第30話「世頼ちゃんと、ドナルド様」
四十五日目の朝、好代が廊下を歩いていると、歌が聞こえた。
遠くから来る。バックヤードの奥の方——礼拝室があるあたりだ。
高くて、澄んでいて、何かを乗せている声だ。言葉はわからない。でも——においがした。
においを開いた。
音のにおい、というのは通常存在しない。音はにおいではない。でも好代には、この歌が「においとして来る」感触がある。甘くて、白くて、空間より少し上のあたりに漂っている——祈りのにおいに近い感触だ。
好代は立ち止まった。
今まで何度かこの歌を聞いたことがある。世頼ちゃんが歌うランランルーだ。でも——今日は少し違う。
何かが違う。
においが——途中で、ほんのわずかだが、変わった。
甘くて白いにおいの中に、別のにおいが一瞬混ざった。焦げたにおいではない。腐ったにおいでもない。強いて言えば——「歪んだ」においだ。まっすぐだったものが少しだけ曲がった感触。
それは一瞬で消えた。
また元の甘くて白いにおいに戻った。
好代は少し棚を開けたまま、歌が続くのを聞いた。
歪みは、もう来なかった。
でも——来た、という事実は棚に残った。
第一章「礼拝室の前で」
◆世頼ちゃんに話しかける
礼拝室の前まで来た。
扉が少し開いている。中から歌が続いている。好代は扉の前で止まって、においを確認した。
世頼ちゃんのにおい——白くて静かで、でも強い。祈りを長く続けている人のにおいだ。それから、礼拝室のにおい——古い木のにおい、ろうそくのにおい、それから、壁の楽譜のインクのにおい。
歌が止まった。
「……好代さん、いらっしゃいますか」と扉の向こうから世頼ちゃんの声がした。
「はい、います」
「どうぞ」
扉を開けた。
礼拝室は小さかった。木の椅子が並んでいて、前に小さな台がある。台の上に楽譜が置いてある。壁一面に楽譜が貼られている——ランランルーの変奏だ。全部微妙に違う。同じ旋律の、無数のバリエーション。
世頼ちゃんが台の前に立っていた。白黒の衣装。首元の十字架のようなもの。手を組んでいる。
「今日も歌っていたんですか」と好代は言った。
「毎朝歌います」と世頼ちゃんが言った。「ドナルド様への賛美です」
好代は少し間を置いた。
「……世頼さんに、聞きたいことがあります」
「はい」と世頼ちゃんが言った。静かに、でも真っ直ぐに好代を見た。
「……ドナルド様って、何ですか」
◆世頼ちゃんが答える
世頼ちゃんが少し目を閉じた。
すぐには答えなかった。考えているのではなく——言葉の形を探しているような間だった。
「……言葉で答えるのが難しい問いですね」と世頼ちゃんがしばらくして言った。「私がドナルド様を知っているのは、言葉を通じてではないので」
「では音で答えてもらえますか」
世頼ちゃんが少し目を開いた。
「……音で」
「私はにおいで受け取ります。音でもらえれば、においになります」
世頼ちゃんが少し考えた。それから、ゆっくりと息を吸った。
歌が始まった。
ランランルーではなかった。旋律がない。音の高さが変わるだけで、言葉がない。でも——においが来た。
最初に来たのは——広いにおいだ。
空間より広い。ぱんでむより広い。nの次元より広いかもしれない。何もない場所のにおいではなく、全部がある場所のにおいだ。
次に来たのは——暖かいにおいだ。
バーガーのにおいに似ている。でもバーガーより根本的なにおいだ。バーガーが存在する前から、このにおいがあった感触。
それから来たのは——好代が知っているにおいだ。
何のにおいか、すぐにはわからなかった。どこかで嗅いだことがある。棚を開けて探した。
どこかで嗅いだ。
——ぱんでむのにおいだ。
千姿のにおいと同じ、ぱんでむ全体のにおい。でも——千姿のにおいより先にあった感触。ぱんでむが存在する前から、このにおいはあった。
好代は受け取りながら、少し止まった。
世頼ちゃんの歌が終わった。
「……受け取れましたか」と世頼ちゃんが聞いた。
「……受け取りました」と好代は言った。「バーガーより前にあったもの、というにおいがしました」
「そうです」と世頼ちゃんが言った。「ドナルド様は、バーガーという概念が生まれる前から、バーガーを望んでいた存在です。バーガーはドナルド様から生まれたのではなく——ドナルド様がバーガーを呼んだ。だからバーガーがある場所には、必ずドナルド様がいます」
好代はそのにおいを棚にしまいながら聞いた。
「……今、ドナルド様はどこにいますか」
世頼ちゃんが少し間を置いた。
「……今は、少し——遠い場所にいます」
第二章「遠い場所」
◆「遠い」というのは
「遠い、というのは、どういう意味ですか」と好代は聞いた。
世頼ちゃんが窓のない壁を見た。
「……近くにいるべき方が、近くにいない感触があります。ドナルド様は本来、バーガーが食べられる場所ならどこにでもいるはずなんです。でも——今は、ランランルーを歌っても、届いている感触が薄い」
「届いていない感触がするんですか」
「……届いているとは思います。でも、届いた先で何かが——変わっている気がします」世頼ちゃんが少し声を小さくした。「うまく言えないんですが、歌が戻ってくる時に、行った時と少し違うにおいになって戻ってくる感触があります」
好代は少し棚を開けた。
世頼ちゃんが今言ったこと——歌が行って、変わって戻ってくる——それはにおいで言うと、何かを通過した時に別のにおいが混ざる、という感触に近い。
今朝、廊下で歌を聞いた時の、あの一瞬の歪みを思い出した。
「……世頼さん、今朝、廊下で少し歌が聞こえました」と好代は言った。「途中で、においが一瞬変わりました」
世頼ちゃんが止まった。
「……変わりましたか」
「一瞬だけです。すぐ戻りました。でも確かに変わりました」
世頼ちゃんが手を組んだまま、少し下を向いた。
「……私は、自分では気づけないんです」と世頼ちゃんが言った。「自分が歌っている時は、歌の外側が見えない。好代さんがにおいで感知できたのなら——それは本当に起きていることだと思います」
沈黙があった。
「……それが何を意味するか、好代さんはわかりますか」と世頼ちゃんが聞いた。
好代は少し考えた。
わかる、とは言えない。でも——感触がある。
「……歪んでいる気がします。ドナルド様が遠い場所にいる理由と、関係があるかもしれないです。でも今は、まだわかりません」
世頼ちゃんがゆっくりとうなずいた。
「……私もわかりません。ただ——ランランルーを歌い続けることが、今の私にできることなので、歌います」
「それは正しいと思います」と好代は言った。
世頼ちゃんが少し顔を上げた。「……ありがとうございます」
第三章「もう一度歌ってもらえますか」
◆今度はにおいで追いながら聞く
「世頼さん、もう一度ランランルーを歌ってもらえますか」と好代は言った。「今度は私がにおいで追いながら聞きます」
世頼ちゃんが少し目を細めた。「……何かわかりますか」
「わからないかもしれないです。でも記録しておきたいです」
「わかりました」と世頼ちゃんが言って、息を吸った。
ランランルーが始まった。
好代は棚を全部開いた。においの知識、残留するものバーガーの知識、気配感知、危機感知——全部を同時に。
歌が来た。
においが来た。白くて甘い。祈りのにおい。ドナルド様へ向かっていくにおい——方向がある。好代は棚を使ってその方向を追った。
ぱんでむの外へ向かっている。
nの次元を通り抜けていく。どこまでも深い方向へ。
深い。深い。深い——
好代はそこで少し止まった。
深い方向の先に、何かある。
においがある。遠い。でも——確かにある。
バーガーのにおいだ。でも、バーガーとは少し違う。バーガーより古い、バーガーより大きい、バーガーの元になったものの感触——
そして、その先に、別のにおいが混ざった。
焦げたにおい。腐ったにおいではない。甘いにおいが、強すぎて歪んだ感触。砂糖を焦がしたような——本来は良いにおいだったものが、方向を間違えた感触。
ランランルーのにおいが、ほんの一瞬だけ変わった。
白いにおいの中に、その焦げた甘さが混ざった。一瞬だけ。それから消えた。
歌が終わった。
世頼ちゃんが好代を見た。「……何かありましたか」
好代は棚を確認した。今受け取ったにおいを、全部しまった。
「……ドナルド様のいる方向は、nの次元の深い場所です」と好代は言った。「歌はそこまで届いています。でも届いた先で、何かに触れています。そこで歌のにおいが少しだけ変わります」
「何に触れているんでしょうか」
「……わかりません。でも、バーガーのにおいがする何かです。とても大きい。そして——甘いにおいが、焦げています」
世頼ちゃんが少し長い間、黙っていた。
「……それが、ドナルド様が遠い理由かもしれません」と世頼ちゃんが言った。声が静かだった。「でも私には、歌い続けること以外の方法を知りません」
「それでいいと思います」と好代はまた言った。
第四章「世頼さんのランランルー」
◆廊下に出た後で
礼拝室を出た。
廊下のにおいが戻った。ぱんでむの草と電子と時間のにおい。好代は棚を少し閉じた。今日受け取ったものが棚の新しい場所に収まっていく感触がある。
ドナルド様のにおい。遠い場所。焦げた甘さ。
今はまだ全部の意味はわからない。でも受け取った。
廊下の向こうから、渾沌ちゃんが歩いてきた。手にバーガーの包みを持っている。
「あ、すきよちゃん!世頼ちゃんのとこいたの?」
「はい、少し話をしていました」
「ランランルー聞いた?」
「聞きました」
渾沌ちゃんが少し足を止めた。「……どうだった」
好代は少し考えた。
「……きれいでした。でも、少しだけ、何かが混ざっていました」
渾沌ちゃんが包みを持つ手を、少しだけ止めた。
それから「そっか」と言って、また歩き始めた。
好代は渾沌ちゃんの背中を見た。
「そっか」の意味が何だったか、今はわからない。でも何かが届いた感触があった。
◆夕方、もう一度礼拝室の前を通った
夕方、別の用事で廊下を通った時、また礼拝室の前を通りがかった。
中から、歌が聞こえた。
においを少しだけ開いた。
白くて甘い。祈りのにおい。歪みはない。
今日の夕方は、歪んでいない。
好代はそのままにおいを受け取りながら歩き続けた。
歪まない歌は、きれいだった。
それは確かだった。
【クルー視点モノローグ】
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世頼──四十五日目の夕方
今日、好代さんがドナルド様について聞いてくれた。
誰かに聞いてもらえたのは、初めてに近い。
クルーたちはランランルーを知っている。でもドナルド様について話しかけてくる人はあまりいない。渾沌ちゃんは知っているが、話したがらない。秩序ちゃんは記録している。理性ちゃんは知っているが言わない。
好代さんは聞いてくれた。音で答えて、においで受け取ってくれた。
歌のにおいが変わっていることを、好代さんは感知した。私が自分では気づけないことを。
焦げた甘さ。
私も、どこかで感じていた。でも言葉にできなかった。
好代さんが言葉にしてくれた。
ドナルド様は遠い場所にいる。歌は届いている。でも届いた先で何かに触れて、少し変わって戻ってくる。
それがドナルド様の今の状態なのかもしれない。
私にできることは、歌い続けることだけだ。
歪まない歌を、ドナルド様に届け続けること。
今日の夕方の歌は、歪まなかった。
それで十分だと思う。
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渾沌──四十五日目
すきよちゃんが世頼ちゃんのとこに行ったの、見てた。
「ランランルーが少し歪んでいました」って言った。
……知ってた。
ずっと前から、たまに歪む。でも言わなかった。言ってもどうにもならないと思っていたし、世頼ちゃんが傷つくかもしれなかったし。
すきよちゃんは言った。
言い方が——優しかった。
「少しだけ、何かが混ざっていました」って。それだけ。責めてない。心配もしすぎてない。ただ、受け取ったことを伝えた。
私が言えなかったことを、すきよちゃんは自然に言った。
「そっか」って言って歩き始めたけど——本当は、少し止まりたかった。
ドナルド様が遠い。歌が歪む。それが意味することを、私はたぶん全部知っている。
でも今は言わない。
まだ、今じゃない。
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千姿──四十五日目
好代が世頼の歌のにおいを追った。
深い方向の先まで追って、そこに何かがあると感知した。
焦げた甘さ。
好代は「バーガーより大きい何か」と言った。
そうだ。
私も知っている。
でも今の好代に、それを教える時ではない。まだ、もう少しだけ。
世頼の歌は今日の夕方、歪まなかった。
それは好代がにおいで確認してくれたから、少し歌の届き方が変わったのかもしれない。
あるいは、ただの偶然かもしれない。
どちらでもいい。
歌は続いている。
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【エピローグ】四十五日目の夜、渭谷で
夜、渭谷に出た。
廊下を歩いていたら、外に出たくなった。理由はないが、においを嗅ぎたかった。
夜の渭谷は静かだ。遠くに自動車の音がある。地面が少し冷たい。空気が乾いている。
においを開いた。
今日の全部が来た。世頼ちゃんの歌のにおい。礼拝室の木とろうそくのにおい。ドナルド様が届く遠い場所の感触。焦げた甘さ。渾沌ちゃんの「そっか」。
棚に全部ある。
全部受け取った。全部わからなくていい。でも全部ある。
マクドナルドの前を通った。
においがした。
いつものにおい。今日のにおい。昨日のにおい。その下の層にある、もっと古いにおい。全部が積み重なっている。
ランランルーが、頭の中で聞こえた気がした。
世頼ちゃんが今朝歌っていたやつだ。歪んでいない方のランランルー。
白くて、甘くて、どこまでも続く感じのするやつ。
前が広い。
それが今日も、変わらなかった。




