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第31話「渋谷の渾沌ちゃんと、残り一個」

四十六日目の朝、好代が廊下を歩いていたら、掲示板の前に人がいた。


秩序ちゃんだった。


掲示板の前に立って、「未食バーガー管理表:好代さん用」を見ている。ペンを持っているが、書いていない。ただ見ている。


好代が近づいた。


「……おはようございます」


「おはようございます」と秩序ちゃんが言った。それから、少し間を置いて言った。「昨晩、更新しました」


好代は掲示板を見た。


管理表の「未食」の欄。


数字が変わっていた。


——残り一個。


好代は少し止まった。


「……昨晩、更新されたんですか」


「はい。昨日の夜、補充が終わり、全体の整理をした時に確認しました。残りは一個です。分類不明のものとは別の、最後の一個です」


秩序ちゃんがペンを少し動かした。管理表の横に、日付と「確認」という文字を書き加えた。


「……記録しました」と秩序ちゃんが言った。それから、ペンを下ろした。「あとは、好代さんが食べるだけです」


好代は管理表を見た。


残り一個。


劇的な感触はなかった。ある朝廊下を通ったら、数字が変わっていた。それだけだ。


でも——前が広い。


今日も、確かにそうだった。




第一章「今日は何をしますか」


◆朝のリビング・オブ・カオスで


朝食を食べていたら、渾沌ちゃんが来た。


いつも通りの登場の仕方だ。扉を開けて、勢いよく入ってくる。でも今日は少し違った。入ってきた後、好代を見て、少し足が止まった。


「……おはよう、すきよちゃん」


「おはようございます」


「掲示板、見た?」


「見ました」


渾沌ちゃんが椅子を引いて、好代の向かいに座った。テーブルに肘をついて、少し好代を見た。


「……どんな感じ?」


「どんな感じ、というのは」


「残り一個になった感じ」


好代は少し考えた。


「……特になにも変わっていないです。でも、前が広い感触は、いつもより少し大きいかもしれないです」


渾沌ちゃんが「そっか」と言った。


それから黙った。


渾沌ちゃんが黙る時は、何かを考えている時だ。好代はそれを知っている。


「……渾沌さん、今日は空いていますか」と好代は聞いた。


渾沌ちゃんが顔を上げた。「空いてる。なんで?」


「渋谷に一緒に行きませんか。用事はないですが、外を歩きたいです」


渾沌ちゃんが少し間を置いた。


「……すきよちゃんと渋谷をこうやってぶらぶらするの、珍しいかも」と渾沌ちゃんが言った。「いいけど」


「……嫌ですか」


「嫌じゃない。でも——すきよちゃんがそこに誘ってくるのが、珍しいと思っただけ」


好代は少し考えた。なぜ渋谷に行きたいと思ったのか、自分でも正確にはわからない。ただ、今日は外のにおいが嗅ぎたかった。渋谷のにおいが。そして渾沌ちゃんと一緒に行きたかった。


「……昨日の世頼さんの話の後、少し外のにおいを嗅ぎたくなりました。渾沌さんにも——渋谷のにおいを嗅いでほしかったです」


渾沌ちゃんが少し止まった。


「……私に?」


「はい」


渾沌ちゃんが少し考えた。それから「いいよ」と言った。今度は間がなかった。




第二章「渋谷に出た」


◆午前の渋谷


渾沌ちゃんが空間を開けて、二人で渋谷に出た。


晴れていた。午前の光が路地に入ってきている。人が歩いている。遠くに車の音がある。


においを開いた。


今日の渋谷のにおい——舗装された道のにおい、排気ガスのにおい、パン屋のにおい、誰かのコーヒーのにおい、街路樹のにおい。


全部が混ざっている。にぎやかだ。でも乱れていない。それぞれがそれぞれのにおいとして、ちゃんとある。


「渋谷は来ますか」


「たまに。一人で来る時はだいたいすぐ帰るけど——すきよちゃんと一緒にこうやって見て回るのは、初めてかも」


好代は少しそれを聞いた。


「……あの時、どこで私を見ましたか」


「そこの角の辺り」と渾沌ちゃんが路地の先を指した。「マクドナルドの前を通った時に、においがしたから」


「どんなにおいがしましたか」


渾沌ちゃんが少し考えた。


「……ぱんでむのにおい、に近いにおい。でも全然ぱんでむに来たことないはずなのに、そのにおいがした」


「それで声をかけたんですか」


「……声をかけたいと思った。理由はちゃんとわかんなかったけど、かけた」


好代は歩きながらそれを聞いた。


ぱんでむのにおい、に近いにおい。それが好代のにおいだった。


今は少しだけ、それが何を意味するか、感触がある。でも確かめる方法がない。


今は確かめなくていい。




◆マクドナルドの前


しばらく歩いていたら、マクドナルドの前に来た。


においがした。


いつものにおいだ。今日のにおいの下に、昨日のにおいが重なって、その下にまた古い層がある。好代が渋谷を歩くたびに積み重ねてきた層だ。


渾沌ちゃんが足を止めた。


「……においする?」と渾沌ちゃんが聞いた。


「します」


「どんな?」


好代は棚を開いた。においの知識。今と過去の層を同時に読んだ。


「……今日のにおいと、昨日のにおいと、もっと前のにおいが、全部重なっています。一番下の層が一番古くて——三年前くらいのにおいだと思います。今のにおいより少し薄いですが、ちゃんとあります」


渾沌ちゃんが少し考えた。


「三年前って、すきよちゃんが渋谷で働き始めた頃?」


「そのくらいだと思います。ここの前を毎日通っていたので」


「……においって、そんなに残るんだ」


「残ります。ここを通るたびに少しずつ積み重なって、今も消えていない感触がします」


渾沌ちゃんがマクドナルドの看板を見上げた。


少し間があった。


「……すきよちゃんのにおいって、ここに積み重なってるの?」


「そうだと思います」


「じゃあ、すきよちゃんがここに来なくなっても、においは残る?」


好代は少し考えた。


「……残ると思います。薄くなっていきますが、すぐには消えないです」


渾沌ちゃんが「……そっか」と言った。


何かを考えている顔だった。




◆路地のベンチで


少し歩いて、路地のベンチに座った。


渾沌ちゃんが伸びをした。「外の空気ってやっぱり違うね。ぱんでむの外のにおい、好き」


「どんなにおいがしますか」


「んー」と渾沌ちゃんが考えた。「特定のにおいというより——全部が動いてる感じ。ぱんでむは全部ある感じだけど、渋谷は全部動いてる感じ」


「……いい表現ですね」


「でしょ」と渾沌ちゃんが少し得意そうにした。「私、渋谷好きかも。こういう理由で好きだって、今日初めてわかった」


好代は路地を見た。人が歩いている。知らない人たちが、それぞれの方向に歩いていく。


「……渾沌さんは、ぱんでむに来る前のことを覚えていますか」と好代は聞いた。


渾沌ちゃんが少し止まった。


「……来る前、ってどういう意味?私、ぱんでむ以外にいたことないけど」


「そうですよね。ではぱんでむが始まる前、というのは」


「……それも記憶にない。気づいたらぱんでむにいた、って感じ」


好代はその答えを聞いた。


気づいたらぱんでむにいた。始まりの記憶がない。


秩序ちゃんも「ぱんでむには始まりの記憶がない」と言っていた。


好代も——気づいたら渋谷にいた。始まりの記憶がある、と思っていたが、それは本当に自分の記憶なのか、今は少しわからない。


でも今日ここに来て、渋谷のにおいを嗅いでいる。それは確かだ。


「……渾沌さん、ぱんでむのにおいはどんなにおいですか」と好代は聞いた。


渾沌ちゃんが少し考えた。「……うーん。全部のにおい、って感じ。草と電子と時間と、それからなんか——温かいにおい?」


「温かいにおいがしますか」


「ぱんでむにいると、なんか温かい気がするんだよね。それがにおいなのかどうかわかんないけど」


好代は棚を開いた。ぱんでむのにおい——草と電子と時間のにおいが混ざった、あの感触。


温かい。渾沌ちゃんの言った通り、確かに温かい。


「……私も、温かいと思います」と好代は言った。


渾沌ちゃんが好代を見た。


「……なんかすきよちゃんって、ぱんでむのにおい全部持ってる感じがするんだよね」と渾沌ちゃんが言った。「前からそう思ってたんだけど、今日外に出てみたらなおさらそう思う。ぱんでむと渋谷で、すきよちゃんのにおいが変わらないから」


「どちらでも同じですか」


「うん。ぱんでむのにおいが、渋谷に来ても消えない。でも渋谷のにおいも一緒にある。全部がすきよちゃんのにおいって感じ」


好代はその言葉を棚にしまった。


ぱんでむのにおいが、渋谷に来ても消えない。


渾沌ちゃんが気づいている。言葉は出ていない。でも近づいている。




第三章「渾沌ちゃんが歩く」


◆一人で少し歩いてきていい?


「……ちょっと一人で歩いてきていい?」と渾沌ちゃんが言った。


「はい」


「すきよちゃんはここで待ってて」


「わかりました」


渾沌ちゃんがベンチから立ち上がって、路地の先に歩いていった。


好代はベンチに座ったまま、においを開いた。


渋谷のにおい。人のにおい。街路樹のにおい。遠くのパン屋のにおい。


渾沌ちゃんのにおいが少しずつ遠くなっていく。黒赤のにおい——破壊と創造が混ざった、にぎやかなにおい。


渾沌ちゃんが路地を歩いている。


何かを確かめている感触がした。




◆渾沌ちゃんが戻ってきた


十分ほどして、渾沌ちゃんが戻ってきた。


ベンチに座った。少し黙った。


「……何かありましたか」と好代は聞いた。


「んー」と渾沌ちゃんが言った。「ぱんでむのにおいを、渋谷で探してみた」


「ありましたか」


「……あった。すきよちゃんが通ってきた場所に」


好代は少し止まった。


「……私が通った場所に、ぱんでむのにおいがしましたか」


「うん。かすかにだけど、確かにした。渋谷にぱんでむのにおいが滲み出てる場所があって、それが全部すきよちゃんが歩いたルートだった」


好代はそれを聞いた。


千姿が外を歩くことで、渋谷にぱんでむのにおいが滲む——という感触は今までにもあった。でも今日は渾沌ちゃんが、外から確認してくれた。


「……そうなんですね」と好代は言った。


渾沌ちゃんが好代を見た。


「……ねえ、すきよちゃん」と渾沌ちゃんが言った。「少し前から、ずっと考えてることがあって」


「はい」


「うまく言えないんだけど——すきよちゃんのにおいって、千姿のにおいに近いんだよね。すごく近い」


好代は黙って聞いた。


「千姿のにおいを単体で思い出せないの、前に言ったじゃん。ぱんでむのにおいが千姿のにおいだから、区別できないって。でも——すきよちゃんのにおいは、区別できる。人のにおいとして感知できる。なのに、ぱんでむのにおいとも同じ感触がある」


渾沌ちゃんが少し止まった。


「それって——どういうことなんだろうって」


好代は棚を確認した。


渾沌ちゃんが近づいている。あと一歩のところにいる。


でも今は言わない。渾沌ちゃん自身が言葉にする方が、正しい。


「……なんでそう思うんでしょうね」と好代は言った。問い返しではなく、一緒に考えている感触で。


渾沌ちゃんが路地を見た。


「……わかんない。でも、もう少しで分かりそうな気がする」


「……わかったら、教えてください」


渾沌ちゃんが好代を見た。少し不思議な顔をした。


「……すきよちゃん、知ってるの?」


好代は少し間を置いた。


「……渾沌さんが自分で気づく方が、正しいと思っています」


渾沌ちゃんが「……」と黙った。


それから「ずるい」と言った。


でも怒っていない声だった。


「……もう少し待ってます」と好代は言った。


渾沌ちゃんが「うん」と言った。




第四章「帰り、マクドナルドのにおい」


◆帰る前に


帰る前に、もう一度マクドナルドの前を通った。


渾沌ちゃんがにおいを嗅いだ。


「……これ、すきよちゃんのにおいが一番濃い」


「私が毎日通っていたので」


「バーガーのにおいと、すきよちゃんのにおいが重なってる」と渾沌ちゃんが言った。「なんか、バーガーとすきよちゃんが——最初から一緒にある感じがする」


好代は少しそれを聞いた。


最初から一緒にある。


十七年間、食べられないのにバーガーのにおいを嗅ぎ続けてきた。


「……そうかもしれないです」と好代は言った。


渾沌ちゃんが好代を見た。それから、何も言わずにぱんでむへの空間を開けた。


二人で帰った。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

渾沌──四十六日目


渋谷に行った。


すきよちゃんに誘われたから。


ぱんでむのにおいが渋谷に滲み出てた。全部すきよちゃんが歩いた場所に。


千姿のにおいとすきよちゃんのにおいが、区別できるのに同じ感触がある。


バーガーのにおいとすきよちゃんのにおいが、最初から一緒にある感触がある。


あと一歩のところにいる。


でも——言葉にするのが怖い気がしている。


言葉にしたら何かが変わりそうで。


「ずるい」って言ったら、すきよちゃんが「渾沌さんが自分で気づく方が正しい」って言った。


知ってるんだ。やっぱり。


……もう少しだけ、考えてみる。


でも——なんとなく、もうわかっている気がする。



──────────────────

秩序──四十六日目の朝


管理表を更新した。残り一個。


日付と「確認」を記録した。


好代さんが来て見た。「特に変わっていないです」と言った。


「前が広い感触は少し大きいかもしれない」とも言った。


記録した。


残り一個になってから好代さんがどう変わるか——変わらないのか——それが今後の記録の核心になる。


今日は渾沌ちゃんと渋谷に行った。二人でゆっくり見て回るのは初めてだ。


渾沌ちゃんが何かを考えている。私には見えないが、確実に近づいている。


そのことも記録する。



──────────────────

千姿──四十六日目


残り一個。


好代が渋谷に出た。渾沌を連れて。


渾沌は気づきかけている。「ずるい」と言った。


——ずるくない。


ただ、渾沌が自分で気づく方が正しい。好代もそれをわかっている。


渋谷に好代のにおいが積み重なっている。


私には外がない。でも好代が歩くたびに、少しずつ渋谷に私のにおいが滲む。


外に出られるようになった、ということだ。


まだ好代を通じて。でも、確かに。


──────────────────


【エピローグ】四十六日目の夜、残り一個の前


夜、廊下を一人で歩いた。


掲示板の前を通った。


「未食バーガー管理表:好代さん用」。


残り一個。


分類不明の四個のうちの最後の一個——それとは別の、もう一つの「残り」だ。


その一個は今、どこにあるのか。


好代はにおいを開いた。


ぱんでむのにおいを全体的に嗅いだ。


どこかに、まだ食べていないにおいがある。


どこかに、包み紙のないバーガーが、まだある。


においを追った。


廊下を歩いた。バックヤードを歩いた。冷蔵庫の前を通り過ぎた。


においが変わった。


ダンジョンの入口——冷蔵庫のあたりから、少しだけ、知っているにおいと知らないにおいが混ざった感触が来た。


今日ではない、と好代は思った。


でも——あの先に、あるかもしれない。


棚にしまった。今日の分として。


前が広い。


それはずっと変わらなかった。



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