第33話「扉の向こう」
四十八日目の朝、好代は目を覚ましてまず棚を確認した。
全部ある。においの知識、時間の知識、気配の知識、記憶の知識——全部が、昨日のままそこにある。
好代は天井を見た。
今日だ、と思った。
声には出さなかった。でも棚が、静かに合唱した。全部わかっている、という感触で。
第一章「今日」
◆朝のぱんでむ
廊下に出た。
においを開いた。
草と電子と時間のにおいが混ざった、ぱんでむのにおい。それから——ダンジョンの方角から、かすかに何かが来た。
知っているにおいと知らないにおいが混ざった感触。昨日の夜も同じにおいがした。おとといの夜も。ずっとそこにある。
今日は、行く。
掲示板の前を通った。
「未食バーガー管理表:好代さん用」。
残り一個。
好代はそれを一度見て、廊下を歩き続けた。
◆渾沌ちゃんが来た
キッチンに向かう途中で、渾沌ちゃんが廊下に出てきた。
「あ、すきよちゃん」
「おはようございます」
渾沌ちゃんが好代のにおいを一度確認した。少し間があった。
「……今日、扉に行くの」
「はい」
渾沌ちゃんが少し止まった。いつものにぎやかなにおいが——静かになった。黒赤のにおいが、落ち着いた水面みたいになっている。
「……わかった」と渾沌ちゃんが言った。
何も続かなかった。
「……帰ってきたら、話します」と好代は言った。
渾沌ちゃんが「……うん」と言った。それだけだった。
第二章「ダンジョンへ」
◆摩天ちゃんに報告する
訓練場で、摩天ちゃんが剣の手入れをしていた。
好代が入ると、顔を上げた。
「今日か」
「はい。今日、扉に行きます」
摩天ちゃんが剣を鞘に収めた。
「一人で行くか」
「はい」
摩天ちゃんが少し間を置いた。「……中層まではついていく。扉の手前で待つ。それでいいか」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」と摩天ちゃんが言った。「帰り道がわからなくなったら、私のにおいを追え。スパイシーで熱いにおいが続いている。それを追えば戻れる」
好代は棚を開いた。摩天ちゃんのにおいを確認した。スパイシーで熱い、力のにおい。棚にしまった。
「……わかりました」
◆ダンジョンに入る
冷蔵庫の裏から、ダンジョンに入った。
においが変わった。湿った岩のにおい。発光結晶の青白い光。遠くで何かが動いているにおい——でも今日は穏やかだった。
摩天ちゃんが先を歩いた。好代がその後ろについた。
発光結晶が青白く光っている。岩の壁が続いている。
「……においが変わっているか」と摩天ちゃんが言った。
「はい。扉のにおいが——今日は濃いです」
「向こうが変わったのか、こちらが変わったのかはわからないが——どちらかが変わっている」
「……私が変わったと思います」
「そうだろうな」
曲がり角を三つ越えた。
においが変わった。ダンジョンの奥から、確かに来る。知っているにおいと知らないにおいが混ざった感触。でも今日は昨日より、ずっと濃い。
「……見えてきた」と好代は言った。
曲がり角の先に、扉があった。
◆扉の前
岩を切り出して作ったような、重い扉だった。
蔓が巻いていた。古い蔓で、もう生きていないが、形だけ残っている。扉の表面に何かが刻まれているようだったが、発光結晶の光だけではっきりとは見えなかった。
においを嗅いだ。
扉から——何かが来た。
ぱんでむのにおいに似ている。でもぱんでむそのものではない。草と電子と時間のにおい——でも、それより少し古い。時間の層が一枚多い感触。
「今日は引き返さないで、良いんだな」
「はい」
摩天ちゃんが扉の前で立ち止まった。「ここで待つ」
「……わかりました」
「一つだけ聞く」と摩天ちゃんが言った。
「はい」
「……怖いか」
好代は少し棚を確認した。
「……怖くないと言ったら嘘になります。でも——前が広い感触の方が大きいです」
摩天ちゃんが少し目を細めた。
「……それでいい。行け」
第三章「扉の向こう」
◆扉を開ける
扉の把手に手をかけた。
重かった。
体重をかけて引いた。
石が擦れる音がした。低くて、長い音。
扉が開いた。
においが来た。
棚が——全部静かになった。
合唱が止まった。
ただ、静かだった。
次の瞬間——においが来た。
好代は少し止まった。
このにおい——知っている。
一歩踏み込んだ。
◆中の様子
中は暗かった。
でも、光があった。
発光結晶が一つだけ、壁の中ほどに埋まっていて青白く光っている。
部屋は小さかった。六畳か八畳ほどの空間。床も天井も壁も、岩。
部屋の中央に——台座があった。
石の台座だった。高さは腰ほど。表面が滑らかで、発光結晶の光を少し反射している。
台座の上に、何かがあった。
包み紙に包まれた、バーガーだった。
包み紙が白かった。傷一つない。ここがどれだけ古い場所かわからないのに、包み紙だけが——まるで今作られたみたいに、きれいだった。
好代はゆっくり台座に近づいた。
◆台座の前で
台座の前に立った。
包み紙を見た。
何も書いていない。ロゴもない。文字もない。ただの白い包み紙だった。
においを確認した。
ぱんでむの全部が来た。
草と電子と時間と世界線と——摩天ちゃんのにおいも、渾沌ちゃんのにおいも、秩序ちゃんのにおいも、流焔ちゃんのにおいも、全部が一個の中に混ざっている。ぱんでむに来てから積み重ねてきた全部が、ここにある。
その奥に——自分のにおいと同じ核が、一番濃く、沈んでいる。
棚を開いた。全部の知識が静かにある。合唱で、全部がここにある。
手を伸ばした。バーガーに触れた瞬間、棚が全部一度に動いた。全部の知識が同じ方向を向いた。震えではない——全部がこれを知っている、という感触だ。まだ食べていないのに、ずっと前から知っているような。
台座から持ち上げた。
軽かった。バーガーとして、普通の重さだった。
「……ここで待っていたんですか」
好代は声に出した。
だれに言ったのかは、自分でもわからなかった。
においが——少しだけ動いた気がした。返事ではない。でも何かが、動いた。
「……食べます」と好代は言った。
包み紙を開いた。
第四章「千姿バーガー」
◆一口目
一口食べた。
情報が来なかった。
棚が——全部静かになった。
静かになった、と思った次の瞬間——
何かが来た。
知識ではなかった。においではなかった。
記憶だった。
誰かのにおいの記憶——渋谷の夏の夕方のにおい。マクドナルドの前に立った時のにおい。バーガーのにおいを全身で吸い込んだ時のにおい。
食べたかった。ずっと食べたかった。でも食べられなかった。でも——好きだった。
好代は少し止まった。
これは、知っているにおいだ。
自分のにおいに似ている。でも自分のにおいではない。
誰かが、自分と同じ場所に立っていた。同じにおいを嗅いでいた。同じ感触を持っていた。そしてその誰かが——ぱんでむに来た。バーガーを食べ続けた。食べるたびに少しずつ何かが変わっていった。
でも食べ終わらなかった。食べ終わる前に——
棚の奥が、広がった。
◆二口目
もう一口食べた。
記憶が、もっと来た。
ぱんでむの廊下のにおい。まだ自分が来る前の廊下。昔のクルーがいた。バーガーがあった。世界線のにおいが混ざっていた。この施設が——好きだった。全部食べたかった。でも食べ続けるうちに、少しずつ——人間としての輪郭が、薄くなっていった。
体が変わるのではない。においが変わっていった。
人のにおいが少しずつ薄くなって、ぱんでむのにおいが少しずつ濃くなっていった。食べるたびに、少しずつ。
怖くはなかった。ただ——バーガーが好きだった。それは変わらなかった。でも「バーガーが好き」という感触を持つ「自分」が、少しずつ薄くなっていった。
ある日、扉を開けて——気づいたら、廊下にいた。
でも廊下にいる「体」がなかった。
廊下そのものに、いた。
棚の奥が、広がり続けた。
◆残りを食べる
好代は少し止まった。
手の中のバーガーを見た。
棚の奥から来ているものを感じた。怖くはなかった。前が——広かった。
残りを食べた。
記憶の最後が来た。
気づいたら、外がなかった。渋谷に行けなかった。バーガーのにおいを嗅げなかった。全部を持っていたのに、「持つ体」がなかった。全部食べたかったが、食べ終わる前にそうなった。
そしてその時——わかった。
「全部食べたかった」が、終わらなかった。
終わらないままここにいて、終わらないまま——もう一度、と思った。
もう一度、渋谷に立って、マクドナルドの前でにおいを嗅いで。
でも今度は——食べ終わっても消えない体で。
溶け込まない体で。
「バーガーが好き」という感触が、最後まで残る体で。
だから——
最後に——紙の感触が来た。インクのにおい。まだ人間だった、最後の体の感触。
書いた。置いた。
——好きだったから、来た。それだけでいい。
棚の奥が、満ちた。
◆静かな部屋
好代は台座の前に立っていた。
手の中には包み紙だけがあった。バーガーは全部、食べ終わっていた。
棚を確認した。
全部ある。でも棚の形が今日から違う。全部の奥に、もう一つある。記憶ではなく、もっと根本的なものが、静かにある。
においを嗅いだ。
自分のにおいが変わっていた。ぱんでむのにおいと、自分のにおいが——同じ場所にある。
外側と内側が同じだ。
好代は確認した。
「バーガーが好き」という感触は、変わっていない。においを嗅ぎたい感触は変わっていない。ぱんでむのにおいが好きという感触は変わっていない。
「……変わらなかった」と好代は言った。声に出した。
発光結晶が、少しだけ明るくなった気がした。
錯覚かもしれない。でも、なった気がした。
【クルー視点モノローグ】
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秩序──四十八日目
好代さんがダンジョンに入った時刻を記録した。
摩天さんが扉の前で待機している。
管理表を確認した。
「未食バーガー管理表:好代さん用」。
残り一個の欄を見た。この一個は補充されるものではなかった。最初からあの場所にあった。私はそれを知っていた。
今日、記録が終わる。
丁寧に書いた。今日の日付を入れた。
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渾沌──四十八日目
すきよちゃんがダンジョンに行った。
リビング・オブ・カオスで一人で座ってる。
ぱんでむのにおいを確認してる。草と電子と時間のにおい。
すきよちゃんがいる時とにおいが少し違う。
すきよちゃんがいる時は、ぱんでむのにおいの中にあの子のにおいが混ざっている。ぱんでむのにおいとも同じ感触なのに、ちゃんと人のにおいとして感知できる。
今は感知の外にいる。
……。
帰ってきたら全部話してもらう。
でもたぶん、話してもらわなくても——帰ってきた瞬間に、もうわかる気がする。
そっちの方が——いい気がする。
すきよちゃんのにおいが、変わらないといいな。
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千姿──四十八日目
好代が扉を開けた。
目の前に来て、手に取った。
長い時間、ここにいた。台座の上で、ずっと待っていた。
……食べた。
棚の奥が満ちた感触が来た。
溶け込まない。溶け込まずに、受け取っている。
……ありがとう……
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【エピローグ】四十八日目、帰り道
発光結晶の光の中を、好代は歩いた。
包み紙を手に持ったまま。
棚の中を確認しながら歩いた。
奥に空間が満ちている。記憶が整理されている。知識が全部ある。においの地図が——今日は少しだけ広い。
ダンジョンの曲がり角を越えた。
摩天ちゃんのにおいを追った。スパイシーで熱い、力のにおい。その通りに歩いた。
曲がり角の先に、摩天ちゃんが立っていた。
好代を見た。
何も聞かなかった。
好代のにおいを一度確認して——少しだけ目を細めた。
「…………帰るか」と摩天ちゃんが言った。
「はい」
二人でダンジョンを歩いた。
発光結晶が青白く光っている。ぱんでむのにおいが、少しずつ濃くなっていった。
好代は棚を開いたまま、においを確認しながら歩いた。
草と電子と時間のにおい。
ぱんでむのにおいが——今日は少し、違う感触がした。
ずっとここにあったにおいだ。でも今日は、このにおいの中に何かが一つ加わった気がした。
何が加わったのかを、好代はもう知っていた。棚の中に静かに置かれた記憶が、教えてくれていた。
でも——それより先に、においで感じた。
体で、知っていた。
冷蔵庫の入口が見えた。
バックヤードの光が見えた。
ぱんでむに戻ってきた。
廊下に出た瞬間——渾沌ちゃんが立っていた。
「……すきよちゃん」
「ただいまです」
渾沌ちゃんがにおいを確認しに来た。顔を近づけて、真剣な顔で嗅いだ。
しばらく止まっていた。
「……あ」と渾沌ちゃんが言った。
渾沌ちゃんがゆっくり膝の上で手を組んで、少し下を向いた。
部屋が静かだった。
しばらくして、渾沌ちゃんが顔を上げた。
「……あ——そっか」と渾沌ちゃんが言った。静かな声で。「すきよちゃんは、千姿ちゃんの「好きだったから、来た」を、もう一回やったんだ」
好代は渾沌ちゃんを見た。
渾沌ちゃんが好代を見ていた。
一瞬、静かになった。
それから——渾沌ちゃんの目が、少し揺れた。
「……今、なんてよんでいいかわかんない」と渾沌ちゃんが言った。
好代は少し止まった。
渾沌ちゃんが——わかっている。名前を知っている。ただ、声に出す前に立ち止まっている。
「……今は、すきよちゃんで大丈夫です」と好代は言った。「帰ってきたので」
渾沌ちゃんが「……うん」と言った。
声が少し、いつもより低かった。
「……全部話してくれる?」
「はい。全部話します」
「……今すぐ?」
「はい。今すぐ」
渾沌ちゃんが少し考えた。
「……じゃあ、バーガー食べながら聞く。すきよちゃんも食べる」
「……私はさっきもう食べました」
「もう一個食べる。ぱんでむのバーガー、いくつあっても足りないでしょ」
好代は少し目が温かくなった。
「……そうです。足りないです」
渾沌ちゃんが好代の袖を引っ張った。キッチンの方向に歩き始めた。
摩天ちゃんが後ろで一瞬だけ止まって——それから自分の訓練場へ向かった。
廊下のにおいが戻った。
草と電子と時間のにおい。
夜、部屋に戻った。窓の外を見た。ぱんでむの夜だ。発光結晶が光っている。
今日のにおいの中に、一つ新しいものが混ざっている。
好代はそれを棚にしまった。
棚が、静かに合唱した。
棚を閉じた。
明日も、バーガーは来る。
世界線の数だけ、バーガーはある。
全部食べた。でも——前が広い。
前が広い。
——それは、ずっと変わらない。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
第一部は「食べても死なない」という発見の話でした。
第二部は「まだ食べていない」という欲望の話です。
制限がなくなった体で、それでも食べ続けることの意味。においで世界を読みながら、少しずつ棚を育てながら、前が広い感触を持ったまま進んでいくこと。それだけを積み重ねた十八話でした。
気配のバーガー、音のないバーガー、質量感知のバーガー、植物対話のバーガー——最初は一個一個が全部別々の知識でした。でも棚が育つにつれて、それらが「合唱」になっていった。にぎやかから、合唱へ。その変化が、第二部の縦軸の一つでした。
分類不明のバーガーが四個ありました。食べるたびに少しアレルギーに近い反応が出た。理由は最後まで書きませんでしたが、千姿自身の欠片を固めたものを、千姿が設計した体が口にしていた。自分で作った体に、自分が触れていた。それだけのことです。
渾沌ちゃんが「なんで好きそうだと思ったんだろう」と何度か書きました。
彼女は最後まで、自分の感触の正体を言葉にしませんでした。でも全部わかっていた。「ずっとわかってた」と四十八日目の朝に言いました。言葉にするのが怖かっただけで、においでは最初から知っていた。彼女はそういう子です。
最後に一つだけ。
「好きだったから、来た。それだけでいい」
この一行が第二部の全体を貫いています。始まりの記録に残っていた言葉。書いた人間が誰かは、もうわかっています。でも好代もこの言葉を読んだ時に「わかります」と言いました。「私も、ぱんでむに来た理由はそれだけだった」と。
同じことを、二人が別々の時代に言っている。それだけのことです。
第三部でお会いしましょう。
前は、まだ広い。




