第五章 呼ぶための名前
栞から借りた本を、三日で読み終えた。
ゆっくり読むと言ったのに、夕食のあとにも、寝る前にも開いていた。普段なら一週間くらいかかる厚さだ。最後のページへ指を入れると、残った紙が薄く反った。
栞が好きなのは、最後。
主人公が帰ると決めたところか。その前の会話か。最後の一文か。
明日、聞けばいい。
机へ置こうとして、ページの角が一か所折れかけているのに気づいた。百七十二ページ。開いてみる。二人の登場人物が離れて暮らすことになる。その先の約束は、どこにも書かれていない。
読み終えるまでは、ほとんど覚えていなかった場面だ。
折ったのが栞とも限らない。古本なら、前の持ち主かもしれない。閉じて机へ置く。表紙には細かい傷がある。
少しして、また百七十二ページを開いた。
十一時十二分。
携帯を取る。栞の名前は入っていない。連絡先を知っていたとしても、こんな時刻に折り目のことを聞くのは変だ。
ひと月以上、ほとんど毎日話している。なのに、送る先がない。
携帯を伏せる。机へ当たる音がした。
明日会えばいい。明後日も、その次も、図書室へ行けばいる。
いつまで。
本へ手を戻し、今度は閉じずに置いた。
私は転校のことを知っている。栞は、私が知っていると知らない。春になったらこの窓から何が見えるんだろう、と言ったときも、自分はいないと知っていた。
長い髪と、窓へ向いた顔が浮かぶ。
どうして言わないのだろう。
返したら、この本もなくなる。
電気を消すと、窓の明かりが表紙の端へ当たった。私は布団の中から、その線が見えなくなるまで目を開けていた。
翌日の放課後、栞は先に来ていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
鞄から本を出す。
「読み終わった」
「早い。ゆっくり読むって言ってたのに」
「読めたから」
差し出した本を、栞は受け取らない。
「どうだった?」
「面白かった」
「それだけ?」
「最後が好きって言ってたでしょ」
「言ったね」
「どこ?」
栞の口元がほどけた。
「気になってたの?」
「気になってた」
「最後の一文」
「そこ?」
栞が本の最後を指す。
主人公が、もう戻らない場所の名前を心の中で一度だけ呼ぶ。その文を思い出した。
「なんで?」
「好きだから」
「答えになってない」
「澪も前に言ってた。分からないこと、分からないままでいいって」
「言ってない。普通じゃないって言っただけ」
「似たようなもの」
「違う」
栞は声を出さずに笑う。私はまだ本を持っている。
「返す」
「持ってていいよ」
「読み終わった」
「もう一回読むかもしれないでしょ」
「読まないと思う」
「じゃあ、しばらく置いといて」
「なんで」
栞の目が一瞬止まった。
「荷物になるから」
「本一冊で?」
「今はね」
「家に置けばいいじゃん」
「今、ちょっと片づけてるから」
片づけてる。
表紙を持つ指へ力が入った。紙がわずかに曲がる。
「いつまで?」
「何が?」
「この本」
栞が息を吐いた。
「いつでも」
私は机へ本を置く。
「いつでもって、いつ」
「澪が邪魔になったら」
「そうじゃなくて」
「じゃあ?」
転校するまで、と聞きかけて、口を閉じた。
「……何でもない」
「本、重い?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何?」
「もういい」
栞の目がこちらへ向いた。自分の声が、さっきまでより低かった。
「怒ってる?」
「別に」
「澪」
「もう聞かないで」
「ごめん」
すぐ謝られる。私は椅子を引いた。床を擦る音が長くなった。
栞は何も悪くない。貸した本を私が持っている。返せと言われたわけでもない。なのにページを開く指が、うまく動かなかった。
時計の音と、隣で紙が擦れる音。遠くの廊下で、何か重いものを運んでいる。
栞はいる。
椅子一つ分の距離にいるのに、二月の終わりを思うと、隣を見られない。
「澪」
「何」
「今日、帰る?」
「いつかは」
「そうじゃなくて」
「一緒にってこと?」
栞が鞄へ手を掛けた。
「帰る」
「そっか」
その声だけが、少し上がる。私はページの角を伸ばした。折れてはいなかった。
一月のある金曜日、栞は来なかった。
月曜日も。火曜日も。
三日目には、本を持っていかなかった。開いても読めないと分かっていた。窓際へ座り、机の木目を指でなぞる。線は途中で切れ、別のところから始まっている。
山が白い。名前はまだ調べていない。検索すれば分かるのに、教えないと言った栞の声を先に思い出す。
四時二十分。
来ない。
教室にいるのかもしれない。職員室か、家か。
もういない。
そこまで考えて、机から手を離した。
二月末までに書類をそろえる、と先生は言っていた。なら、まだいるはずだ。今日は一月。それでも日付が変わったなら、私は知らない。
連絡先はない。家も知らない。クラスは知っている。名字は。
頭の中に、栞、とだけ浮かぶ。
息を吸った。途中で止まり、もう一度吸う。
ひと月以上隣に座っていたのに、探すための名前が出てこない。
椅子から立った。鞄を掴み、廊下へ出る。渡り廊下を渡って、新校舎へ戻った。
二年三組。
まだ何人か残っている。扉の前で止まり、中を見る。栞の顔はなかった。知らない子と目が合う。
「あの」
「はい?」
「栞……」
名字が続かない。
「栞? 転校してきた子?」
「その子」
相手が名字を言った。
聞き終わる前に、頭の中でもう一度言う。
「今日いる?」
「今日休みだよ。風邪じゃない? 金曜から休んでる」
「ありがとう」
廊下へ出る。彼女はもう友達へ顔を向けていた。
風邪。
階段の踊り場で手すりへ触れた。息が、今度は最後まで入った。
携帯の検索欄に、聞いた名字を打つ。そのあとに栞。二つ並べて、検索はしなかった。
画面を消し、名字を小さく声に出す。
一度。
忘れたくない。
手すりから手を離したとき、指に細い赤い跡が残っていた。
水曜日には、授業で栞を見かけたと聞いた。放課後は先生に呼ばれていたらしい。
木曜日の昼休み、私は二年三組へ行った。
栞は席に座って誰かと話している。頬の色はいつもと同じだった。戻ろうとすると、名前を呼ばれた。
「澪?」
振り返る。栞が扉へ来ていた。
「何してるの」
「通っただけ」
「二組、反対側じゃなかった?」
「そうだっけ」
「そうだよ」
笑う顔を見た。
「風邪?」
「風邪だった」
「もう平気?」
「ほとんど」
「そっか」
帰ればいい。確認したかったことは、それで終わっている。
「図書室、来る?」
「今日は行く」
「そう」
「待ってた?」
否定しかけた口を閉じ、もう一度開く。
「待ってた」
栞の笑顔が止まった。
「……そっか。ごめん」
「なんで謝るの」
「連絡できなかったから」
「連絡先知らないし」
「そうだね」
人が通り、二人で壁際へ寄る。栞の袖が私の鞄に触れた。
「交換する?」
「え」
「連絡先」
栞はすぐには答えなかった。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない。でも……今じゃなくてもいいかな」
「どうして」
「携帯、教室に置いてきた」
「取ってくれば」
「澪」
声が変わった。私は鞄を持つ手を下ろす。
「ごめん」
「だから、なんで謝るの」
「今は」
「今は?」
「今は、いい」
栞の向こうには教室がある。数歩戻れば、携帯は取れる。
「そっか」
「澪」
「じゃあ放課後」
「うん」
私は背を向けた。曲がる場所まで、床の線だけを見て歩く。
腹が立つ。
誰に、と考えなくても分かった。
本を貸したのは何だったのだろう。遠回りしたのは。毎日、明日、と言うのは。連絡先だけが、どうしてそこから出されるのか。
教室の椅子へ座ると、前の席の子が振り向いた。
「どうしたの、怖い顔して」
「そう?」
「顔、固まってる」
「別に」
言ってから口を閉じた。机の下で携帯を握る。送る相手のいない画面は、開かずにいた。
放課後、廊下の分かれ目で止まった。
階段を下りれば、そのまま帰れる。私が来なければ、栞も空いた椅子を見るだろうか。
鞄の持ち手を引き上げた。そんなことを確かめるために帰るのは嫌だった。
旧図書室の扉を開ける。
「こんにちは」
「こんにちは」
栞の本は閉じている。私は隣へ座った。
「体調平気?」
「平気」
「ならいいけど」
「澪、怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
栞がすぐに言う。
「分かるの」
「分かるよ」
「なんで」
「見てるから」
その言葉に、机へ置いた手が止まった。
「だったら」
「何?」
「だったら、なんで」
栞が待つ。木目の中に、爪でつけたような小さな傷がある。そこを見ていると、顔を上げられなくなる。
「なんで何も言わないの」
隣で息を吸う音がした。
「何のこと?」
「分かってるでしょ」
「分からない」
「本当に?」
「……澪」
顔を上げる。栞の目がある。
「転校するんでしょ」
時計の秒針が進んだ。窓の外で風が鳴る。栞の唇が開き、何も出ないまま閉じる。
「知ってたの」
私は目を逸らさなかった。
「いつから」
「十二月。先生が話してるの聞いた」
「そんな前から」
栞が目を伏せる。
「栞はいつ言うつもりだったの」
返事はない。
「二月?」
「……分からない」
「いなくなる日?」
「澪」
「いなくなってから?」
「そんなことしない」
「じゃあいつ」
自分の声が部屋へ強く響いた。栞の指が机の上で縮まる。
「言ったら、変わるから」
「何が」
「今が」
「意味分かんない」
「分からなくていい」
私は机から手を離した。
「それ、栞が決めること?」
顔が上がる。
「私が知るかどうか、栞が決めるの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
「澪は人に興味ないから」
「それが何」
「私がいなくなっても……すぐ元に戻ると思った」
「何に」
「私が来る前に」
息を吸うと、胸の内側が細く痛んだ。
「勝手に決めないで」
「ごめん」
「謝らないで」
「じゃあ、どうすればいいの」
栞の声が揺れる。私は開いた口を、すぐには閉じられなかった。
転校しないで、と言っても、父親の仕事は変わらない。もっと早く教えて、と言うには、もう知っている。連絡先を教えてほしい。それは言える。でも、その一つをもらえば終わるのか。
栞の指が、まだ机の上で曲がっている。
「私は」
言葉を探した。
「栞がいなくなるの、嫌なのかもしれない」
「かもしれない?」
「こういうの分かんないから」
「……そっか」
「人がいなくなって嫌だと思ったこと、あんまりない」
栞は口を挟まなかった。
「だから分かんない。でも、三日来なかったとき、もう転校したのかと思った」
私は一度息を吸う。
「怖かった」
名字も、家も、連絡先もなかった。栞が消えたら、どこを探すのか分からなかった。
「だから、言ってほしかった」
栞が俯く。長い髪が頬を隠す。
「ごめん」
今度は、何も返せなかった。
窓の外の色が沈む。時計の音を何度か聞いてから、栞が口を開いた。
「二月の終わり。今のところ」
「どこに行くの」
「東のほう」
「遠い?」
「ここからなら」
「海ある?」
「ない」
「そっか」
前の町へ戻るのではない。
「何回目?」
「何が?」
「転校」
栞は自分の指を見た。
「三回目」
「多いね。嫌?」
「慣れた」
「それ、嫌じゃないって意味?」
栞が笑う。目はまだ下を向いていた。
「澪、最近よく聞くね。前は何も聞かなかったのに」
「今は知りたいから」
顔が上がる。私はその目を見て続けた。
「栞のこと」
唇がかすかに動く。笑おうとしたのかもしれない。
「困るな」
「なんで」
「今さら」
「まだいるじゃん」
「そうだけど」
「じゃあ今さらじゃない」
私は机へ手を戻した。栞の手とは、指二本ぶんほど離れている。
「名字」
「え?」
「覚えた」
「今まで覚えてなかったの?」
「うん」
「ひどい」
「ごめん」
「いつ覚えたの」
「栞が休んだとき」
「クラスまで来た?」
「来た」
「そうなんだ」
今度の笑いには、ちゃんと目も動いた。
「じゃあ忘れないでね」
「たぶん」
「そこは絶対って言ってよ」
「絶対」
言い直すと、栞はまた笑った。
この顔、と頭の中で言う。灰色の手袋。長い髪。雪の匂いがすると言ったこと。春は嫌いだと答えた声。
どれも、すぐに出てきた。
「連絡先」
栞の笑顔が少し薄くなる。
「今度は教えて」
少しの間、時計だけが鳴った。
栞が鞄から携帯を出す。
「いいよ」
私も出した。画面に名字と名前が並ぶ。送る先ができた。指で触れて、間違っていないことを確かめる。
「これで、休んでも分かるね」
「休む前に連絡して」
「朝?」
「いつでも」
「いつでも?」
栞が笑う。
「うん。いつでも」
今度は、その言葉を引っ込めなくてよかった。
山の輪郭が暗くなっている。帰ったら調べようと思い、私は携帯をすぐにしまわず、窓へ向けた。




