第26話「最古の記録と、秩序ちゃんの判断」
四十一日目の朝、好代がリビング・オブ・カオスでお茶を飲んでいると、秩序ちゃんが来た。
書類を持っていない日だった。珍しい。秩序ちゃんは廊下を歩く時でも書類を持っていることが多い。今日は両手が空いている。
「好代さん、今日の訓練は午後ですね」
「はい」
「午前に少し時間があります。来てほしい場所があります」
「……どこですか」
「記録室です」と秩序ちゃんが言った。「一度も案内したことがなかったので」
好代はお茶を飲み終えた。「わかりました」
秩序ちゃんが先を歩いた。廊下を進んで、エレベーターで少し下の階に降りた。好代が来たことのない区画だ。においを嗅いだ——紙のにおい、インクのにおい、古い空気のにおい。秩序ちゃんの部屋と似ているが、もっと広い感触がした。
【第一章】記録室
扉があった。
「記録室」とだけ書かれている。秩序ちゃんが鍵を使って開けた。
中は——広かった。
棚が壁一面に並んでいた。全部に書類が収まっている。ファイルが何千冊もある。棚の高さは天井まで届いていて、一番上の棚は梯子がなければ届かない。
においがした。本のにおい、紙のにおい、インクのにおい——それから、時間のにおい。この部屋に積み重なった時間の感触がある。何十年分、あるいはもっと長い時間がここに収まっている。
「……ぱんでむの記録が全部ここにあるんですか」
「全部ではないですが」と秩序ちゃんが言った。「私が管理しているものは全部ここにあります。クルーの記録、お客さまの来訪記録、バーガーの管理記録、設備の点検記録、外業務の記録」
「……いつから」
「私がここに来た日から」と秩序ちゃんが少し間を置いて言った。「それ以前の記録も一部ありますが——前任の記録者がいたわけではなく、ぱんでむの設立当初から残っていたものが、整理されないまま置かれていました。私が来てから整理しました」
好代は棚を見た。一番奥の棚が少し違う色をしていた。木が古くなっている。他の棚より先に作られたものだ。
においを嗅いだ——古い紙のにおい。ずっと前から置かれていた書類のにおい。
「……一番奥の棚が古いですね」
「そうです」と秩序ちゃんが言った。「あそこが、最も古い記録です」
【第二章】最古の記録
秩序ちゃんが一番奥の棚に向かった。梯子を使って、上から三段目のあたりのファイルを一冊取り出した。
テーブルに置いた。ファイルの表紙には日付があったが、読み方が好代には判断できない形式だった。
「このファイルには——ぱんでむが最初に稼働した頃の記録が断片的に入っています。ほとんどの記録は欠落しているか、読解できない形で残っています」と秩序ちゃんが言った。「ただ——一つだけ、読める記録があります」
秩序ちゃんがファイルを開いた。何枚かのページをめくって、一枚のページを開いて、好代の前に向けた。
紙は古かった。端が少し黄ばんでいる。でも字は読めた。
筆記具で書かれた字だ。丸くて、急いで書いたような字だ——秩序ちゃんの部屋の祭壇に飾られた渾沌ちゃんの言葉と、字体が少し似ている。でも違う人の字だ。
一行だけある。
——「好きだったから、来た。それだけでいい」
好代は読んだ。
読んで、少し止まった。
「……誰が書いたんですか」と好代は聞いた。
「わかりません」と秩序ちゃんが言った。「このページだけが、いつ書かれたかも、誰が書いたかも、特定できない状態で残っていました。整理した時から、ずっとここにあります」
好代はその一行を見た。もう一度読んだ。
「……前の人間が書いたものだと思います」と好代は言った。
「前の人間、というのは」
「ダンジョンで感知した、バーガーが好きで全部食べたかった人間の痕跡です。その人が書いたんだと思います」
秩序ちゃんがうなずいた。「……そう思っています、私も」
「……この字、どこか、渾沌さんの字に似ていますね」
秩序ちゃんが少し止まった。
「……似ていますか」
「全然同じではないですが——急いで書いた感じと、字の丸さが。気のせいかもしれないですが」
秩序ちゃんがページを少し見た。何も言わなかった。
好代はその一行をもう一度見た。
好きだったから、来た。それだけでいい。
「……これを見てどう思いますか」と秩序ちゃんが聞いた。珍しい聞き方だった。秩序ちゃんが好代に感想を聞くのは、業務の確認の時以外は少ない。
好代は少し考えた。
「……わかります、という気がします」
「わかる、というのは」
「私も、ぱんでむに来た理由はそれだけだったので。バーガーが好きだから、来た。それ以上の理由はなかったです」
秩序ちゃんがしばらく黙っていた。
「……私もそう思います」と秩序ちゃんが少し間を置いて言った。「この一行を読んだ時から、何度もそう思っていました。わかる、と」
「秩序さんも好きで来たんですか、ぱんでむに」
「私の場合は少し違います。姉さんがいたから来た。でも——姉さんがぱんでむにいる理由は、「好きだから」だと思います。そしてその好きが、ぱんでむを作ったのだと思います。だから——間接的には、私も「好きだったから来た」です」
好代はその言い方を聞いた。秩序ちゃんが自分のことをそういう言い方で話すのは珍しかった。
「……見せてくれてよかったです」と好代は言った。「ありがとうございます」
「……見せるべきかどうか、ずっと判断できていませんでした」と秩序ちゃんが言った。「今朝、見せようと決めました」
「なぜ今朝ですか」
秩序ちゃんが少し間を置いた。
「……昨日の巡回で、あなたが前の人間の痕跡の方向を読んだ、という摩天からの報告を受けました。来た方向と向かった方向がわかった、という報告です」と秩序ちゃんが言った。「それを読んで——この一行を見せることが、今のあなたにとって正しいと思いました。情報として持っておいてほしいと思いました」
「……正しい、というのはどういう意味ですか」
「前の人間が何者だったかを追うことが、あなたのこれからの一部になるかもしれない。その時に——この一行を知らないままでいるより、知っている方がいいと思いました」
好代はその言い方を聞いた。
「……秩序さんは、前の人間が誰だったか、何か知っていますか」
秩序ちゃんがファイルを閉じた。丁寧に、端を揃えて閉じた。
「知りません」と秩序ちゃんが言った。「本当に。この一行以外に、手がかりがありません。記録がないことは確認しています。ぱんでむの設立記録そのものに、この人間についての記述がない」
「……千姿さんは知っているかもしれないですね」
「……そうかもしれません」と秩序ちゃんが言った。「でもそれを千姿に聞くかどうかは、あなたが判断することだと思います」
好代はその一行をもう一度見た——ファイルが閉じられる前に。
好きだったから、来た。それだけでいい。
急いで書いたような字。丸い感じ。
「……この人、バーガーを全部食べられたんでしょうか」と好代は言った。
「わかりません」と秩序ちゃんが言った。
「……でも——「それだけでいい」って書いてあります。食べられたかどうかより、来た理由が好きだったからというだけで、それだけでいいと思っていた人だったんだと思います」
秩序ちゃんがファイルを棚に戻した。梯子を上って、元の場所に収めた。
降りてきた秩序ちゃんが、少し好代を見た。
「……そういう読み方をするんですね」と秩序ちゃんが言った。
「違いますか」
「違わないと思います」と秩序ちゃんが言った。「私はずっと「誰が書いたか」に注目していました。あなたは「何を書いたか」に注目した」
好代は少し考えた。においの話と少し似ている。においを読む時も、「誰のにおいか」より「何のにおいか」を先に読む方が自分には合っている。
「……記録を読む時も、においを読む時と似たやり方になるみたいです」
秩序ちゃんが少し間を置いた。
「……記録します」と秩序ちゃんが言った。少し、声が温かかった。
【第三章】記録室を出る前に
帰り際、好代は記録室の棚をもう一度見た。
何千冊ものファイル。ぱんでむに来た全員の記録。全部のバーガーの記録。全部の業務の記録。
「……秩序さんは、これを全部管理しているんですか」
「そうです」
「……一人で」
「そうです」
好代は棚の量を見た。
「……大変じゃないですか」
「大変ですが、好きなのでいいです」と秩序ちゃんが言った。
好代は少し止まった。
「……「好きなのでいい」と言いましたか」
秩序ちゃんが少し固まった。「……言いました」
「さっきの話と同じですね。好きだから来た。好きだからいい」
秩序ちゃんが少し下を向いた。何も言わなかった。でも拒絶でもなかった。
好代は記録室を出た。
廊下に出て、においを嗅いだ。記録室のにおいが少し残っていた——古い紙と、インクと、時間のにおい。
棚にしまった。この感触も残るものだ。
【クルー視点モノローグ】
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秩序──四十一日目の判断について
今朝、見せようと決めた。
理由を説明するのは難しい。
昨日の摩天の報告を読んで——方向が読めた、という話を読んで、何かが動いた。前の人間がどこへ向かったかを、好代さんが感知した。
それまで「前の人間」は「いた」という事実だけだった。今日から「来て、向かった」という動きを持つ存在になった。動きを持ったなら——言葉を持っていることを知っておいてほしかった。
「好きだったから、来た。それだけでいい」
この一行を最初に見た時、私は少し、何かに触れた気がした。うまく言えないが——これを書いた人間を、少しわかる気がした。
好代さんも「わかります」と言った。
「私も、ぱんでむに来た理由はそれだけだった」と言った。
——そうか。同じことを言う。
「誰が書いたか」を私はずっと見ていた。好代さんは「何を書いたか」を見た。
どちらが正しい見方ということではない。でも——私に足りていた視点を、好代さんが補った。
それが、今日見せてよかったと思う理由だ。
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摩天──四十一日目(記録)
秩序から報告を受けた。最古の記録を好代に見せた、と。
私は見せる判断をしなかった。情報として必要かどうか、まだ判断していなかった。
秩序が先に判断した。
それでいい。
私の判断とは別に、それぞれが判断する。それがぱんでむの動き方だ。
好代さんは「前の人間がどこへ向かったか」を読んだ。次の巡回で深い区画に入る準備をする。
記録する。「四十一日目。最古の記録を閲覧。摩天は同席せず。好代の反応:「前の人間が書いた」と判断。「わかる」と言った」。
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渾沌──今日のこと
今日、秩序ちゃんが好代ちゃんを記録室に連れて行ったって後で聞いた。
最古の記録を見せたって。
「好きだったから、来た。それだけでいい」という一行が書いてあって、好代ちゃんが「わかります」と言ったって。
それを聞いた時、なんか——胸が少し、変な感じになった。
うまく言えない。懐かしい感じ、ではないが、何か近い感じ。
この感触、最近よく来る。すきよちゃんに会うたびに、少しずつ来る。
でも何かわからないから、何もしていない。
秩序ちゃんがいつも止めるし、昨日は理性ちゃんが止めた。みんながそういうタイミングじゃないと言っているから、そうなんだと思う。
ただ——「好きだったから、来た」という言葉が、今日もずっと頭の中にある。
私がすきよちゃんに初めて会った日のことを思い出す。渋谷の路地で。
「バーガーが好きそうな顔してる」と言ったんだよね、私。
なんで好きそうだと思ったんだろう。
一番最初に、なんで思ったんだろう。
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千姿──四十一日目
好代が最古の一行を読んだ。
「わかります」と言った。
「私も、ぱんでむに来た理由はそれだけだった」と言った。
——そうね。
私も、そう書いた。
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