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第三章 雪になる前の匂い

 栞が転校すると知ってから、三日が過ぎた。

 放課後には古い図書室へ行く。隣へ座って本を開く。栞も来る。帰る時間が重なれば、途中まで一緒に歩く。

 扉の開く音も、椅子を引く音も、変わっていない。

「澪」

「何」

「また止まってる」

 栞が私の本を指す。ページの上で、親指が同じところを押さえていた。

「考えごと?」

「別に」

「最近多いね」

「何が」

「別に、って言うの」

「そう?」

 栞は指を引いた。それ以上は聞かない。

 私は本の端をつまむ。もし聞かれたら、転校するんだってね、と答えるだろうか。いつまでいるの。どこへ行くの。どうして私には言わないの。

 最後の言葉を、口の中でも言わないようにした。

 同じクラスではない。連絡先も家も知らない。休日には会わない。栞にとって私は、放課後に同じ部屋へ来る人だ。その相手へ言っておくことが、どれだけあるのか分からない。

 ページを一枚めくる。

 隣で、小さな咳がした。

「風邪?」

「違うと思う」

「喉?」

「乾燥してるだけ」

「水飲めば」

「持ってない」

「自販機」

「寒いから出たくない」

「じゃあ我慢するの」

「そのうち治るよ」

 言い終わる前に、栞が口元へ手を当てる。

「行ってくれば」

「澪が?」

「なんで私が」

「言ってみただけ」

 栞は声を出さずに笑った。私も本へ戻る。

 数行先に、主人公が水を飲むところがあった。そこへ指を置いて立ち上がる。

「どこ行くの」

「自販機」

「喉乾いた?」

「何か飲みたくなった」

 廊下へ出る。階段の手すりは、部屋の机より冷たかった。一階で水を二本買う。取り出し口の中で、二本目が一本目へ当たった。

 上りながら両手を見る。一本ずつ持っている。栞の分、と言えばいいのに、その言葉を声にすると何かが増える気がした。

 図書室へ戻り、一本を隣の机へ置く。

「はい」

 栞の目が水へ、それから私へ動いた。

「私の?」

「いらないなら飲むけど」

「いる」

 手がすぐに伸びる。

「ありがとう」

「百二十円」

「取るんだ」

「冗談」

「澪が言うと分かりにくい」

 蓋を開ける音がした。栞は二口飲んで喉へ触れる。

「生き返った」

「死んでないじゃん」

「比喩」

「知ってる」

 私も蓋を開ける。水が歯に沁みた。わざわざ冬に買うものではない。

「澪って、こういうことするんだね」

「こういうことって?」

「人の飲み物買ってくるとか」

「喉痛そうだったから」

「ふうん」

「何」

「何でもない」

「それ、今日一回目」

 栞が目を丸くした。次に、ゆっくり口元をほどく。

「数えてるの?」

「何となく」

「そっか」

 私はもう一口飲んだ。冷たさが喉を通り、胸の中へ落ちる。

 水を一本買っても、二月は来る。

 机へ戻したボトルの底に、光が細く集まっている。隣にも同じ形がある。私はそれを見てから、本を開いた。


 翌日は、朝から空が白かった。

 昼休み、窓際の子が雪になるかもしれないと言う。誰かが天気予報を見て、夕方からだって、と返した。

 六時間目が終わるころ、窓の外を白いものが一つ横切る。次に二つ。そのあとからは数えられない。

「雪じゃん」

 席を離れる子の背中越しに、私は外を見た。細かい雪が斜めに流れている。校庭へ落ちる前に見えなくなった。

 栞も見ているだろうか。

 鞄を持ち、教室を出る。階段を上がるときに一段抜かした。旧校舎へ続く渡り廊下には雪が吹き込んでいる。例の窓は、今日も少し開いていた。

 床に水滴が散っている。窓枠へ手を掛け、閉めた。金具を倒す音が、自分のすぐ前で鳴った。

 図書室へ入る。窓際は空いている。

 四時三分。私が早い。

 本を出して座った。四時七分。廊下から靴音がする。顔を上げると、そのまま通り過ぎていった。

 四時十二分。

 前にも一度、遅かった。あのときは結局来た。今日は雪だから、教室を出るのに時間がかかっているのかもしれない。

 扉が開いた。

「寒い」

 栞の髪に、白い粒がついている。肩にも二つ。

「雪」

「急に強くなってきた」

「髪についてる」

「え」

 栞が頭へ手をやる。そこではない。

「反対」

 動いた手も少しずれていた。私は椅子から立ち、栞の前へ行く。指を伸ばしたところで止める。

 雪の粒は、根元から透け始めている。

 一つ払う。もう一つ。髪が指の腹へ触れ、滑って離れた。

「取れた」

 栞は動かない。

「何」

「いや」

「まだついてる?」

「違う」

 栞が自分の髪を撫でた。

「ありがとう」

 私は席へ戻った。開いた本の、さっきの行を探す。ページの数字は合っている。それなのに、どこから読めばいいか分からなかった。

 親指と人差し指を擦り合わせる。もう何も挟まっていない。

「雪、積もるかな」

「たぶん積もらない」

「この前は知らないって言ったのに」

「この降り方なら」

「詳しいじゃん」

「住んでるから」

「山の名前は知らないのに?」

「それとこれは別」

 栞が笑う。外の山は見えない。校庭の向こうにある家も、屋根と壁の境目が薄くなっている。

「帰れるかな」

「このくらいなら平気でしょ」

「電車止まらない?」

「これで止まったら冬ずっと動けないよ」

「そういうもの?」

「たぶん」

「またたぶん」

「栞、心配性だね」

「知らない土地だから」

 私は本の端から指を離した。

「前のところは?」

「前?」

「前に住んでたところ」

 栞の目がこちらへ向く。笑っていた口元の線が、真っ直ぐになる。

「海の近く」

「海」

「うん」

「どこの?」

 指が本の角を押さえた。

「遠いところ」

「そう」

 それ以上は聞かないつもりだった。窓へ目を向けてから、もう一つ口に出る。

「好きだった?」

「何が?」

「前の町」

 栞も窓を見る。雪がガラスへ当たり、細い水の筋になる。

「分からない」

「そうなんだ」

「出てから好きだったって思うことはある」

「今のところは?」

「まだいるから分からない」

 窓に映る口元は、こちらを向かない。

「澪は? ここ、好き?」

「考えたことない」

「だと思った」

「聞いたのそっちじゃん」

「一応」

 栞が笑う。その横顔を見ていたら、前の町のことより、次に行く場所を聞きたくなった。

 いつまでここにいるの。

 私は唇を閉じた。知っていることを言わないまま、栞だけに聞けるはずがない。


 五時を過ぎても、雪はやまなかった。

「そろそろ帰る?」

「帰ろう」

 昇降口で靴を履き替える。外へ出た途端、頬へ雪が当たった。

「冷たい」

「雪だからね」

「知ってる」

「傘は?」

「ある」

 栞が折り畳み傘を取り出す。私は持っていない。

「入る?」

 開いた傘は一人用だった。

「狭くない?」

「澪が濡れるよりは」

「栞が濡れるじゃん」

「じゃあ近づけばいいでしょ」

 傘の下へ入る。肩が触れたので離れた。雪が制服へ落ちる。もう一度近づく。

「歩きにくい」

「澪が離れるから」

「近いとぶつかる」

「じゃあどっちか選んで」

「濡れるほう」

「却下」

 仕方なく肩を寄せる。服越しに温度が分かるほどではない。ただ、足を出すたび腕が当たる。右足の次は左足。次にも当たった。

 路面はうっすら濡れている。雪は触れると溶け、街灯の光をぼんやり映す。

 いつもの分かれ道で、栞が足を止めた。

「こっち、工事してる」

 右へ曲がった先に赤い灯りが並んでいる。歩道が狭くなり、誘導員の棒が動いた。

「通れるんじゃない?」

「歩きにくそう」

「じゃあ向こうから回れば」

「そうする。途中まで一緒だね」

 栞が私の進む道を指す。

 いつも別れる場所を、そのまま越えた。家の塀も側溝の蓋も、昨日と同じ位置にある。栞の肩だけが隣にあった。

「こっち来るの初めて」

「何もないよ」

「それ、住んでる人はみんな言うね」

「本当にないし」

「私は好きだけど」

「何が」

「こういう道」

 低い家、葉の落ちた木、水の流れる側溝。私には帰る途中のものだ。

「普通じゃん」

「普通だから」

「分からない」

「澪には分からないと思う」

「何それ」

「悪い意味じゃないよ」

 私は傘の柄を見て、隣へ顔を向けた。

「栞。私のこと、どういう人だと思ってるの」

 栞の一歩が短くなる。

「急だね」

「今気になった」

「人に興味ない人」

「それはそう」

「認めるんだ」

「だってないし」

「あと、変なところで優しい」

「水?」

「それも」

「ほかに何かした?」

「してるよ」

「何」

「教えない」

「なんで」

「覚えてないなら、そのままでいい」

 声は笑っている。顔を見ようとすると、傘の骨がちょうど目の前に来た。

「栞は」

「私?」

「人に興味ある?」

 足が止まる。傘も止まり、雪だけが向こうへ流れる。

「ないよ」

 返事の前に、栞が息を吸った。

「そっか」

 また歩き始める。

 十分遅れたことも、同じ行を読んでいたことも、栞は知っていた。そんなことまで見える人が、興味はないと言う。

 隣で揺れる髪へ目を向ける。毛先が跳ねる日がある。手袋は灰色。寒がりで、知らない土地の雪を心配する。前は海の近くに住んでいた。

 髪は、見た目より柔らかい。

 私はその順に思い出せた。

「澪?」

「何」

「またぼーっとしてる」

「考えごと」

「珍しい。認めた。何考えてたの?」

「栞のこと」

 水を跳ねる足音だけになった。傘が少し傾き、私の肩へ雪が落ちる。

「……何を?」

「人に興味ないって、本当かなって」

「ああ」

 栞が息を吐いた。白い息が傘の端から逃げる。

「それだけ?」

「それだけって?」

「何でもない」

「傘、傾いてる」

「澪が近いから」

「近づけって言ったのそっち」

「そうだったね」

 傘が戻る。今度は腕が触れたままになった。

 交差点で栞が左を指す。

「私、こっち。ここからすぐ」

「じゃあ」

 傘から出ようとすると、止められた。

「待って。雪、まだ降ってる」

「見れば分かる」

「家、どのくらい?」

「十分くらい」

「それ近くない」

「近いよ」

 栞は傘の柄を私へ向ける。

「使って」

「栞は?」

「ここから五分くらい。走る」

「意味分かんない」

「じゃあ澪が持って、私の家の近くまで来る?」

「それだと私が遠回りじゃん」

「嫌?」

 すぐに、嫌ではないと思った。

「別に」

「どっちの別に?」

「嫌じゃないほう」

「そっか」

 柄を受け取る。栞の指が離れ、自分の手だけがそこへ残った。

 あと五分。その先から私の家まで十五分くらい。合計を考え、傘を少し持ち上げた。急ぐ理由はない。

 栞が寄ってくる。肩が触れる。私は傘を動かさずに歩いた。

「雪って匂いするよね」

「する?」

「するよ」

「どんな」

「雪の前の匂い」

「答えになってない」

「じゃあ、冷たい匂い」

「もっと分からない」

「澪は分からないこと、そのままにできるんでしょ」

「これはちょっと気になる」

 栞がこちらを見る。

 鼻から息を吸った。濡れた道路。どこかの家の暖房。奥まで入ってくる冷たさ。それ以外は分からない。

「分かんない」

「そのうち分かるよ」

「いつ」

「雪が降るたびに気にしてたら」

「じゃあ来年かな」

 栞の肩が少し後ろへ下がった。すぐ元に戻る。

 私は前を向いている。

 来年、栞はいない。二人とも知っている。雪が傘を細かく叩く。私は柄を握り直した。

 もう一度息を吸う。

 雪の匂いは分からなかった。ただ、この道を来年も歩くことは分かった。そのときに見える塀の角も、曲がる場所も、今は一つずつ目に入っていた。


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