第六章 ほどくまでの時間
転校のことを澪へ話したあと、カレンダーを見る時間が長くなった。
それまでは、荷物を出す日にだけ印をつけていた。本をいつ箱へ戻すかも、その印から逆に辿れば分かる。まだ一月だと思っていたのに、制服を掛け直して顔を上げるたび、二月の日付が目に入る。
月曜日が終わる。火曜日が終わる。
印を増やしてはいない。机に向かうと、今日がどの枠なのか分かってしまう。
「栞」
「何?」
「また見てる」
澪が窓を指した。
「何を?」
「山」
「見えるから」
「それ、前にも言ってた」
「覚えてたんだ」
「最近は」
私は鞄の口を折り返した。澪を見ないで、その縫い目へ爪を当てる。
「名前、調べた?」
「調べた」
「ほんとに?」
「ほんと」
「何ていうの」
「教えない」
「なんで」
「自分で調べたんでしょ」
「答え合わせ」
「合ってると思うよ」
「私が何て調べたか知らないじゃん」
「じゃあ違うかも」
「教えて」
「嫌」
澪は本を閉じ、鞄から携帯を探した。
「じゃあ写真送る」
「何の?」
「検索した画面」
「そこまでする?」
「する」
私の携帯が震える。開くと山の写真と名前があった。文字を確かめ、指で画面を広げる。引っ越したあとにも開けるよう、画像を残した。
『正解』
隣へ、文字で返す。
「合ってるじゃん」
私は画面の名前を指で示した。
「じゃあ最初から言えばいいのに」
「澪が調べたから意味があるの」
「何の意味」
「知らない」
「栞、そういうの多いよね」
「何が?」
「自分だけ分かってるやつ」
私は携帯を伏せた。指が背面へ残る。
「ごめん」
「責めてないけど」
指を離した。
「また謝る」
「癖かも」
「やめれば」
「簡単に言うね」
「難しい?」
「たぶん」
「たぶん」
澪が笑う。私も笑って、携帯を鞄へ戻した。
履歴は毎日増えている。今から行く。今日少し遅い。図書室寒い。雪降ってる。短い文に、私も短く返す。了解。待ってる。寒いね。こっちも。
隣に座っているときまで画面が光る。
寝る前に消そうと思って開いた夜も、最後まで読んで閉じただけだった。翌朝には、その下へ新しい文字が届く。
「栞」
「何?」
「次の学校、制服違う?」
「違うと思う」
「写真ある?」
「学校の?」
「制服」
「何で」
「見たい」
澪は私の袖を見ている。
「あとで送る」
「待ってる」
「似合うか分かんないけど」
「今のは似合ってる」
袖口へ掛けていた指を離した。
「栞?」
「……ありがとう」
澪はページを押さえ、続きを読み始める。私は机の下でスカートのひだを伸ばした。
この制服を箱へ入れるとき、校章は外すのだろうか。上履きは洗ってからしまう。教科書には名前が書いてある。新しい学校では使わないものもあるはずだ。
チャイムが遠くで鳴った。窓へ映った澪の制服も、私と同じ色だった。
二月の半ば、昼休みに担任から呼ばれた。
職員室の前で、紙を一枚渡される。
「日程なんだけど、少し早まりそう」
印のついた日を見る。予定より一週間早い。
「お父さんの仕事の都合で、向こうへ入る日が変わったって」
「聞いてます」
「そうか」
聞いていなかった。昨日、父は帰りが遅かった。母ともほとんど話していない。でも、先生にもう一度説明してもらう前に、そう答えた。
「こっちはこの日を最終登校日にしようと思う」
来週の金曜日。
「分かりました」
「急で悪いな」
「先生が悪いわけじゃないです」
「友達には?」
「まだ」
「クラスにはいつ話す?」
「いつでも」
「栞はそう言うと思った」
先生が困ったように笑う。母にも同じことを言われた。紙を持つ指を揃え、鞄へ入れる。
窓の向こうに山がある。箱の底へ入れた本も、今夜出しておいたほうがよさそうだった。
携帯を出す。
『最終登校日、一週間早くなった』
打って、消した。
澪との履歴は、連絡先を交換した夜から途切れていない。画面を上へ送ると、同じ名前の下へ昨日の文字が出る。学校が変わっても、次の日がそこへ足されていくのだろう。
名前を長押しした。削除の文字が現れる。
触れずに閉じた。
顔を見て言う。
携帯を鞄へ戻し、教室へ帰った。授業中に紙をもう一度確かめる。日付は変わらない。ノートを上へ重ねた。
六時間目が終わると、私は旧校舎へ向かった。歩きながら何度か鞄の口へ手をやる。携帯は取らない。
扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは」
澪がいる。
「栞、これ」
机へ小さな紙袋が置かれた。
「何?」
「本のお礼」
「お礼なんていらないのに」
「知ってる」
「じゃあ何」
「渡したかったから」
紙袋から、小さな箱を取り出す。蓋を開けると、台紙の切れ込みに細い金属の葉が留まっていた。
「栞に栞」
澪が言う。
「それ言いたかっただけ?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「似合いそうだった」
笑ってしまった。
「栞に似合うって何」
「知らない。店で見たとき栞っぽいと思った」
「どこが?」
「細い」
「それ褒めてる?」
「あと、葉っぱ」
「私は葉っぱっぽいの?」
「違う」
澪も笑う。
台紙から外した葉を、掌で包んだ。箱へ入れるには薄すぎて、ほかの荷物へ紛れそうだった。指を開くころには、金属の冷たさが消えている。
「ありがとう」
澪は空いた紙袋を畳んだ。
私は箱を机へ置く。蓋を閉める前に、口を開いた。
「転校の日」
澪の手が止まる。
「一週間、早くなった。来週の金曜日が最後」
壁の時計が鳴っている。澪が窓を見る。私は葉を持ったまま待った。
「そっか」
そのあとに言葉はなかった。
「一週間」
「そう」
「早いね」
葉の先が指へ当たる。
「なんで」
「父の仕事」
「そっか」
「ごめん」
「栞が決めたんじゃないでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ謝らなくていい」
返しかけた言葉を飲み込んだ。箱の蓋を閉め、鞄へしまう。葉だけは手に残した。
「今日」
澪が言う。
「何?」
「遠回りする?」
私は顔を上げた。
「する」
「どこ行く?」
「知らない道」
「また?」
「知らないところがいい」
「迷うかも」
「いいよ」
「帰れなくなる」
「それは困る」
「じゃあ地図見る?」
「それはつまらない」
「面倒」
「澪が言う?」
二人で笑った。葉を掌へ戻す。笑った拍子に、尖った先がもう一度指に触れた。
その日から、放課後は毎日少し遠回りした。
一本違う道へ入る。橋を渡り、住宅の裏へ回る。田んぼの間では風がまっすぐ来るので、澪も襟を持ち上げた。
「これ、何の木」
「知らない」
「栞でも知らないんだ」
「私を何だと思ってるの」
「物知り」
「山の名前一個知ってただけで?」
「私よりは」
枝を見上げていた顔が、今度は水路へ向く。
「魚いる?」
「冬だよ」
「冬でもいるでしょ」
「見えない」
「落ちないでね」
「落ちない」
「澪、そう言って落ちそう」
「どういう人だと思ってるの」
「人に興味ないのに水路には興味ある人」
「今は人にもある」
私は水路へ顔を向けたまま、返事ができなくなった。
小さな公園へ寄った日もある。温かい飲み物を買い、両手で缶を包む。家へ着くころにはぬるくなっていた。母には、寄り道していると言った。
「珍しいね。友達?」
少し間を置いて頷いた。
友達。
その言葉で母には伝わる。私は缶を洗い、台所の袋へ入れた。乾かしてから捨てるつもりだったのに、机へ持っていきたくなった。
澪が私の名字を覚えてくれたとき。傘の下で肩が触れたとき。私がいないと本を読めなかったと言われたとき。どれを最初にすればいいのか分からない。
机の引き出しへ葉の栞を入れようとして、また取り出した。読む本へ挟む。葉の先が少しだけ覗くように、位置を直した。
最後の週の月曜日、昼休みに澪の教室へ行った。
扉の前で待つと、澪は食べかけのパンを袋へ戻して出てきた。口の開いた袋に、小さな欠片が溜まっている。
「今週、図書室に来なくていいよ」
「何で」
「忙しいでしょ」
「忙しくない」
人が二人通った。私は教室の中へ目をやる。
「栞が来ないの?」
「私は行く」
「じゃあ行く」
「来ないで」
澪が袋を持つ手を下ろした。
「私がいたら困る?」
袋の口を閉じてくれたら、そちらを見なくて済むのに。
「最後の週まで、毎日来なくていい」
「私は来たいけど」
「もう、増やしたくない」
「何を」
制服の袖。袋を握る指。教室から呼ばれても、私を向いたままの顔。
「澪の、そういう顔」
澪は袋の口を折った。二度折って、片手へ収める。
「分かった」
扉へ戻る背中を見ていた。昼休みの終わりまで、私は廊下にいた。
放課後、図書室で本を開いた。
鞄には、机の引き出しから出した鉛筆が二本入っている。今夜、残りも箱へ移す。ページの隅へ指を置くと、扉が開いた。
澪だった。
「来ないでって言った」
「聞いた」
「分かったって」
「言った」
鞄の紐を握ったまま、入口に立っている。
「でも、来た」
私は本を閉じた。机へ置く音が大きく響いた。
「今日は帰って」
「栞は?」
「まだいる」
「じゃあ、私もいたい」
澪は椅子に触れなかった。扉も閉めない。廊下から冷たい空気が入る。
帰って、ともう一度言うために顔を上げた。
澪が待っている。
私は隣の机から鞄を取り、膝へ移した。
「扉、閉めて」
澪は閉めた。それから椅子を引く。鞄から本を出すまで、二人とも何も言わなかった。
最後の週の水曜日、放課後から雪になった。
窓際の澪は本を読んでいる。私は同じページを開いたまま、窓の下に溜まる白を見ていた。
今日を入れて、あと三日。
澪が帰ると言ったら、あと二日になる。
「栞」
「何?」
「読んでない」
「何を?」
「本」
ページを見る。指の下の文を、一つも覚えていなかった。
「澪みたい」
「私は最近ちゃんと読んでる」
「そうだね」
「眠い?」
「ちょっと」
「寝れば」
「ここで?」
「誰も来ないし」
「寒い」
「じゃあ帰る?」
「それは嫌」
言ってから、澪を見た。
少しして、
「私も」
と返ってくる。
窓から冷気が落ちる。私は足を椅子の下へ引いた。
「机、冷たい。眠いならこっち」
澪が鞄を机へ置く。
「何?」
「枕」
「硬そう」
「机よりは」
「澪は?」
「眠くない」
私は笑った。
「借りる」
鞄へ腕を重ね、その上へ頬を置いた。縫い目が少し硬い。端に細い糸が出ている。
「寝るの?」
「少しだけ」
澪が本へ戻る音を聞き、目を閉じる。
寝てしまったら頬に跡がつきそうだった。腕を動かすと鞄がずれるので、そのままにする。ページがめくれる。雪がガラスに当たる。その二つの音の間に、自分の呼吸が入り始めた。
目を開けると、窓が暗かった。
「何時?」
「五時前」
声が近い。起き上がろうとして、髪が軽く引かれた。
「寝てた?」
「寝てた」
「ほんとに?」
「ちゃんと」
「ごめん。鞄」
「別に」
頬へ触る。縫い目の形が残っている気がする。
「ついてる?」
「少し」
「最悪」
「誰も見ないよ」
「澪が見てる」
「私は別に」
「そういう問題じゃない」
澪が笑う。
髪を整えようとして、指が止まった。
「何これ」
一部が細く編まれている。私の髪の間へ、少し色の違う髪が交互に入っていた。編み目を目で辿ると、その先が澪へ続いている。
「……澪?」
「暇だった」
目が逸れる。
「これ、澪がやったの?」
「うん」
指で触れた。自分の髪だけを摘まもうとしても、澪の髪がついてくる。息を深く吸うと、胸の真ん中に細い痛みが通った。
「嫌だった?」
「ううん」
短い返事が、かすれた。
「起こしたら悪いと思って」
「それで髪編む?」
「手元にあったから」
「私の髪を物みたいに言わないで」
「ごめん」
私は笑う。息がうまく出ないので、もう一度笑った。
澪が編み目へ手を伸ばす。
「ほどく?」
「待って」
手が止まる。私は編み終わりの細いところへ指を置いた。引けば崩れる。少し顔を動かすだけで、澪の髪も揺れる。
「もう少し」
「このまま?」
「このまま」
「帰れないよ」
「分かってる」
「ずっとここにいる?」
「それでもいいかも」
「寒いよ」
「それは嫌」
澪が笑い、私も笑った。頭を動かすと、編み目が張る。
「痛い?」
「大丈夫」
「近いね」
「編んだの澪でしょ」
「そうだった」
椅子を少し寄せた。脚が床を擦る。肩が触れるところまで来ると、髪が引かれなくなった。
暗い窓に二人が映っている。髪をほどいてから立たなければならない。椅子も元へ戻す。そう考えながら、私は膝の上の手を動かさずにいた。
雪がガラスの向こうを横切る。映った澪の顔へ白い粒が重なり、消えた。
五時。五時五分。
澪の肩は、まだ隣にある。
五時十分になって、編み目へ指を入れた。
「ほどこうか」
「いいの?」
「帰らないと」
澪の手が伸びる。
「私がやる」
「どうぞ」
編み終わりから、一本ずつ外される。交差していた髪が左右へ戻る。澪の指が私の髪を撫で、離し、もう一度近づく。
早くほどこうと思えば、もっと早くできる。
私はその手を見ていた。
最後の一つが離れる。顔を動かしても、もう澪の髪は動かない。
「終わり」
澪が言った。
私は頭を起こす。さっきまで髪が引かれていたところに、窓からの冷気が触れた。
「跡ついた?」
「ちょっと」
「変?」
「変じゃない」
「澪も」
「私も?」
「少し波打ってる」
「ほんと」
澪が髪へ触れる。その指を見て笑った。自分の編み跡は直さなかった。
鞄を持って立つ。私が椅子を戻すと、澪も戻した。廊下へ出るまで、頬に残った跡のことを忘れていた。
外では、まだ雪が降っている。
「傘」
澪が言う。
「今日は持ってる」
「私も」
「珍しい」
「天気予報見た」
「もっと珍しい」
「栞のせい」
「私?」
「雪気にするようになったから」
傘が二つ開く。一つに入る必要はない。歩き始めると、二つの縁の間に細い隙間ができた。
私は髪へ触れた。指の腹に、緩い波が分かる。濡れたら消えるだろう。家へ帰って梳かしても。
直さずに、手を下ろす。
「澪」
「何」
「今日のこと、覚えてる?」
「今日?」
「髪」
「覚えてるでしょ」
「来年も?」
澪がこちらを向いた。
「来年?」
私は傘の柄を握る。
「たぶん」
「たぶんか」
「絶対」
言い直してくれた。名字のときと同じように。
「私も」
「何が」
「覚えてる」
「そう」
「絶対」
澪が笑った。
明日と明後日。
傘へ落ちる雪を聞きながら数えた。家へ着いたら、箱から何を出そう。葉の栞を挟んだ本は、まだ鞄にある。
私はもう一度、髪へ触れた。ほどけた場所に、指が小さく引っかかった。




