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第七章 空席に落ちる光

 木曜日の朝、鏡の前で髪を梳かした。

 昨日、自分の髪を栞の髪と一緒に編んだ場所は、もう分からない。右だったか、左寄りだったか。指を入れて探しても、櫛を通したあとと同じように落ちる。

 昨夜は写真を撮ればよかったと思った。鏡の中には、いつもの髪がある。今から同じ場所を編んでも、昨日の五時十分にはならない。

 携帯が震えた。

『今日、少し遅れる』

 栞の名前の下へ、短い文が出る。

『待ってる』

 七時十八分。送ってから時刻を見た。

 既読がつき、『分かった』と返る。私は携帯を鞄へ入れた。鏡をもう一度見る前に、部屋を出る。


 昼休み、前の席の子が振り返った。

「澪、明日放課後空いてる?」

「無理」

「即答」

「予定あるから」

「駅前行こうって話。前も断ったじゃん」

 クレープのことを思い出すまで、三秒くらいかかった。

「明日は人と会う」

「誰?」

「友達」

 言ってから、机へ置いた手を見る。間違いではない。ただ、その二文字で話を終えると、何かが机の下へ落ちたような感じがした。

「へえ。澪が」

「何」

「いや、ちゃんと予定あるんだなって」

 彼女は笑って前を向く。

 私は携帯を出した。

『誕生日いつ』

 一分後に返ってきた。

『六月十七日。急だね』

『知らなかった』

『澪は四月二十八日』

 画面の上で指が止まる。

『なんで知ってるの』

『前から』

『いつから』

『秘密』

 四月二十八日。毎年そこにある自分の日付が、栞から届くと知らないものに見えた。

『六月になったら送る』

『何を』

『その日に考える』

『忘れないでね』

『覚えた』

 送ってから、頭の中でもう一度言う。六月十七日。携帯をしまう前に、その数字のところを見直した。


 図書室へ着いたのは四時二分。

 窓際へ鞄を置き、座る。四時十一分、廊下を二人通る。四時十七分、窓の外で鳥が一度鳴いた。裸の枝が揺れていたが、鳥の姿は見えなかった。

 四時二十三分、扉が開く。

「待った?」

「二十一分」

「数えてる」

「時計があるから」

 栞が笑った。椅子を引き、私の髪へ目を向ける。

「髪、戻ったね」

「栞も」

「朝には消えてた」

「写真撮ればよかったかな」

「澪も思った?」

「少し」

 栞は自分の髪を一房つまむ。指が滑って、毛先が制服へ落ちた。

「もう一回やる?」

「やらない」

「即答」

「昨日のでいい」

 しばらく私を見てから、栞は「そっか」と言った。

 私は本を開く。隣では、まだ鞄の金具を外す音がしていた。

「明日、本持ってきて」

「借りたやつ?」

「うん」

「返していいの?」

「返して」

 手が本の上で止まった。何度返そうとしても、持っていていいと言われた本だ。

「分かった」

「あと、明日、これも一回返す」

 栞が鞄から金属の葉を出す。私が渡したものだった。窓からの光が先端へ当たる。

「なんで」

「本に挟みたいから」

「自分で挟めば」

「明日」

 栞は葉をしまい、本を開いた。それ以上は説明しない。

 私は壁の時計を見る。

 明日、と言えば、この部屋で会える日は一つしかない。


 金曜日は朝から晴れていた。

 授業のあいだ、黒板の横にある時計へ何度も目が動く。六時間目が終わると、教科書を鞄へ入れた。机の中に手を入れて確かめる前に、もう立っていた。

 三時四十二分。

 渡り廊下の窓は閉まっている。旧校舎へ入り、図書室の扉を開けた。

 栞はまだいない。

 借りた本を机へ置き、百七十二ページを開く。角の折れ跡を親指でなぞった。聞くなら、今日だった。

 四時九分。

 栞は紙袋を二つ持ってきた。

「多いね」

「クラスでもらった」

「持つ?」

「帰りにお願いするかも」

 机へ置かれた紙袋の底が、少しふくらんでいる。栞は椅子へ座って、本へ手を伸ばした。

「持ってきたんだ」

「返せって言ったから」

 手は表紙へ触れたまま、持ち上げない。

「百七十二ページ」

「何?」

「折れてる」

 栞が開く。

「ああ、これ」

「栞?」

「私」

「やっぱり」

「気になってたの?」

「少し」

「ずっと?」

「借りてから」

「長いね」

 栞が笑った。

「ここ、前に読んだとき好きだったの。角を折る癖、昔あったから」

「最後じゃないじゃん」

「何が?」

「好きなところ。最後の一文って言った」

「一番好きなのは最後。ここも好き」

 私は折れ跡を見る。離れて暮らすことになった二人は、次に会う日の話をしない。その頁の下のほうに、小さな数字がある。

「何でここ?」

「約束しないから」

「好きなの?」

「前は」

 栞の指が折れ跡を伸ばした。

「今は、ちょっと嫌い」

 私は聞かないでいた。

 金属の葉が取り出され、そこへ挟まる。葉の先が、本の上から少しだけ覗いた。

「はい」

 本がこちらへ戻る。

「返したけど」

「また貸す」

「今日?」

「今日」

「引っ越すのに?」

「だから」

 栞が指先で本を押す。机の上を、数センチ滑った。

「今度会うとき返して」

「いつ?」

「それを決めるのは澪」

「ずるい」

「そう?」

「返しに来いってこと?」

「来てもいいし、私が行ってもいい」

「じゃあ返さない」

「それは困る」

「いつでもいいって言った」

「撤回します」

 笑う声の終わりが少し掠れた。

 私は本を取る。金属の葉は、もうページの間に見えなくなっている。鞄へ入れてから言った。

「夏」

「え?」

「夏に返す」

 栞の目が開く。

「来るの?」

「行き方送って」

「遠いよ」

「知ってる」

「電車、乗り換えるよ」

「調べる」

「澪が?」

「何」

「いや」

 栞が俯いた。声は出ない。髪の隙間から、口元だけが見えていた。


 しばらく二人で本を開いた。

 四時三十八分、栞がページをめくる。四時四十五分、私は同じ行を三度読む。四時五十二分、隣で本が閉じた。

「無理」

「私も」

「最後の日なのに」

「最後だからじゃない」

「じゃあ何」

「栞がいるから」

 口にしてから、少し変だと思った。

 栞は窓へ顔を向けた。私は自分の本を閉じる。表紙の下に指を残した。

「春になったら」

 しばらくして、栞が言う。

「この窓から見てね」

「見る」

「写真じゃなくて、澪が見たものを教えて」

「難しい」

「知ってる」

「何で頼むの」

「知りたいから」

 白い山を見る。名前はもう知っている。それを栞へ送った日の画面も、携帯に残っている。

「分かった」

「約束?」

「約束」

 五時になった。

 栞が立つ。

「帰ろう」

 紙袋を一つ受け取った。持ち上げると、予想より重い。中で箱の角が紙へ当たる。

 扉の前で栞が振り返る。机、椅子、書架、窓。順番に目を向けていた。

「撮らないの」

「いい」

「忘れたら?」

「そのときは澪に聞く」

 私が扉を閉める。木と木が合わさる音が、廊下へ残った。


 遠回りはしなかった。

 栞がいつもの道がいいと言ったので、何度も歩いた道を歩く。隣の歩幅は少し狭い。私も合わせる。

 分かれ道まで十一分。普段なら九分くらい。

 それでも着いた。

 道の端の雪が灰色になっている。車のタイヤが濡れたところを擦っていった。紙袋の持ち手が指の同じ場所へ食い込む。二人で止まると、靴底の音も止んだ。

 紙袋を栞へ返す。両手で受け取ったので、指を離すまで少し時間がかかった。

「向こう着いたら連絡して」

「する」

「用事なくても」

「する」

「写真も」

「送る。澪も送って」

「何を」

「何でも。山でも、図書室でも」

 栞が一歩近づいた。紙袋が脚の横へ寄り、空いたほうの指が私の髪へ触れる。

 一昨日、編んだ場所を探すように。

「もう分かんないね」

「跡?」

「そう」

 私も栞の髪へ手を伸ばす。雪を払ったときより、一昨日より、手を出す理由がない。

 一房だけが指に触れた。

 柔らかい。

「また会おう」

 栞の指が止まる。

「夏?」

「本、返さないと」

「そうだね」

「それ以外でも」

 栞は一度目を伏せた。紙袋の持ち手が、手の中で小さく鳴る。

「うん」

 私は髪から指を離した。

「じゃあ、また」

「また」

 栞が歩き始める。十歩ほど先で振り返った。私はまだ同じ場所にいた。

 手を上げる。栞も上げる。

 どちらが先に前を向いたのかは、覚えていない。歩き出してから、紙袋を持っていた指を握った。跡はもう薄くなっていた。


 月曜日、放課後四時五分。

 古い図書室に、椅子は二つある。

 一つへ座った。もう一つへ鞄を置きかけて、机の下へ下ろす。空いた椅子には、窓の光が細く当たっていた。

 携帯が震える。

 知らない駅のホームが写っている。白線の端に、栞の靴があった。

『着いた』

『こっちは図書室』

 窓の写真を送る。

『静か?』

 隣の椅子を見た。

『静かすぎる』

 少し間が空く。

『澪』

『何』

『また明日』

 文字を二度読んだ。栞が苦手だと言っていた言葉だった。

 窓の外へ目を向ける。山は白い。そこから画面へ戻り、同じ文字を打つ。

『また明日』

 送ったあとも、携帯は机へ置いたままにした。


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