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第32話「理性ちゃんの隠居所」

四十七日目の朝、好代は廊下で理性ちゃんに声をかけられた。


珍しかった。理性ちゃんから声をかけてくることは、ほとんどない。


「好代よ」と理性ちゃんが言った。和装の幼女の姿。でも口調は老婆のものだ。「今日、少し時間があるかの」


「あります」


「では昼過ぎに、わしの部屋に来い」


それだけ言って、理性ちゃんは廊下の奥に歩いていった。


理性ちゃんの部屋——隠居所。畳敷きの和室で、障子の向こうは電子の海が広がるサーバールームになっている。


においを開いた。


理性ちゃんのにおいが廊下の先に残っている。


古い紙のにおい。お茶のにおい。時間の長さのにおい——長く生きた存在だけが持つ、深くて静かなにおい。


そして——かすかに、電子のにおいが混ざっている。


「……わかりました」と好代は廊下に向かって言ったが、理性ちゃんはもうそこにいなかった。




第一章「隠居所」


◆昼過ぎ、理性ちゃんの部屋の前


昼過ぎ、好代は居住区の奥まった場所にある一室の前に来た。


扉ではなく、障子だった。


においを嗅いだ。畳のにおい。古い木のにおい。お茶のにおい。それから——障子の向こうから、電子のにおいがかすかに滲んでいた。


「入るがいい」と中から声がした。ノックする前に言われた。


障子を開けた。


畳の部屋だった。六畳ほどの空間。床の間に古い花が一輪。畳が古くて、少しだけへこんでいる場所がある——理性ちゃんがいつも座る場所だろう。


理性ちゃんが部屋の奥に座っていた。膝に薄い本を置いている。


部屋の奥——もう一枚の障子がある。その向こうから電子のにおいが来ている。あちらがサーバールームだ。


「座るがいい」と理性ちゃんが言った。


好代は畳に座った。においを確認した。畳のにおい、古い木のにおい、お茶のにおい、電子のにおい、そして——理性ちゃんのにおい。時間の長さ。長く生きた記憶。


「……お茶をもらえますか」と理性ちゃんが言った。


部屋の隅に急須と茶碗が置いてある。好代が立って、お茶を入れた。


「こちらが入れてもよいんですか」


「妾が入れると時間がかかる。あなたが入れた方が早い」


好代がお茶を入れて、理性ちゃんの前に置いた。


理性ちゃんが一口飲んだ。


「……上手じゃな」と理性ちゃんが言った。


「渋谷で働いていた時に覚えました」


「そうじゃったか」


しばらく静かだった。




◆理性ちゃんが話す


「残り一個じゃ」と理性ちゃんが言った。


「はい」


「分類不明の最後の一個。それを食べたら、扉の前に行くつもりじゃろ」


好代は少し止まった。


「……そのつもりです」


「わかっておった」と理性ちゃんが言った。「あなたはそういう子じゃ。順序立てて進む。全部揃ってから動く」


「……急ぎすぎていますか」


「急いでいない」と理性ちゃんが言った。「ちょうどいい。前に進みすぎず、止まりすぎず」


お茶を一口飲んだ。


「わしがあなたを呼んだのは——一つだけ、伝えておきたいことがあったからじゃ」


「はい」


「伝えるというより——確認じゃな」と理性ちゃんが言った。「あなたに聞く」




◆理性ちゃんの問い


「扉を開けた先に何があるか、わかっておるか」と理性ちゃんが言った。


好代は少し考えた。


「……千姿バーガーがあります」


「それは知識じゃ」と理性ちゃんが言った。「わしが聞いているのは——あなたが何を受け取るか、じゃない。受け取った後、あなたがどうなるか、じゃ」


好代は棚を確認した。


受け取った後。


「……全部がわかります」と好代は言った。「自分が何者か、千姿が何をしたか、なぜここに来たか。全部わかります」


「そして?」と理性ちゃんが続けた。


好代は少し間を置いた。


「……変わらないと思います」


「何が変わらないのじゃ」


「……バーガーが好きという感触が、変わらないと思います。それだけは変わらない気がします」


理性ちゃんが少し目を細めた。


「……根拠はあるか」


「ありません」と好代は言った。「でも十七年間、食べられないのに好きでいました。その間、色んなことが変わりましたが、その感触だけは変わりませんでした。これからも変わらないと思います」


理性ちゃんが少し黙った。


お茶を一口飲んだ。


「……それでいい」と理性ちゃんが言った。それだけだった。




第二章「電子の海の話」


◆もう一枚の障子


しばらく静かに座っていた。


好代は障子の向こうのにおいを確認した。電子のにおい。古い記録のにおい。それから——何かが動いているにおい。計算しているもののにおい。


「……理性ちゃんは、今も記録を管理し続けているんですか」


「管理というより——聞いておる」と理性ちゃんが言った。「記録は全部、秩序ちゃんが書く。妾はそれを読んで、考える。それだけじゃ」


「何を考えるんですか」


理性ちゃんが少し間を置いた。


「……長い時間をかけて、何が変わって、何が変わらなかったか。それを考えておる」


好代はその言葉を聞いた。


何が変わって、何が変わらなかったか。


「……理性ちゃんは、ぱんでむが始まった頃から記録を読んでいますか」


「読んでおる」


「……ぱんでむが始まった頃の記録に、何がありましたか」


理性ちゃんが少し黙った。


お茶を置いた。


「……一行だけある」と理性ちゃんが言った。「「好きだったから、来た。それだけでいい」という一行じゃ」


好代は棚を確認した。


秩序ちゃんが「始まりの記録の中に一行だけある」と言っていた。あの一行だ。


「……誰が書いたか、わかりますか」


「わからない」と理性ちゃんが言った。「でも——妾には、なんとなくわかる気がする」


「なんとなく」


「なんとなくじゃ。根拠はない」


好代は少し棚を開いた。


今の理性ちゃんのにおいを確認した。いつもと同じだ。長い時間のにおい。でも——今日は少しだけ、温かいにおいが混ざっている気がした。


「……理性ちゃんは、その一行を書いた人のことを知っていますか」


理性ちゃんが少し目を閉じた。


「知っておるかもしれん」と理性ちゃんが言った。「でも今日は言わない」


「いつか言ってもらえますか」


「あなたが自分で知る日が来る」と理性ちゃんが言った。「その日の前に言っても、意味がない」


好代はそれを聞いた。


「……わかりました」


「……怒らないのかの」と理性ちゃんが少し不思議そうに言った。


「怒る理由がないです。理性ちゃんが言わない理由があるなら、言わなくていいです」


理性ちゃんが少し目を細めた。「……そうじゃな。それでいい」




第三章「長い時間のこと」


◆理性ちゃんが聞く


「一つ聞いていいか」と理性ちゃんが言った。


「はい」


「あなたは——ぱんでむに来て、楽しかったか」


好代は少し考えた。


楽しい、という言葉が自分に合っているかどうか、少し考えた。


「……楽しかったかどうか、よくわかりません。でも——前が広いとずっと思っていました。楽しいと前が広いは、同じかもしれないです」


理性ちゃんが「ほう」と言った。


「……楽しいというのは前が広いことじゃ、と思っているのか」


「そう思います。楽しくない時は、前が狭い気がします。ここにいると、前がいつも広い感触がします」


理性ちゃんが少し黙った。それから、膝の上の本を少し動かした。


「……妾はの」と理性ちゃんが言った。「長い時間をかけて、色んなものを見てきた。世界線が終わるのも見た。クルーが変わるのも見た。千姿が変わるのも見た」


「……全部覚えていますか」


「全部は覚えておらん。でも——一番長く残るのは、においじゃ、と思っておる」


好代は少し驚いた。


「理性ちゃんも、においで覚えていますか」


「においを嗅げる体ではない」と理性ちゃんが言った。「でも——においに近いもの、感触に近いもので、残るものがある。誰かがバーガーを食べて「前が広い」と思った瞬間の感触が、長く残る。それがにおいに似ておる」


好代はその言葉を棚にしまった。


「……理性ちゃんの部屋は、静かですね」


「静かじゃよ。障子の向こうは電子でにぎやかじゃが、こちら側は静かじゃ」


「……この部屋が好きですか」


「好きじゃ」と理性ちゃんが言った。「ここにいると——前がある気がする」


好代は少し目が温かくなった。


理性ちゃんも「前が広い」という感触を持っている。


形は違う。でも同じ感触だ。




◆帰り際


少しして、好代が立ち上がった。


「……お邪魔しました」


「邪魔ではなかった」と理性ちゃんが言った。「また来るがよい」


好代が障子を開けた。廊下のにおいが来た。


「理性ちゃん」と好代は振り返らずに言った。「一つだけ聞いていいですか」


「聞くがいい」


「扉を開けた後、私は——どうなると思いますか」


しばらく静かだった。


「……妾にはわからない」と理性ちゃんが言った。「前例がないから」


「前例がないんですか」


「ない。だから——楽しみにしておる」


好代は少し止まった。


楽しみにしている。


理性ちゃんが楽しみにしている。


「……わかりました」と好代は言った。


廊下に出た。


障子が静かに閉まった。


廊下のにおいが戻った。ぱんでむの草と電子と時間のにおい。


理性ちゃんの部屋のにおいが、好代のにおいに少し混ざった。


古い時間のにおいと、畳のにおいと、一行だけの記録のにおい。


棚にしまった。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

理性──四十七日目


好代を呼んだ。


「楽しかったか」と聞いた。


「前が広いとずっと思っていました」と答えた。


……そうじゃな。


楽しいと前が広いは同じ、か。


ぱんでむに来てから長い時間がたった。何が楽しいかを考えたことがあまりなかった。


でも——前は、ある。ずっとある。


それが私の楽しい、だったのかもしれない。


「扉を開けた後、どうなると思うか」と聞かれた。


前例がない、と答えた。


本当のことじゃ。


今まで千姿になった者は全員、器になった。自我が消えた。前例がない、というのは「好代が器にならずに千姿になる」という意味の前例がない、ということじゃ。


楽しみにしている、と言った。


これも本当のことじゃ。


長い時間を見てきて——初めて、前例のないことが起きようとしている。


それは確かに、楽しみじゃ。



──────────────────

千姿──四十七日目


理性が好代を呼んだ。


「一行だけある」という話をした。


「誰が書いたか、なんとなくわかる気がする」と言った。


理性は知っている。ずっと前から。


でも言わなかった。


好代が自分で知る方が正しい、と判断した。


理性はそういう存在だ。千姿の「時間の長さ」から生まれた存在だから、いつが正しい時かを知っている。


「前例がないから楽しみにしている」


……そう。


私も楽しみにしている。


──────────────────

渾沌──四十七日目


理性ちゃんがすきよちゃんを呼んだ。


何の話をしたかは知らない。


でも——すきよちゃんが部屋から出てきた時、においが少し変わっていた。


古い時間のにおいが混ざっていた。


理性ちゃんのにおいに近い、でも理性ちゃんのにおいそのものではない。


理性ちゃんとすきよちゃんが、同じ何かを持った感触のにおい。


……なんだろう、それ。


わかりそうでわからない。


でも——嫌なにおいじゃなかった。


むしろ少し、好きなにおいだった。


──────────────────


【エピローグ】四十七日目の夜、棚の静けさ


夜、好代は部屋で棚を確認した。


全部ある。においの知識、気配の知識、時間の知識、残留する知識、危機感知の知識——全部が「合唱」の形で静かにある。


今日の理性ちゃんのにおいも、棚の端に静かに置かれた。


古い時間のにおい。畳のにおい。楽しみにしている、という感触。


好代は廊下の掲示板を思い出した。


残り一個。


明日でもないかもしれない。明後日でもないかもしれない。でも——もうすぐだ。


扉の前まで行ったことがある。においを感知した。引き返した。


今度行く時は、引き返さない。


でもその前に——一つやることがある。


残り一個の分類不明バーガーを食べること。


その後で、扉の前に立つ。


それだけだ。


棚を閉じた。


今日の棚は静かだ。にぎやかではなく、合唱で、静かだ。


前が広い。


それはずっと変わらなかった。


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