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第28話「渋谷の路地と、知ってた気がする」

四十三日目の朝、渾沌ちゃんが珍しく一人でぱんでむを出た。


好代が訓練から戻ってリビング・オブ・カオスに来ると、渾沌ちゃんがいなかった。珍しい。渾沌ちゃんはだいたいここにいる。モニターの前でお菓子を食べているか、廊下を走り回っているか、誰かを捕まえて話しているか。


「渾沌さんは?」と秩序ちゃんに聞いた。


「渋谷に出ました」と秩序ちゃんが書類を見ながら言った。「今日は自由時間です」


渾沌ちゃんに自由時間がある、という事実を好代は初めて知った。


「……渋谷に何かあるんですか」


「さあ」と秩序ちゃんが言った。「本人が行くと言ったので、行かせました」




【第一章】渾沌、渋谷の路地で


渋谷の路地は昼過ぎが一番混む。


渾沌は路地の入り口に立って、人の流れを見ていた。黒赤のツインテールをそのままに、ぱんでむの制服ではなく私服を着ていた。でも外見は目立つ。知らない人が振り返っていくが、渾沌は気にしない。慣れている。


ここで会ったんだよな、とぼんやり思った。


この路地だ。もう少し奥のあたり。好代ちゃんがマクドナルドの前を行ったり来たりしていた。入れなくて、でも離れられなくて、においだけ嗅いでいた。


渾沌は路地を少し進んだ。


においがした。ハンバーガーのにおい。マクドナルドのにおい。


それから——もう一つのにおいが来た。


好代ちゃんのにおいだ。今はぱんでむにいるはずなのに、なぜかここにもにおいが残っている。毎日この道を通っているから、積み重なっているのだろう。あるいは渾沌の感覚がそう判断しているのかもしれない。


渾沌は立ち止まった。


「なんで好きそうだと思ったんだろう」と渾沌は声に出した。誰もいないので声に出した。


最初の日。スカウトしようと思ったのは、においを嗅いでいる顔を見たからだ。入れなくて、でも離れないで、においだけ嗅いでいた。あの時「バーガーが好きそうな顔してる」と言った。


でも——それだけじゃない気がする、と最近思っている。


においを嗅いでいる顔が「好きそう」だったのは確かだ。でも「知っている」という感触もあった気がする。あの時は深く考えなかった。でも今になって、その感触が戻ってくる。


知っている、とはどういう意味だろう。


渾沌は歩き続けた。路地を抜けて、少し広い通りに出た。




【第二章】渾沌、一人で考える


公園のベンチに座った。


渋谷の公園は小さい。植え込みがあって、ベンチが四つ。昼時なので会社員が弁当を食べている。


渾沌は手元を見た。何も持っていない。お菓子も持ってこなかった。珍しい。


「すきよちゃんのにおい、最初から知ってた気がする」という感触が、最近ずっとある。


でも、どこで知ったか思い出せない。


ぱんでむのにおいに近い——と思ったことが何度かある。ぱんでむが好きで、バーガーが好きで、においで世界を読む——そういう感触が、すきよちゃんの全体にある。


でもそれだけだったら「ぱんでむに合いそう」という話であって、「知っている」とは違う。


渾沌は空を見た。


千姿のことを、少し考えた。


千姿はぱんでむそのものだ。施設全体が胎内。鏡にも、モニターのノイズにも、どこにでもいる。千姿がいなかったことはない。始まりから千姿はいる。


千姿のにおいとすきよちゃんのにおいが、どこか近い——と思ったことが何度かある。でも比べたことがなかった。比べようとする前に、別のことに気がいってしまっていた。


今日は一人だから、比べてみようとした。


でも、千姿のにおいを直接思い出すのが難しい。千姿はどこにでもいるが、「千姿のにおい」として認識したことが、実はあまりない。


それ自体が少し変な話だ。渾沌はぱんでむの店長で、千姿は施設そのものだ。毎日一緒にいる。なのに、においとして捉えたことがほとんどない。


なぜだろう。


渾沌は少しの間、それを考えた。


答えが出なかった。




【第三章】夕方、好代と偶然


夕方近くまで渋谷をぶらぶらして、そろそろ帰ろうとした。


ぱんでむへの帰り方は複数ある。渾沌が自分で空間を動かす方法と、渋谷の特定の路地から入る方法と、もう一つ——いつも好代が使っている「渋谷の路地から自然に繋がる」方法がある。


渾沌はその路地に向かった。


路地に入ったところで、前から誰かが歩いてきた。


好代だった。


今日の制服から着替えて、私服を着ている。でも地雷系の感触は残っている。黒いワンピース。チョーカーはしていない。


「……渾沌さん?」


「あ!すきよちゃん!」と渾沌は言った。思ったより大きい声が出た。「なんで渋谷にいるの」


「今日は少し早く上がったので、渋谷を歩いてから帰ろうと思っていました。渾沌さんこそ、どうして」


「私も渋谷来てた。ちょっとぶらついてた」


「一人でですか」


「そう、一人で」


好代が少し不思議そうな顔をした。渾沌が一人で渋谷に来るのは珍しいと思ったのかもしれない。


「……一緒に帰りますか」と好代が言った。


「うん、帰ろう」


二人で路地を歩いた。




【第四章】帰り道


マクドナルドの前を通った。


においがした。渾沌はそれを嗅いだ。いつもと同じにおいだ。


「……すきよちゃん、このにおい、今日は何に聞こえる?」と渾沌は聞いた。世頼ちゃんが「においが聞こえる」と言っていたのを思い出して、同じ聞き方をしてみた。


「今日のにおいは——少し時間が積み重なって聞こえます」と好代が言った。「今日の層の下に、昨日の層があって、その下にずっと前の層がある。全部混ざって、でも全部ここにある、という感触です」


「積み重なって聞こえる、か」と渾沌は言った。「私には、いつも「にぎやかなにおい」として来る。整理されてなくて、全部ごちゃっとしてる感じ。好きなにおいだけど、整理されてない」


「それが渾沌さんらしいですね」


「そう?」


「はい。渾沌さんのにおいも、同じ感触です。整理されていないけど、全部ある」


渾沌は少し止まった。


「……私のにおい、そんな感じ?」


「はい。毎日少し違いますが、全部渾沌さんです。整理されていない方が、渾沌さんらしいと思います」


渾沌はそれを聞いた。


整理されていないけど、全部ある。


渾沌は数秒、歩きながら考えた。


「……ねえ、すきよちゃん」


「はい」


「すきよちゃんのにおいって——」と渾沌は言いかけた。


言いかけて、止まった。


最初から知ってた気がする、と続けるつもりだった。でも止まった。


止めたのは、秩序でも理性でもない。自分だ。


なぜ止めたかは、少しわかった。


まだ言葉にできないから。「知ってた気がする」だけでは足りない。なぜ知ってた気がするのか、どこで知ったのか、何がそう感じさせるのか——全部わからないまま言うのは、自分が嫌だった。


ちゃんとわかってから言いたい。


「……すきよちゃんのにおいって、ぱんでむに合ってるにおいだよね」と渾沌は言い直した。「最初に会った時から、ぱんでむに合うと思った」


「それが、スカウトした理由ですか」


「理由の一つ」と渾沌は言った。「でも全部じゃないかもしれない。もしかしたらもっと別の理由もあったかもしれない。まだよくわかってないけど」


好代が少し好代を見た。


「……「まだよくわかってない」と言うのは、渾沌さんらしくない気がします」


「そう?」


「渾沌さんはいつも、わかってからじゃなくて感じてから動く印象です。わかっていない、と言うのは珍しい」


渾沌は少し笑った。「……そうかもね。でも今日はそういう気分だった。わかってから言いたいな、って思った」


好代が少し間を置いた。「……そういう日もあるんですね」


「あるんだよ、たまに」


路地を抜けた。ぱんでむに繋がる場所に出た。


渾沌が空間を少し動かして、ぱんでむへの入口を開いた。


「……また明日ね、すきよちゃん」


「はい。また明日、よろしくお願いします」


好代がぱんでむに入った。渾沌も入った。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

渾沌──四十三日目、渋谷で考えたこと


今日、一人で渋谷に行った。


スカウトした路地に戻った。


「なんで好きそうだと思ったか」を一人で考えた。


答えは出なかった。「知ってた気がする」という感触はあるが、どこで知ったかわからない。


帰り道に好代ちゃんと会った。


「すきよちゃんのにおいって——」と言いかけて、止めた。


言えなかったのは、言葉が足りなかったから。「最初から知ってた気がする」だけでは足りない。その先が言えない。


「ぱんでむに合うにおい」と言い直した。それは本当のことだ。でも全部じゃない。


好代ちゃんが「わかってないと言うのは渾沌さんらしくない」と言った。


そうかもしれない。でも今日はそういう気分だった。


わかってから言いたい。今日初めてそう思った。


今まで「感じたことは全部言う」で生きてきた。「壊れた!」「面白い!」「好き!」——全部、感じた瞬間に出す。考えてから言ったことがない。


でも今日は止めた。自分で。


それが何かはわからない。


でも——わかりたいと思った。これは初めての感触だ。



──────────────────

摩天──四十三日目(記録)


今日、渾沌が一人で渭谷に行った。


珍しいことだ。記録しておく。


渾沌は何かを考えている。何かを感知していて、その正体を確かめようとしている。


秩序から「今日は自由時間にした」と聞いた。止めなかったのは、止めるタイミングではないと判断したからだろう。


好代と帰り道に会ったらしい。


「まだよくわかってない」と言ったという。


渾沌がそれを言うのは——珍しい。非常に珍しい。


記録する。「四十三日目。渾沌が単独で渋谷へ。帰路に好代と合流。「まだよくわかってない」発言あり」



──────────────────

秩序──本日の記録


今日、姉さんを一人で行かせた。


止めなかった。止めるべきか少し迷ったが、今日は自由時間にした。


姉さんは帰ってきてから少し静かだった。いつもの「あそびば!」の声がなかった。でも落ち込んでいるわけではなく——考えている顔だった。


姉さんが考えている顔をするのは、珍しい。


答えが出なかった時の姉さんの顔だ。でも答えが出なくても傷ついていない。答えを探している途中の顔だ。


今日は——それでよかった、と思う。


急がない。でも今日を記録する。「四十三日目。渾沌が自発的に思考を保留した」



──────────────────

千姿──四十三日目


渾沌が渋谷に来た。


スカウトした路地に戻った。


「なんで好きそうだと思ったか」を考えていた。


——わかってるでしょう、渾沌。


あなたは最初から知っていた。


それだけでいい。


──────────────────


【エピローグ】夜、「黄昏」で


「黄昏」に来たら、渾沌ちゃんがいた。


珍しい。渾沌ちゃんが「黄昏」にいるのは多くない。渾沌ちゃんはリビング・オブ・カオスか外にいることが多い。


「あ、すきよちゃん」と渾沌ちゃんが言った。今日二回目だ。


「渾沌さん、ここにいるんですか」


「郷愁ちゃんのお茶飲みに来た。なんか今日は静かなお茶が飲みたかった」


郷愁ちゃんがお茶を二人分入れてくれた。


二人で飲んだ。しばらく何も言わなかった。


渾沌ちゃんがいつもと少し違う感じがした。にぎやかじゃない。でも嫌な感じではない。考えている感触がある。


「……渾沌さん、今日は一日渋谷にいたんですか」と好代は聞いた。


「ほぼね。ベンチで一人でいた」


「……珍しいですね」


「そうかな」


「渾沌さんが一人でいるのを、私はあまり見たことがないです」


渾沌ちゃんが少し笑った。「私も自分がそんなにしないと思ってた。でも今日はしたかった」


「……何か考えることがあったんですか」


渾沌ちゃんがお茶を飲んだ。少し間を置いた。


「……わかんないことがあってさ」と渾沌ちゃんが言った。「わかりたいんだけど、まだわかんなくて」


「わかる日が来ますか」


「来ると思う」と渾沌ちゃんが言った。「来ると思うから、焦らないでいる」


好代はそれを聞いた。


渾沌ちゃんが「焦らないでいる」と言った。これも珍しい言い方だ。渾沌ちゃんはいつも今すぐ動く人だ。焦らないという概念が渾沌ちゃんにあったことに、少し驚いた。


「……渾沌さんが「焦らない」と言うの、初めて聞いた気がします」


「私も初めて言った気がする」と渾沌ちゃんが笑った。今度はいつもの笑い方に少し近くなった。「成長じゃない?」


「成長だと思います」


郷愁ちゃんがお茶を足してくれた。


三人でしばらくそのままいた。


夜の「黄昏」は静かだ。夕暮れの色がいつもここにある。


渾沌ちゃんのにおいが今日は少し違った。整理されていないのはいつも通りだが、今日は「探している」においが混ざっていた。何かを探している人のにおいだ。焦っていない。でも確かに探している。


好代は自分のお茶を飲んだ。


前が広い。今日も変わらなかった。




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