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第四章 帰り道の余白

 週が明けて、私は古い図書室へ行かなかった。

 六時間目が終わってから、教科書を一冊ずつ鞄へしまう。委員会の用事がある、と言えば誰も確かめない。担任に呼ばれた、でもいい。理由になる言葉は、いくらでもあった。

 金曜日、傘の下で澪が言った。

 栞のこと。

 何を考えていたのかと聞いた私に、その三文字を返した。部屋へ帰り、濡れた鞄を拭いているあいだも、同じ声が耳に残った。布を畳む手が止まり、また最初から拭いた。

 今日は会わない。

 鞄の口を閉め、そのまま階段を下りた。外履きを出すまで、もう本には触れない。昇降口へ来てしまえば、旧校舎へ戻る用事も作らずに済む。

 外には雪がほとんど残っていなかった。日陰に薄い白がある。前の町で雪がやんだ翌日は、屋根の端を見ていた。ここでは山の斜面まで白い。

 校門へ向かいながら、旧校舎の三階を見上げる。外からだと、どの窓かよく分からない。

 澪はきっといる。本を開いて、隣には空いた椅子がある。

「栞?」

 同じクラスの子が後ろに立っていた。

「帰るの?」

「帰る」

「珍しいね。いつもそっち行ってない?」

 彼女が旧校舎を指す。

「たまに」

「図書室?」

「みたいなところ」

「何それ」

 笑われ、私も笑う。

「じゃあね」

「また明日」

 口にしてから、鞄を肩へ掛け直した。明日は、言う前からそこに置かれているらしい。

 校門を出る。工事は終わっていた。先週、澪と曲がった道へ行く必要はない。

 十分ほど歩いて携帯が震えた。母から、牛乳買ってきて、と届いている。スーパーは少し戻ったところだった。

 牛乳だけ買う。

 店で一本取り、袋を持って外へ出る。家へ帰るなら来た道を戻ればいい。私は学校の前を通るほうへ曲がった。袋の底が歩くたびに脚へ当たる。腕を少し離して歩いた。

 校門から一人出てきた。

 遠くても分かる。

 澪の顔が上がり、こちらへ歩いてくる。私は持ち手を握り直した。

「何してるの」

「買い物」

 袋を持ち上げる。

「今日、図書室来なかった」

 責める声ではなかった。来なかった、と言うだけで、こちらの返事を待つ。

「用事?」

「まあ」

「そっか」

 聞かれずに済んだ。袋を下ろす。指に食い込んだ線が痛むのに、持ち替えられない。

「澪は今までいたの?」

「今まで」

「一人で?」

「ほかに誰がいるの」

「そうだけど」

 鞄から文庫本の角が覗いている。

「読めた?」

「何が」

「本」

「全然。なんか今日、静かすぎた」

 私は袋の中を見る。牛乳の箱は、買ったときと同じ向きだった。

「いつも静かじゃない?」

「そうなんだけど」

「じゃあ同じでしょ」

「違った」

 澪が少し眉を寄せる。言った本人も、続きを知らない顔だった。

「重い?」

 袋を見られて、私は手を下げた。

「ちょっと」

「持つ?」

「いい」

「そう」

 澪の手は伸びない。頼んだこと以外はしない人だ。

 私は持ち手の、指の当たっていない部分を見た。

「……持って」

「いいよ」

 袋が手を離れる。赤い跡が残った指を、制服の横で曲げ伸ばしした。

「どこまで?」

「家の近く」

「私、場所知らない」

「この前の交差点の先」

「ああ」

 同じ道を歩く。今日は傘がなく、肩も触れない。私の荷物だけが澪の手にあった。

「どうして一人だと読めなかったの」

「知らない」

「私がいないから?」

 言ってしまった。澪がこちらを向く前に、前を見た。

「たぶん」

 袋の音がする。

「そう」

「何」

「何でもない」

「袋、揺れるね」

「牛乳、ぶつけないでよ」

「ぶつけてない」

「そうだったね」

 笑うと、指の跡がもう痛くないことに気づいた。

 会わずに帰るはずだった。スーパーへ戻っただけなら、あの道を通らなくてもよかった。今からでも、袋を受け取って一人で歩ける。

 私は澪の歩幅に足を合わせた。

「明日は来る?」

「図書室?」

 澪がうなずく。

「どうして」

「来るならいるかなって」

「澪は毎日いるじゃん」

「栞もいたから」

 いたから。

 一日空けただけで、そんな言い方になる。

「行くよ。明日は」

「そっか」

 右の口角が少し上がった。私は袋を見た。その口元を、正面から見ていたくなった。


 翌日、いつもより早く図書室へ着いた。

 まだ誰もいない。椅子へ座り、昨日読み終わった本を出す。別の本なら鞄の底にある。取り出せばよかったのに、私は表紙の角を撫でていた。

 扉が開く。

「早い」

「澪が遅いんじゃない?」

「まだ四時前」

「じゃあ私が早い」

 澪が隣へ座る。

「それ、読み終わった?」

「昨日」

「面白かった?」

「面白かったよ」

「そっか」

 本を持ち上げた。

「読む?」

「いいの?」

「前に貸すって言ったから」

「別にいいって言った」

「じゃあ貸さない」

 引っ込めようとすると、澪の手が伸びた。

「読む」

「どっち」

「今は読む」

「気が変わった?」

 手は引っ込まない。私はその上へ本を置いた。

 澪が表紙を見て、裏返す。もう一度表へ戻してから聞く。

「いつまでに返せばいい?」

「いつでも」

 答えてしまってから、机へ手を戻した。

 私は二月の終わりに学校を離れる。

「じゃあ、ゆっくり読む」

「いいよ」

 早く読んで、と言えばよかった。二月までに返して、と言えば、その理由も話せる。本を持つ澪の指のすぐ近くに、自分の指がある。私は先に引いた。

「貸したくなくなった?」

「違うよ」

「じゃあ何」

「何でもない」

 澪は表紙へ目を戻す。本が鞄の中へ消えた。家へ持って帰るのだ。この学校の外で、澪が私の本を開く。私が読んだ順番で、その先へ進んでいく。

 私は鞄の口を閉めた。

「これ、どこが好きだった?」

「最後」

「最後?」

 最後のページを指で挟む仕草をしてしまった。もう、本はない。

「それ聞いたらネタバレじゃん」

「だから言わない」

「じゃあ読み終わったら聞く」

「覚えてたらね」

「覚えてると思う」

 私は窓を見る。山の白が広がっていた。荷物を詰める日に同じ窓を見たら、どこまで白いだろう。

「春になったら」

 声が出た。

「この窓から、何が見えるんだろう」

 澪も窓へ顔を向ける。

「山」

「それは分かる」

「雪がなくなる」

 白い斜面を見た。

「木に葉っぱが出る」

 窓の下の枝は、まだ裸だった。

「それくらいじゃない?」

「見たことある?」

「あるでしょ。ずっと住んでるんだから」

「この窓から」

 澪が口を閉じる。

「ないかも」

「私もない」

「秋からだもんね」

 私は頷いた。この部屋の春は、荷物を出したあとに来る。

「じゃあ春になったら見れば」

「ここで?」

「うん」

「澪と?」

「ほかに誰がいるの」

 胸の奥で息がつかえた。窓を見ているふりをして、ゆっくり吐く。

「栞?」

「何でもない」

「栞?」

「本、読んで」

「もう鞄に入れた」

「あ、そうだった」

「栞が貸したんでしょ」

「もう」

 今度は笑えた。澪も少し笑う。

 言うなら今だった。春になる前に転校する。簡単な文なのに、舌の上へ載せると先が出てこない。

「春、好き?」

「嫌い」

「そうなの」

「別れが多いから」

 澪の顔を見る。聞かれたら答えよう、と片手を膝の上で握った。

「卒業とか?」

「そういうの」

「ふうん」

 私は握った手を開く。

 新しい本を取り出した。読めば、春のことを考えずに済む。最初のページをめくる音が、部屋の隅まで届いた。


 数日後、帰り道で澪が立ち止まった。

「こっち行ってみない?」

 いつもの分かれ道で、どちらの家へも向かわない道を指す。

「どこ?」

「知らない。この先、たぶん大きい道に出る」

「たぶん?」

「行ったことないから」

「地元なのに?」

「またそれ」

 澪が笑う。

「遠回りになるよ」

「急いでる?」

「急いでないけど」

「じゃあいいじゃん」

 私は隣へ並んだ。道が細くなる。塀の向こうで犬が吠え、澪がその高さを確かめるように顔を上げた。

「どうしたの。急に遠回り」

「栞、この前こういう道好きって言ってたから」

「それで?」

「それだけ」

 私は歩幅を合わせ直す。

「澪が行きたかったわけじゃないの?」

「私はどっちでも」

「じゃあ私のため?」

 澪は少し考えた。

「そうなるのかな」

 塀から枝が張り出している。私は頭を下げてくぐった。顔を戻すまでに、何か返事を考えたかった。

「嫌だった?」

「ううん」

「じゃあいいじゃん」

 道の先が開け、小さな川が見えた。向こうに田畑が続いている。山の斜面へ、斜めに夕日が当たっていた。

「きれい」

「そう?」

「澪、本当に景色に興味ないね」

「見慣れてるから」

「もったいない」

「栞が見ればいいじゃん」

「見るよ」

 橋の手前で止まった。澪も止まる。

 冬の川は細く、黒い。石へ当たるところだけ水が白くなる。海の近くにいたころ、帰り道にはもっと低く長い音があった。ここでは水の当たる場所が見える。

「名前」

 澪が言う。

「何の?」

「あの山」

「気になった?」

「今は」

 私は橋の欄干へ手を置いた。金属が冷たい。

「教えない」

「なんで」

「自分で調べて」

「面倒」

「じゃあ知らないまま」

「栞、知ってるんでしょ」

「知ってるよ」

「教えて」

「嫌」

「けち」

 澪が笑った。私も笑う。

 名前ならすぐに言える。私は口を閉じたまま、白い山を見ていた。澪が帰ってから調べるなら、きっとこの橋のことも思い出す。私が教えなかったことも。

 膝の横で、鞄の底が腕に当たる。貸した本の分だけ軽くなっている。

「帰ろうか」

「帰ろう」

 来た道を戻る。街灯が一つずつ点き、澪の横顔が明るくなっては暗くなる。引っ越し先で似た灯りの下を通ったら、この横顔が出てきそうだった。

「何?」

 澪がこちらを見る。

「何が?」

「笑った」

「そう?」

「笑ってた」

「何でもない」

「暗くなってきた」

「道、分かる?」

「来た道だし」

「さっきの角は?」

 澪が口を閉じ、曲がる先を見た。

「こっち、たぶん」

「またそれ」

 今度は二人で笑った。

 いつもの分かれ道へ戻る。澪がまっすぐの道へ足を向ける。

「じゃあね」

「またね」

「明日」

 私も同じ言葉を返した。

「明日」

 澪が歩いていく。十歩ほど先で振り返るのを、私は曲がらずに待っていた。

 目が合う。手を少し上げると、澪も上げた。

 それから家のほうへ歩く。鞄から携帯を出しかけ、戻した。部屋にはカレンダーがある。今夜はその前を通らずに、まず服を着替えようと思った。


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