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第29話「最後の分類不明と、扉のにおい」

四十四日目の朝。


摩天ちゃんが保冷ボックスを持ってリビング・オブ・カオスに来た。


「最後の一個だ」と摩天ちゃんが言った。


好代はボックスを見た。一個だけ入っている。包み紙が——白くない。黒くない。灰色でもない。見る角度によって変わるのではなく、色が定まっていない感じだ。光のあたり方ではなく、包み紙そのものが決まっていない。


においを嗅いだ。


前三回と同じく、カテゴリが読めない。でも今回は前三回のどれとも違う。前三回はそれぞれ「深い」「薄い広い」「境界」という感触がそれぞれあった。今回は——何もない感触だ。においがないのではない。においがあるが、どこにも当てはまらない感触がある。


「……今日は少し違います。前三回は何かしら感触があったのですが、今回は当てはめる場所がないにおいがします」


「それが最後の一個の特徴だ」と摩天ちゃんが言った。「食べてみないと何も言えない。今日の午後はダンジョンに行く予定だが、その前に食べておくかどうかは——あなたが決めていい」


好代は少し考えた。


ダンジョンの前に食べる。反応が出た場合、巡回中に体の不具合が残るリスクがある。でも前三回は全て三秒以内で消えた。それより長く残ったことはない。


「……食べます。今日の朝に」


摩天ちゃんがうなずいた。「では今」


秩序ちゃんがいつの間にかいた。書類を持っている。記録の準備だ。




【第一章】分類不明バーガー、四回目


好代はバーガーを手に取った。


においを最後にもう一度嗅いだ。


やはりどこにも当てはまらない。強いて言えば——全部のにおいが少しずつ混ざっている感触がある。草のにおい、電子のにおい、土のにおい、古い紙のにおい、焦げたにおい、甘いにおい。全部が薄く混ざっているが、どれかに決まらない。


「……食べます」


一口食べた。


情報が来た——でも今回は来方が違った。


特定の知識が入るのではなく、棚全体が一瞬だけ軽くなった感触だ。それぞれの棚の重さが、一瞬だけゼロになって、そしてまた戻った。一秒かそれ以下の出来事だ。


軽くなった——でも軽くなる前の重さが何だったかを、軽くなった瞬間に初めて感じた。ずっとそこにある重さだったから、気づかなかった。


体の反応が来た。


喉でも手でも耳でもなく——全部だった。


喉、両手、耳、足の裏、後頭部が同時に、ごく短くざわついた。ざわつく、という感触が一番近い。痺れでも熱さでもない。ざわざわ、という感触が全身に一瞬走って、消えた。


二秒ほどの出来事だった。


「……全身が少しざわつきました。二秒くらいで消えました。今は何もないです」


摩天ちゃんが手帳を出した。


「全身、同時に、二秒で消失。今回初めての出方だ。知識の格納は」


「……普通ではなかったです」と好代は少し考えて言った。「特定の知識が入った感触がないです。棚が一瞬軽くなって、戻った感触がありました。何が変わったかはわかりません」


「……何かが変わった感触はあるか」


好代は棚を確認した。全部開けた。


全部ある。変わっていない——でも、何かが少し違う。


「……棚の感触が、少し変わった気がします。何が変わったかは言えないですが——昨日より、少し、全部が静かです。うるさくない感じです。いつもにぎやかなのが、少しだけ落ち着いた感触です」


摩天ちゃんが少し間を置いた。


「……「にぎやか」から「静か」に変化した、ということか」


「完全に静かではないです。でも前より落ち着いています。喧騒ではなく、合唱みたいな感じになった、という感触が一番近いかもしれないです」


秩序ちゃんがペンを速く動かした。


「……今日はよくわかりませんでした」と好代は言った。「何が起きたか、言葉にできないです」


それまでの三回は全て「体調かもしれない」と言って流していた。今回は流さなかった。


摩天ちゃんが好代を見た。何も言わなかった。でも手帳に何かを書いた。




【第二章】午後——ダンジョン深部


昼過ぎ、冷蔵庫の裏から入った。


今日は普段の巡回ルートを速く通り抜けて、深い区画へ向かう予定だ。前の人間が向かった先——前回の巡回で「方向」だけ読めた、その先へ。


通常の巡回区画を通過するのに一時間かかった。遭遇は一件だけ、小型の個体で摩天ちゃんが素早く処理した。好代の声出しは機能した。


深い区画に入った。


においが変わった。いつものダンジョンのにおいより、もっと静かだ。有機物のにおいが薄い。空気が冷たい。石のにおいだけが濃い。


「……静かですね」


「深い区画は個体が少ない。代わりに——出ると大変なものが稀にいる。気配を絶対に切らすな」


「はい」


好代は棚を全部開いた。今日は少し違う感触がある——朝の分類不明バーガーで棚が「合唱」に変わったせいか、全部の知識が少しだけ協調して動いている感触がある。うるさくない。それぞれが主張しすぎていない。


においを開いた。今と過去の二層を同時に受け取った。


進んだ。




◆前の人間の痕跡、深い場所で


二十分ほど進んだところで、においが変わった。


前の人間の痕跡が濃くなっていた。


これまで感じていた「古い、かすかな痕跡」ではなく——もう少し濃い。方向も読める。この先に向かっている。


「……前の人間の痕跡が濃くなっています。この先に向かっています」


摩天ちゃんが少し足を止めた。「……初めて入る区画だ。気配は」


「……今のところ、個体の気配はないです。でも——何か別のものがあります。においじゃないです。気配でもない。空間の感触が変わっています」


「境界か」


好代は棚を確認した。「境界を感知する」知識と「空間の端を感知する」知識が、静かに両方動いていた。


「……そうかもしれないです。空間がどこかで変わっています。今の空間と、別の何かが接している感触があります。少し先に」


「……行くか」と摩天ちゃんが言った。判断を聞いている声だ。


「……行けると思います。でも——今日は確認だけにした方がいいかもしれないです。何があるか、においで読んでから判断したいです」


摩天ちゃんがうなずいた。「わかった。進め。私が後ろにいる」




◆扉のにおい


さらに十分進んだ。


石の壁が変わった。


壁の質が変わった——石の組み方が違う。自然に積み重なった石ではなく、何かが意図を持って作った石の壁だ。継ぎ目が細い。精密に合わさっている。


その壁の中央に、扉のようなものがあった。


扉ではない——扉の形をした「ないもの」だ。壁に、扉の形をした空白がある。取っ手も枠もない。ただ、扉の形のシルエットが壁に刻まれている。


においを嗅いだ。


来た。


たくさんのにおいが一度に来た。


ぱんでむのにおい。草のにおい。電子のにおい。複数の世界線のにおい。それから——前の人間のにおいが、ここに一番濃く残っていた。


この扉のそばで、前の人間が長い時間立っていた感触がある。来るたびに来て、においを積み重ねた。何度も来た。


そして——もう一つのにおいが来た。


千姿のにおいだ。


ぱんでむ全体のにおいに近いが、今日はここに集まっている。この扉のそばに、千姿のにおいが濃い。


前の人間のにおいと千姿のにおいが、同じ場所に積み重なっていた。


好代は少し止まった。


「……扉のようなものがあります。においが複数来ています。前の人間が何度もここに来た痕跡があります。それから——千姿さんのにおいがします。ここに濃く」


摩天ちゃんが少し黙った。


「……千姿のにおいがわかるのか」


「……わかります。ぱんでむ全体のにおいに近いですが、今日はここに集まっています」


「……扉を開けようとするか」と摩天ちゃんが聞いた。


好代は扉の形を見た。においを嗅いだ。前の人間のにおいがここに一番濃い。この場所が終着点だったのか、出発点だったのか、まだわからない。


「……今日は開けません」と好代は言った。「まだわかっていないことが多いです。においで読める分を読んでから、次の判断をしたいです」


「正しい判断だ」と摩天ちゃんが言った。「引き返す」


好代は扉の形をもう一度見た。


においを棚に入れた。前の人間のにおい、千姿のにおい、この場所の感触——全部しまった。


引き返した。




◆帰り道


出口に向かいながら、摩天ちゃんが少し聞いた。


「今日の朝、「よくわかりませんでした」と言ったな」


「はい」


「今まで「体調かもしれない」と言っていた。今日は言わなかった」


「……今回は体調ではないと思ったので、言いませんでした」


「なぜ体調ではないと思ったか」


好代は少し考えた。「……前三回は、体の一箇所に来て消えました。体調なら毎回同じ場所か、体調が悪い箇所に来るはずです。でも毎回違う場所でした。今日は全身でした。それは体調の変動ではなく、バーガー側の特性だと思いました」


摩天ちゃんが少し間を置いた。「……それは、三回目が終わった後から考えていたか」


「……三回目の後から、少し考えていました」


「記録に残す」と摩天ちゃんが言った。「自己観察の精度が上がっている」




【第三章】夜、渾沌ちゃんが来た


夜、「黄昏」でお茶を飲んでいたら、渾沌ちゃんが来た。


昨日とは少し違う顔だった。昨日は「探している途中」の顔だったが、今日は「少しわかった」顔に近い。でもまだ全部ではない。


「すきよちゃん」と渾沌ちゃんが言って、好代の向かいに座った。


「はい」


渾沌ちゃんが少し間を置いた。


「……昨日、「すきよちゃんのにおいって——」って言いかけて止めた」


「……はい」


「あれ、続きがあったんだけど、まだうまく言えなくて止めた。でも今日は少し言えそうな気がする」


好代は黙って聞いた。


「……すきよちゃんのにおいって、千姿のにおいに少し似てると思う。ずっとそう感じてたんだけど、比べたことがなくて。でも昨日一人で考えてて、千姿のにおいを思い出そうとしたら——千姿のにおいが思い出せなかった」


「……思い出せなかったというのは」


「千姿はぱんでむそのものだから、においとして認識したことがないんだよね。ぱんでむにいると、千姿のにおいは「全部のにおい」になる。だから単体で思い出せない」と渾沌ちゃんが言った。「でもすきよちゃんのにおいは、その「全部のにおい」に少し近い気がする。ぱんでむに来た最初の日から、そう感じてた。だからスカウトした、というのが、少しわかった気がした」


好代はそれを聞いた。


「……それを聞いて、私は「千姿さんに似ているから」スカウトされたということですか」


「そうじゃなくて——ぱんでむのにおいを持っていたから、来ると思った、という方が近い」と渾沌ちゃんが言った。「ぱんでむはバーガーが好きな人のための場所で、千姿はそのぱんでむそのもので、すきよちゃんはぱんでむのにおいを持っていた。だからぱんでむに合う、と思ったんだと思う」


「……それが答えですか」


「……まだ全部じゃないかもしれない」と渾沌ちゃんが言った。「「千姿のにおいに似ている」という感触は、「ぱんでむのにおいを持っている」という説明より、もう少し具体的な気がするから。でも今の私にはその具体的な部分がまだわかんない」


好代は少し間を置いた。


「……渾沌さん、今日の私のダンジョン巡回に、千姿さんのにおいがありました」


渾沌ちゃんが少し止まった。「……どこで」


「扉のようなものの前で。前の人間が何度も来ていた場所に、千姿さんのにおいが濃く重なっていました」


渾沌ちゃんが少しの間、黙っていた。


「……前の人間が来ていた場所に、千姿のにおいが」


「はい。一緒に積み重なっていました」


渾沌ちゃんがお茶を飲んだ。何も言わなかった。でも目が動いていた。何かを考えている。


しばらくして、「……そうか」と渾沌ちゃんが言った。それだけだった。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

摩天──四十四日目


分類不明バーガー四回目。全身同時ざわつき感、二秒で消失。


今回、好代さんは「よくわかりませんでした」と言った。


「体調かもしれない」という言葉を使わなかった。自己観察の結果として「体調ではないと思った」という判断を示した。


これは変化だ。三回目が終わった後から考えていた、と言った。


つまり、自分の体の反応を観察して、パターンを読んでいた。言わなかっただけで、ずっとデータを取っていた。


棚の変化:「にぎやかから合唱へ」という表現。


これが何を意味するか、私にはまだわからない。知識の統合が次の段階に入ったのかもしれない。


深部の扉——初めて見た。私は何百回とダンジョンに入っているが、あの区画まで入ったことがなかった。においで前の人間の痕跡を追った結果、辿り着いた。


扉の前で、好代さんは「開けません」と言った。正しい判断だ。理由も明確だった。「まだわかっていないことが多い」。


前に進む判断ではなく、止まる判断を自分でした。それも記録する。



──────────────────

秩序──四十四日目の記録


分類不明バーガー四回目。全身反応、二秒、消失。


今回「体調かもしれない」という言葉が出なかった。


三回目まで、好代さんはその言葉を使っていた。今回使わなかった。それは——三回分の反応を、自分の中でデータとして保持していたことを示している。


観察していた。言わなかっただけで、ずっと記録していた。


それは私の仕事に似ている、と少し思った。


棚の変化「にぎやかから合唱へ」——これが何を意味するか、記録しておく。


深部の扉についての報告。前の人間が何度も来ていた場所。千姿のにおいが濃く重なっていた。


「千姿のにおいと、前の人間のにおいが同じ場所に重なっていた」——これは今まで報告の中で初めて出てきた内容だ。前の人間と千姿の関係性を示す最初の物理的証拠かもしれない。


急がない。でも記録する。



──────────────────

渾沌──夜の「黄昏」で


すきよちゃんに話した。


千姿のにおいに似ている、という感触を少し言えた。全部じゃないけど、一部言えた。


そしたら——すきよちゃんが「今日のダンジョンに千姿のにおいがありました」と言った。


前の人間が何度も来ていた場所に。一緒に積み重なっていた。


「そうか」としか言えなかった。


「そうか」の意味が自分でもよくわからない。でも「そうか」という感触があった。


前の人間が来ていた場所に、千姿のにおいがある。


千姿はぱんでむそのものだから、ぱんでむの全部に千姿のにおいがあるのは当然だ。でも「濃く重なっていた」というのは、当然以上の何かがある。


前の人間は千姿を——知っていた?


それとも前の人間が来るたびに千姿が来ていた?


……わからない。でも何かが近づいている気がする。


今夜はもう考えるのをやめる。


でも明日また考える。



──────────────────

千姿──四十四日目


好代が扉の前まで来た。


引き返した。


「まだわかっていないことが多い」と言って、開けなかった。


——そうね。


まだ。


でも来た。来るまでになった。


渾沌が「千姿のにおいに似ている」という話を好代にした。好代は黙って聞いていた。


「そうかもしれない」とも「違う」とも言わなかった。ただ聞いていた。


前の人間も、いつもそうだった。


聞いて、確かめて、また来た。


それだけでいい。


──────────────────

【エピローグ】夜、渋谷を歩きながら


今日は少し遅くに渋谷に出た。


ダンジョンのにおいが体に残っている気がした。石のにおい、空気のにおい、前の人間のにおい。棚に入れた全部が、まだ新しい感触でそこにある。


渋谷の路地を歩いた。


今日の棚は「合唱」の感触がある。個別に主張するのではなく、全部が同じ方向を向いている。でも全部ある。減っていない。


マクドナルドの前を通った。


においがした。


今日のにおいに、昨日のにおいが重なって、その下にずっと前の層がある。


扉の前でも同じだった。前の人間のにおいと千姿のにおいが重なっていた。何度も来て、積み重なって、今もそこにある。


消えていない。


「全部食べたかった」前の人間が何度もあの扉の前に立った。その痕跡が今もある。消えていない。


好代も今日あの扉の前に立った。今日の分の痕跡がそこに残った。


次に行ったら、今日のにおいが積み重なっているはずだ。


前が広い。今日も変わらなかった。



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