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第二章 箱に入らないもの

第二章 箱に入らないもの


 澪は私の名字を、たぶん覚えていない。

 十一月の終わり、廊下ですれ違ったときに分かった。私を見るなり目を細め、知っている人かどうかを確かめるように顔を傾けた。それから「あ」と言う。

「栞」

 名字ではなく、栞。

 私は返事をする前に、制服の袖を引いた。口元を隠せるほど長い袖ではなかったけれど、手を何かに使っていたかった。

 人のことを覚えない人は楽だ。休みの日のことも、家族の人数も、前の町のことも、順番に説明しなくていい。次に会ったとき、続きを聞かれる心配もない。

 私は何も渡さないつもりでいた。

 十月にこの学校へ来たころは、何人かが話しかけてくれた。前の学校はどんなところ。こっちには慣れた。部活は入らないの。

 聞かれたことには答えた。笑うところで笑い、困っている人がいれば手伝う。ただ、「そっちは?」とは言わない。相手が次の話を探している間に、ノートを出す。そうしているうちに、隣の席の子も自分の友達と話すようになった。

 昼休みの窓に山が見える。前の町では、窓の向こうに白いものがあれば雲だった。ここでは斜面に雪が残っている。

 澪は名前を知らなかった。

 地元なのに、と聞くと、住んでるだけだし、と返した。

 あの答えは、家に帰ってからも残った。私なら住む前に駅を調べ、学校までの道を確かめ、また荷物を出す日が決まったら使うものを分け始める。住んでいるだけ、という時間を、どこに置けばいいのか分からない。

「また見てる」

 隣の席から声がする。

「何を?」

「山」

「見えるから」

「好きなの?」

「別に」

「ふうん」

 彼女は携帯へ戻った。机の上で、色のついた爪が動く。名字も名前も知っている。誕生日は知らない。私から聞かないまま、この町を出るのだと思う。

 昼休みが終わる。黒板の文字を写し、先生が話すあいだに次のページを開く。チャイムが鳴れば教科書をしまう。机の中には、持ち帰るものだけを残しておく。

 その手順の最後に、いつからか古い図書室が入った。

 最初に会った日、私は窓際に座っていた。澪は一度こちらを見て、二つ離れた席へ行く。挨拶もない。本を取り出す音だけがして、私は読みかけの続きを追えた。

 次の日も、その次の日も来た。

 四日目に初めて、

「そこ、寒くない?」

 と聞かれた。

「寒いよ」

「じゃあなんでそこにいるの」

「外が見えるから」

「そう」

 それで終わり。翌日、澪は一つ隣の席へ座った。椅子を引く音が近くなったほかには、何も変わらなかった。

 どうして、と聞けば、次からその理由を確かめたくなる。私は聞かずにいた。


 放課後、扉へ手を伸ばす前に鞄を掛け直した。廊下の先から誰かが来ても、急いでいたとは見えないように。

 中には澪がいる。

「こんにちは」

「こんにちは」

 顔が上がり、また本へ戻る。私はその間に椅子へ座った。机に置いた指から力を抜く。

 昨日と同じ本を開く。澪の髪が頬へかかっている。右手だけがページを押さえ、左手は袖へ隠れていた。手袋を持っているか聞いたら、帰る支度のことまで聞いてしまいそうで、しばらくその袖を見ていた。

「ねえ、寒くない?」

「寒い」

「手」

「手?」

「袖に入ってる」

 澪が自分の左手を見る。

「ああ」

「寒いんでしょ」

「たぶん」

「たぶん?」

「気づいたらこうなってた」

 出てきた指先が赤い。

「栞は寒くないの」

「寒いよ」

「じゃあ同じじゃん」

「私は手袋持ってるから」

「今してないけど」

「室内で手袋して本読むの、読みにくいでしょ」

「じゃあ持ってても同じじゃん」

「違うよ」

 昨日も、似たようなことを言った。

 澪の口元が上がる。右から。声は出ない。

「何」

「別に」

「栞、今日それ初めて」

「数えてるの?」

「昨日のお返し」

 ページを押さえていた指が滑った。紙が一枚戻り、澪はもう自分の本を読んでいる。

 昨日の会話を覚えていただけ。言われたことを言い返しただけ。

 私は戻ったページをめくり直す。さっきまで読んでいた行を見つけても、その次へ進めない。

「栞」

「ん?」

「昨日の本、読み終わった?」

「まだ」

「そう」

「読みたい?」

「別に」

「じゃあ、どうして聞いたの」

 澪の目がページから外れた。返事を探すとき、この人は人の顔を見ない。

「……何となく」

「そっか」

 それ以上は聞かなかった。何となく、なら、貸さずに終わっても困らない。

 窓へ顔を向ける。昨日より雲が少ない。雪の斜面に光が当たっている。前の町では同じ時刻に窓を見ても、建物の隙間まで暗かった。

「昨日の山」

 澪も窓を見る。

「名前、調べた」

「そうなんだ」

「聞かないの?」

「何を」

「名前」

「栞が教えたいなら聞く」

 私のほうへ戻された言葉を、すぐには受け取れなかった。窓に置いていた視線を下げる。

「やめとく」

「そう」

「気にならない?」

「今は別に」

「今は?」

「言葉のあや」

「ふうん」

 笑ってしまった。澪が眉を寄せる。

 前の町で知り合った子は、出身を聞き、好きなものを聞き、一緒に写真を撮ろうと言った。連絡先も交換した。引っ越してからしばらくは、毎晩携帯が鳴った。

 そのうち、返事を考える時間が長くなる。知らない先生の話に、知らない友達の名前が出てくる。こちらの話も同じだった。打った文を消して、短く書き直す。送る前に眠ってしまった夜もある。

 今は誕生日にだけ画面が光る。端末に日付を入れておかなかったら、私もきっと送れない。

 澪は、連絡先を聞いてこない。休みの日に会おうとも言わない。春になれば図書室の隣の椅子が空くだけだ。

 そのくらいなら。

「栞」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。

「またぼーっとしてる」

「澪に言われたくない」

「そう?」

「昨日ずっとぼーっとしてたよ」

「あれは……」

 澪の声が途切れる。

「何?」

「何でもない」

「また窓見てる」

「本を見てればいいのに」

「見えるから」

「よく見てるね」

「澪のことは、わりと」

 言ってから、昨日と同じ言葉だと気づいた。

 澪は窓へ向く。耳が赤い。寒い部屋だから、と考えて自分の本へ戻る。指先も冷えている。私は表紙の下へ片手を入れた。


 家へ帰ると、玄関の壁際に段ボールが増えていた。蓋を折ったままなので、上着の裾を引っかけないように通る。使っていない食器と、季節の違う服が見えた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日、学校から電話あったよ」

 母は台所にいた。鍋をかき混ぜる腕の下から湯気が上がる。

「何て?」

「書類のこと。あとで確認してって」

「分かった」

 床に転がっている油性ペンを拾い、棚へ置いた。父の仕事の都合だ。母も私も、そのたび荷物を詰める。食器から。季節の違う服から。制服と教科書は最後。読む本は、先に何冊か分けておく。

「三月の頭には向こうに行くことになりそう」

「聞いた」

「学校は二月いっぱいかな」

「そう聞いてる」

「先生から?」

「前に」

「そっか。今度は長くいられるといいんだけどね」

「別に」

「栞はそう言うと思った」

 母が笑う。私は冷蔵庫から麦茶を出した。コップに注ぐと、底に細かい泡が集まる。

 寂しいの、と聞かれても、友達と離れるのは嫌、と聞かれても、別に、と答えれば母はそれ以上言わない。食卓に皿を並べる。私も箸を出す。

 味噌の匂いが服へつく。この家に来た最初の日も、同じ匂いがした。

 部屋へ戻ると、机の横に空の段ボールがある。窓は黒い。鞄から本を出し、ベッドへ座った。半分より少し先。澪に貸そうと思って、別にいいと言われた本。

 数行読んで閉じた。

 昨日の本、読み終わった?

 声のほうが、文字より先に戻ってくる。

 澪は転校のことを知らない。言うつもりもない。放課後に会って本を読み、帰る時刻が重なれば途中まで歩く。連絡先も知らないし、休日にも会っていない。

 箱を閉じる日が来たら、ここを出る。

 本を開き直した。ページをめくったところで、手が止まる。

 私は澪の名字を知っている。廊下に貼られた委員会の名簿で見た。誕生日も知っている。四月二十八日。同じ委員会の子が確認する声を、通りがかりに聞いた。

 甘い飲み物はあまり買わない。左利きではないのに、考えるときは左手で頬へ触れる。寒いと袖へ指を隠し、退屈すると本の角を親指でなぞる。

 笑うとき、右の口角が先に上がる。

 分かれ道で十歩ほど進んだあと、一度だけ振り返る。

 昨日も。その前も。

 私は本を伏せた。机の横の段ボールに、表紙と同じくらいの影が落ちている。

 あと何週間。

 カレンダーには手を伸ばさなかった。指折り数えれば、明日から一日ずつ引いてしまう。

 机へ本を置く。明日読み終わったら、もう一度貸すと言ってみようか。

 表紙の角を整え、背を机の縁と平行にした。そんなことをしているあいだも、澪が受け取る手を想像していた。


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