にした。実際に確認事項はあったので嘘ではない。


ただタイミングを使った。


姉さんは感知している。正確に何を感知しているかは言語化できていない。でも「何か」がある、という引っかかりを持っている。


理性ちゃんと話した。「姉さんが感知し続ける場合の対応」について。


理性ちゃんの答えは「止め続ける必要はない。ただ、開示のタイミングは慎重に」だった。


今日は止めた。でも——いつまでも止め続けることはできない。


急がない。でも今日を記録しておく。


「三十九日目。渾沌が二回目の感知。悲鳴蒸留所の見学後。分類不明バーガー二回目の軽度反応あり。好代は「体調」と判断。記録継続」



──────────────────

理性 ── 隠居所にて


秩序から今日の報告を受けた。


好代ちゃんが一番古い蒸留器のにおいを「懐かしい」と言った。


そうかの、と思った。


あの設備に残っているのは——ぱんでむの一番最初から蒸留されているものだ。ぱんでむが「始まった」原因に近い何かが、あそこに凝縮されている。


私はそれを知っている。


だが好代ちゃんに話すのはまだ早い。


「懐かしい」という感触があった——それだけでよい。今日はそれだけでよい。


気のせいかもしれない。


そして、気のせいではないかもしれない。


どちらでも、今は前が広い方がいい。



──────────────────

千姿 ── 三十九日目


好代が蒸留所の一番奥で足を止めた。


あの蒸留器は——私が最初にここへ来た時から動いている。


好代は「懐かしいにおいがする」と言った。


——そうね。


懐かしいわね




【エピローグ】夜、「黄昏」で


夜、「黄昏」でお茶を飲んだ。


懺悔ちゃんも来た。珍しい——食堂ではなくこっちに来た。


「今日は一人で食べたくない気分」と懺悔ちゃんが言った。食堂からクッキーを持ってきていた。テーブルに置いた。「食べて」


好代はクッキーを食べた。今日の二枚目だ。また何の知識も来なかった。ただ甘かった。


「……懺悔ちゃんは、なぜ「欲望と後悔」の担当になったんですか」と好代は聞いた。


懺悔ちゃんが少し考えた。「どうしてだろう。理由はよくわからない。気づいたらそうだった」


「渾沌さんが決めるんですか、担当を」


「ぱんでむがそういう形になった、という方が近い気がする。みんな、自分の担当に一番合ってると思う。私が欲望と後悔を担当しているのは——私が一番よくわかるからかもしれない」


「懺悔ちゃん自身も欲しがるんですか」


「食べることが好きだから」と懺悔ちゃんが言った。「食べるたびに「もっと」って思う。だから食べ続ける。終わらない欲望の小さいバージョンを、私は毎日やっている」


好代はそれを聞いた。


「……私もバーガーを全部食べたい、という欲しがりが終わらないです」


「それは欲望だね」と懺悔ちゃんが言った。「後悔は今のところない?」


「……今のところは、ないです」


「いい状態だ」と懺悔ちゃんが言った。「欲望があって、後悔がない。それは全部の中で一番軽い状態だよ」


郷愁ちゃんがお茶を足してくれた。


今日は地下まで行って、重いにおいを嗅いで、手が少し痺れて——でも今ここにいる。


棚を確認した。「境界を感知する」知識と「空間の端を感知する」知識が、となりで静かに重なっていた。どちらもまだ全部わかっていない感触だが、ある。


前が広い。今日も変わらなかった。


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