第25話「においの層と、時間の奥行き」
四十日目の朝、摩天ちゃんがリビング・オブ・カオスのテーブルに地図を広げていた。
前回のダンジョン巡回から六日経っていた。摩天ちゃんが「次は三十七日目に」と言っていたが、フロアのイベントデーや蒸留所の見学が入って、ずれ込んだ。
「今日が巡回日だ」と摩天ちゃんが言った。好代が近づくと地図を少し回した。「前回と同じルートを基本にするが、今回は訓練のテーマがある」
「空間と時間の同時感知ですか」
摩天ちゃんが少し目を動かした。「……言ったか?」
「18話のあとのメモで——というのは私の言い方ですが、摩天さんが「次の訓練では両方を同時に使う練習が必要かもしれない」と記録していたと秩序さんが教えてくれました」
「……秩序が教えたのか」
「昨日、今日の予定を確認する際に」
摩天ちゃんが少し間を置いた。「そうだ。今日のテーマはそれだ。においで「今ここに何があるか」と「ここに何があったか」を同時に読む。前回できていた時間軸の感知を、空間の把握と切り離さずに動かす練習だ」
「……具体的には」
「やりながら説明する。まず入って、自分でやってみろ。できない部分が見えてから指示を出す」
摩天ちゃんのやり方はいつもそうだ。先に失敗させる。失敗から始める方が、何が足りないかがわかる。
「わかりました」
【第一章】ダンジョンへ
バックヤードの奥、冷蔵庫の裏から入った。
前回と同じ入口だが、今日は少し別のにおいがした。前回の巡回から六日分、新しい何かが動いた痕跡がある。土のにおいの密度が変わっている。何かの個体が通り道を変えたのかもしれない。
「……前回より個体の痕跡が少し多い気がします。通り道が変わっているかもしれないです」と好代は言った。
「そう。気候に当たる要素が変わると、個体の行動域が変化する。今日はそれも含めて読め」
「今ある痕跡と、以前あった痕跡を重ねて読む、ということですか」
「それが今日の訓練だ」
好代は棚を開いた。
においの知識——今のにおい。残留するものバーガーの知識——過去の痕跡。境界感知——空間の切れ目。空間の端感知——隣接する空間。この四つを同時に。
にぎやかだ。でも四つが同時に来るのは、今は慣れてきた。
問題は——今と過去が混ざらないようにしながら、両方を同時に使うことだ。
試してみた。
「……前方、三十メートル先に、今はにおいはない。でも——四日前くらいのにおいの痕跡があります。何かが通った跡です。今はいない。でも通った向きからすると、左の通路の方向から来て、右に抜けていった感触です」
摩天ちゃんが止まらずに歩いた。「続けろ」
「今と過去を別々に把握するのは、棚を二段にする感触です。今のにおいを上の棚に。過去の痕跡を下の棚に。両方同時に開くと、今のにおいに過去のにおいが重なって読みにくい——」
「どうする」
「……色で分けてみます。今のにおいを「明るいもの」として受け取って、過去の痕跡を「薄いもの」として受け取る。実際に色があるわけではないですが、受け取り方を変える」
「試せ」
好代は歩きながらやってみた。
明るいにおい——今の土のにおい、今の石のにおい、遠くの有機物のにおい。
薄いにおい——二日前の何かの体液の痕跡、一週間前に誰かが通った感触、もっと古い、名前のわからない何かの記録。
「……できました。ただ、薄い方を追いすぎると今が薄くなります。注意が必要です」
「そこが今日の課題だ」と摩天ちゃんが言った。「今を主軸に、過去を補助として使う。順番が逆になると索敵ではなく考古学になる」
考古学。好代は少し笑いそうになった。でも笑うと集中が切れるので我慢した。
【第二章】巡回中の発見
一時間ほど歩いた。
遭遇は二件あった。どちらも中型の個体で、摩天ちゃんが処理した。好代の声出しは今日も機能した——ただ、今日は「今いる位置」に加えて「この個体が過去どこから来たか」の痕跡も同時に読めた。
「……この個体、昨日は別の通路にいた感触があります。今日は新しいルートを使っています」
「原因は」
においを追った。「……奥の方で何かが変わったかもしれないです。古い痕跡の分布が変わっています。何か大きいものが動いた影響かもしれないですが、まだはっきりしないです」
「記録する」と摩天ちゃんが言った。手帳に何かを書いた。
二件目の後、少し深い区画に入った。
においが変わった。今のにおいが薄くなって、過去の痕跡が濃くなる感触だ。ここは最近誰も来ていないが、古い記録が多い場所だ。
「……ここ、古い痕跡が多いです」
「ぱんでむの初期から巡回されている区画だ。私が来る前から記録がある」
「どのくらい古いですか」
「私にはわからない。ダンジョンそのものがいつからあるかも、ぱんでむの記録では追えない」
好代は棚を薄く開いた。今のにおいを閉じて、過去の痕跡だけを受け取ってみた。
古い。本当に古い——前回感じた「前の人間」の痕跡より、さらに前の感触だ。複数の存在の痕跡が重なって、重なりすぎて、どれがどれかわからなくなっている。ただ「たくさんのものがここを通った」という事実だけが、時間の厚みとして残っている。
「……ここは、とても多くのものが通りました。どのくらい前かは読めないですが——積み重なった感触が厚い」
摩天ちゃんが少し立ち止まった。
「……そういうことが、においでわかるのか」
「わかるというより——受け取れる、という感触です。正確ではないです」
「正確でなくていい。把握できることが大事だ」
◆前の人間の痕跡、もう一度
少し進んだところで、前回も感知した感触が来た。
バーガーが好きで、全部食べたかった人間——その古いにおいの痕跡だ。
今日は、今と過去を同時に読む練習をしているからか、その痕跡がより立体的に感じられた。
前回は「ここにいた」という一点だった。今日は——その人間が「どこから来て、どこへ向かったか」の方向が、薄くだが読める気がした。
来た方向——ぱんでむの内部、バックヤードの方向から。
向かった方向——ダンジョンの奥。もっと深い場所。
「……また感じました。前回と同じ、バーガーが好きだった人間の痕跡です」
摩天ちゃんが少し目を細めた。
「今日は、来た方向と向かった方向が少し読めました。ぱんでむの内部から来て、ダンジョンの奥に向かっています。その先は——私には読めないです」
「……奥に向かった、か」と摩天ちゃんが静かに言った。
「……摩天さんは、この人のことを知っていますか」
「知らない」と摩天ちゃんが言った。短く。でも「知らないが、何かある」という響きがあった。
「……ぱんでむの奥に、もっと深い場所がありますか。今の巡回区画より先に」
「ある。私は入ったことがない。入れないわけではないが——必要がなかったので行っていない」
「……今日、行きますか」
摩天ちゃんが少し間を置いた。
「今日は行かない。準備が必要だ。でも——記録しておく。次の巡回で検討する」
好代は棚に今日の感触をしまった。来た方向、向かった方向。方向だけ。先は不明。
【第三章】訓練の評価と、帰り道
二時間の巡回を終えて出口に向かった。
帰り道、摩天ちゃんが今日の評価を話した。
「今のにおいと過去の痕跡を同時に扱うのは、今日初めてやったとしては機能した。ただ——過去の痕跡に意識を取られた瞬間が数回あった。その間は今が薄くなっていた」
「……わかります。古い感触の方が情報量が多くて、引っ張られます」
「今を主軸に置き続ける練習が必要だ。過去は補助情報であって、主軸ではない。今を見失ったら索敵にならない」
「はい」
「ただ」と摩天ちゃんが少し間を置いた。「前の人間の痕跡について——来た方向と向かった方向を読んだのは、私には考えていなかった使い方だ。今と過去の重ね方を応用した結果だろうが——それは、私の想定外だった」
好代は少し止まった。
「想定外、というのは良い意味ですか」
「良い意味だ」と摩天ちゃんが言った。淡々としていたが、確かにそう言った。
好代は少し、棚の中が温かくなった感触がした。
【第四章】バックヤードで——理性ちゃん
ダンジョンから戻ってバックヤードに入ると、廊下に理性ちゃんがいた。
珍しい。理性ちゃんは隠居所にいることが多くて、廊下でばったり会うのはあまりない。
「おかえり」と理性ちゃんが言った。和装の袖を少し直しながら。「ダンジョン巡回じゃったか」
「はい。今日は空間と時間を同時に読む練習でした」
「どうじゃった」
「少し引っ張られましたが、できました。前の人間の痕跡の方向も読めました」
理性ちゃんが「ほう」と言った。目が少し動いた。
廊下の奥から渾沌ちゃんが来た。今日も元気なにおいがする。
「あ!すきよちゃん、帰ってきたの?ダンジョン大丈夫だった?」
「大丈夫でした」
渾沌ちゃんが好代に近づいた。今日は好代のにおいを——また、自然に嗅いでいるような動作をした。
「なんか今日……」と渾沌ちゃんが言いかけた。
「渾沌」と理性ちゃんが静かに言った。渾沌ちゃんの姉でも秩序ちゃんでもない、もっと落ち着いた声だ。「今日の外商ログの確認、まだ残っとるじゃろ。一緒にやるぞ、手伝ってやるから」
渾沌ちゃんが理性ちゃんを見た。「あ、理性ちゃんが手伝ってくれるの!?」
「そうじゃ。今日は暇じゃから」
「やったー!!じゃあ行こ! すきよちゃん、またね!」と渾沌ちゃんが走っていった。
理性ちゃんが渾沌ちゃんの後を追いながら、好代を一度だけ振り返った。
秩序ちゃんの「止め方」とは少し違う目だった。
やさしい目だった。「まだじゃ」と言っているような、でも焦っていない目だった。
それだけで、先に行った。
好代は廊下に一人残った。
今日で渾沌ちゃんに止められたのが何回目か、少し考えた。でも理由がわからなかった。「なんか」という言いかけが毎回来て、毎回何かに止められる。
——なんだろう、と思った。
でもよくわからなかったので、先に進んだ。
【第五章】午後——分類不明バーガー、三回目
夕方、摩天ちゃんが保冷ボックスを持ってきた。
「今日の疲れはどうだ」
「大丈夫です」
「では三個目の分類不明を試す。今日は疲れているから反応が出やすいかもしれない。何か起きたらすぐ言え」
包み紙は灰色だった。においを嗅いだ。
今日は、少しだけわかった気がした。においのカテゴリは読めないが——「境界」に関係するにおいだ。今日ダンジョンで使っていた「境界感知」の知識が、このにおいに少し反応した。
「……今日訓練した内容と関係するにおいがします」
「気のせいかもしれない。食べてみろ」
一口食べた。
情報が来た——「二つの空間が重なる瞬間」の知識だ。境界が溶けかける一瞬の感触。二つの世界線が接触して、でもまだ融合していない——その間にある薄い膜の感触。
問題なく格納された。
でも食べ終わって五秒後に、今日は耳が一瞬だけ詰まった。
飛行機に乗った時のような感触——気圧が変わった時みたいな詰まり方だ。二秒で抜けた。
「……耳が少し詰まりました。もう抜けました」
摩天ちゃんが手帳を出した。
「前回は右手甲の痺れ、三秒。今回は耳の閉塞感、二秒。前々回は喉の熱感、三秒」
「……毎回出る場所が違いますね。体調というより、分類不明バーガーに何か特性があるのかもしれないです」
摩天ちゃんが何も言わなかった。
手帳を閉じた。
「知識の格納は」
「問題なかったです。今日ダンジョンで使っていた境界感知と隣接した感触です。重なりそうですが、まだ融合していないです」
「そうか。記録する」
【クルー視点モノローグ】
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摩天──四十日目の記録
今日の訓練は、予想以上に機能した。
今と過去の重ね読みは、最初は過去に引っ張られる傾向があった。でも修正が速かった。「今を主軸に」という概念を一度言ったら、そのあとは自分で調整していた。
前の人間の痕跡について——来た方向と向かった方向を読んだ。
私は方向を考えたことがなかった。痕跡は「ある」か「ない」かだと思っていた。「どこから来たか」「どこへ向かったか」を読もうとする発想がなかった。
それができる。
次の巡回で、深い区画まで行くことを検討する。
分類不明バーガー三回目:耳閉塞感、二秒。前二回と合わせて、体の別の場所に軽度反応が出ている。継続して観察する。今日の知識格納は問題なし。
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理性──廊下での判断
今日、渾沌を止めた。
秩序がいつも止めているから、今日は妾が止めた。
渾沌は「なんか」と言いかけた。「なんか今日……」のあとが何だったかは、渾沌本人もまだわかっていないじゃろう。感知はしているが、言語化できていない。
止めた理由は、秩序と同じだ。今ではない。
ただ——妾の止め方は少し違う。
秩序は「業務がある」で止める。これは「今やることが別にある」という止め方だ。
妾は「今日は暇じゃから手伝う」で止めた。これは「一緒に来い」という止め方だ。
渾沌を一人で置かないこと。何かを感知しかけた渾沌を、別の場所に連れていくこと。
それが妾のやり方じゃ。
好代ちゃんはじきに気づく。渾沌が何度も「なんか」で止まることを、おかしいと思い始めるじゃろう。
それでも今は、前が広い方がいい。
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渾沌──今日のこと(非公式)
今日も「なんか」と言いかけて、止められた。
今日は理性ちゃんが手伝うって言ってくれたから、そっちに行った。外商ログ、ちゃんと一緒にやった。理性ちゃんのお茶、おいしかった。
でも帰り道に少し考えた。
「なんか」って何なんだろう。
すきよちゃんのにおいが、ぱんでむのにおいに近い、って思うんだけど——それだけじゃない気がして。
どこかで、すきよちゃんのにおいを知ってる気がする。
でも知るはずがないんだよね。会ったのはぱんでむに来た日からだから。
渋谷でスカウトした時から、か。
……あの時、すきよちゃんに「バーガーが好きそうな顔してる」って言ったんだけど。
なんで好きそうだと思ったんだろう。
考えたことなかった。
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千姿──四十日目
好代が前の人間の痕跡の「方向」を読んだ。
来た方向——ぱんでむの内部から。
向かった方向——ダンジョンの奥。
——そうね。
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【エピローグ】夜、渋谷を歩きながら
今日は「黄昏」でお茶を飲まずに、真っ直ぐ渋谷に帰った。
体が少し疲れていた。ダンジョン二時間と分類不明バーガー三回目と、理性ちゃんの目と。
渋谷の路地を歩いた。夜だから人が多い。においが混ざっている——汗のにおい、食べ物のにおい、アスファルトのにおい、雨が降る前の空気のにおい。
棚を少しだけ開いた。今のにおいと、過去の痕跡を重ねてみた。
渋谷の今のにおいの下に——古い渋谷のにおいが薄く重なっている。三年前のにおい、五年前のにおい、十年前のにおい。街は変わり続けているが、においが積み重なって、どの時代も薄く残っている。
十七年間ここを歩いてきた。好代自身のにおいも、渋谷のどこかに積み重なっているかもしれない。
マクドナルドの前を通った。においがした。
今日は、今のにおいの下に——少し前のにおいが重なって感じられた。昨日のにおい、先週のにおい、今日の夕方に誰かが食べた時のにおい。全部が薄く積み重なって、「ここにはずっとこのにおいがある」という事実が、厚みを持って来た。
十七年前の三歳の自分が、ここで初めてこのにおいを嗅いだ。
そのにおいが今もある。積み重なっている。薄くなっていない。
——前が広い。
今日も変わらなかった。




