第八章 風のめくる頁
三月の初めにも雪は降った。
朝に白かった道が、昼には濡れた灰色へ戻る。翌日は風だけが冷たく、その次の日には上着の前を開けて歩けた。袖を通すとき、昨日と同じ厚さの布が少し邪魔になる。
春が始まった日を決めるのは難しい。
放課後は古い図書室へ行く。四時前後、窓際の席。隣の椅子は空いている。扉を開けたときに見る場所は、まだ変わらなかった。
栞とは毎日やり取りした。
『新しい制服届いた』
『着た写真は』
『まだ』
『じゃあ分からない』
『想像して』
数分後に写真が届く。
紺色の制服。鏡の中で、携帯が顔の半分を隠している。袖の長さはちょうどよさそうだった。肩へ落ちた髪だけは、前の制服と同じだ。
『どう』
『顔見えない』
『制服の話』
『似合ってる』
送ってから、もう一度写真を開いた。
顔は半分しかない。それでもすぐに栞だと分かる。画面を閉じるまで、少しも迷わなかった。
春休みの図書室には、昼の光が入っていた。廊下の奥で箒が床を擦る。椅子を戻して外へ出ると、校門の脇に砂が寄せられていた。靴の下で細かく鳴る。
道の端には、黒くなった雪が一枚だけ残っている。側溝へ水が落ち、金属の蓋の下で音を立てた。家の塀を越えて洗剤の匂いがする。干された白い袖が膨らみ、また垂れた。
分かれ道まで歩く。右の道から自転車が来て、私の横を抜けた。前籠の袋が擦れる。信号が変わるまで、白線の内側に両足を揃えて立っていた。
春休みに入って数日後、帰り道で栞の笑い方を思い出そうとした。
右の口角から上がる。
そこまでは出てくる。では、そのとき目はどう細くなったか。眉はどこまで動いたか。笑う前にどんな息をしたか。
図書室で、澪のことは、わりと、と言った声を頭の中で聞こうとした。
聞こえない。
歩く足が止まった。
携帯を開く。制服の写真、駅のホーム、引っ越し先の窓。どれも栞から届いたものだ。見たい顔はそこにない。髪を編んだ日の写真も、分かれ道で最後に笑った顔も。
画面を拡大すると、頬の端がぼやける。小さく戻した。
絶対、と言った。
そのときには、ちゃんと思い出せた。
家へ着くまで何度も試す。角を曲がるたび、栞の声の初めだけを探した。最初の一音が出れば、その先も戻る気がした。
夕食のあと、携帯が鳴った。
栞からの通話。初めてだった。
「もしもし」
『澪?』
息が最後まで出た。携帯を耳へ押し当て直す。
「何」
『いや、今、すごい安心したみたいな息した』
「してない」
『したよ』
私は空いている手を膝へ置いた。
「……声」
『声?』
「忘れかけてた」
向こうが静かになる。
「顔も少し」
『ひどい』
「ごめん」
『謝るところじゃないけど』
栞が笑った。今の声だ、と頭の中で言う。
少し高い。語尾が柔らかい。笑う前に息を吸う。
覚えようとすると、耳より先に言葉が動く。さっき聞こえた声は、その三つだけではなかった。
『澪』
「何」
『また電話すればいいよ』
「毎日?」
『毎日は多い』
「じゃあ忘れそうになったら」
『それ、私には分からないじゃん』
「私からする」
『うん』
返事のあとに小さな音がした。栞がどこかへ携帯を置いたのかもしれない。
切れてからも、私はすぐには耳から離さなかった。黒くなった画面へ指を置く。もう一度かけるところまでは、触れなかった。
翌日の帰り道、駅へ向かうバスが横を通った。窓には夕方の山が長く映っている。停留所でブレーキの音がして、開いた扉から温かい空気が流れ出た。
パン屋の換気口から甘い匂いがする。店の前を過ぎると、濡れた土の匂いになった。植え込みの下で、誰かが落としたレシートが揺れている。
分かれ道をまっすぐ進む。靴底に小石が挟まり、片足だけ硬い音がした。塀へ手を置いて靴を上げる。溝から石を取ると、次の一歩はもう音が違っていた。
四月になった。
新しいクラスで、隣の席の子が髪を切っていた。ノートへ顔を下げても、毛先が頬へかからない。
「髪切った?」
「え、澪が気づいた」
「何それ」
「そういうの見てなさそうだから」
「見えたから」
自分で言って、栞の声を思い出した。
放課後、古い図書室の窓を少し開ける。開けたまま、風でめくれるページを押さえずに眺めた。
机へ置いた手が冷えない。枝に薄い緑が増えている。山の上には、まだ雪がある。
『今日、春だった』
携帯へ打ち、送った。
すぐには返ってこない。本を開く。鞄の中には栞から借りた本がある。百七十二ページに、葉の栞が挟まったままだ。
五分後、携帯が震えた。
『どんな春?』
窓を見る。
『山はまだ白い』
『木は緑』
『窓開けても寒くない』
三つ送ってから、指を止めた。窓の脇の椅子が空いている。
『栞がいたときと違う』
既読がつく。しばらくして返った。
『見たかった』
『夏に来れば』
『春じゃないよ』
『じゃあ来年』
『来年?』
『うん』
『その次も?』
山を見る。進学も、その先も決まっていない。ここにいる、と打つための予定がなかった。
『来たいなら』
『澪はいる?』
私は指を置き直す。
『いなかったら会いに行く』
今度は長く返事が来なかった。
鞄から借りた本を出す。百七十二ページへ開くと、金属の葉が光った。折れ跡は、伸ばしても残っている。
次に会う日の話をしない二人。その文の上へ指を置いた。
携帯が震える。
『それ、ずるい』
『何が』
『分かってないならいい』
『教えて』
『夏に』
『秘密?』
『秘密』
本を閉じる。葉の先だけが上から覗いた。
『じゃあ夏に返す』
『忘れてなかったんだ』
『本は忘れない』
『私は?』
指が止まる。
春休みに、声を忘れかけたことがある。電話の初めの一音を聞いたとき、膝の上の手が開いた。
『忘れたら電話する』
送る。
『それでいい』
私は画面から窓へ顔を上げた。風がページをめくる。本の端へ手を置き、今度は次の行を読んだ。
四月二十八日、朝六時四十七分。
枕の脇で携帯が鳴った。
『誕生日おめでとう』
栞からだった。
続けて写真が届く。小さな紙に、手書きで「十八」とある。横に葉っぱの絵が描かれていた。数字の下へ、薄い鉛筆の跡が残っている。
『早い』
『何が』
『時間』
『起きてると思った』
『なんで』
『知ってるから』
十二月、図書室で「澪のことは、わりと」と聞いた。栞が本へ戻っても、私は自分のページを開けなかった。
今は指が動かない。紙の端まで写った写真を、もう一度開く。
『ありがとう』
打って送った。
『プレゼントは夏』
『来るの』
『たぶん』
『たぶん?』
『予定確認中』
『絶対にして』
しばらく返事がなかった。
顔を洗いに行くには、携帯を置かなければならない。私は持ったまま、ベッドの端へ座った。
『絶対』
届いた。
口元が動いた。誰も見ていない部屋で、そのまま笑う。
朝食へ行く前に、鞄から借りた本を出した。百七十二ページ。金属の葉の先を指で押すと、紙に細い影ができる。
夏まで返さない。
返せない、ではなく。




