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第一章 知らない山

 人の顔を覚えるのが苦手だ。

 と言うと、たいてい困った顔をされる。正確には、覚える必要をあまり感じない。半年も同じ教室にいれば、名前と顔は一致する。出席番号も席順も分かる。その先のことを、私はうまく持っていられない。

 誰と誰が仲がいいとか、先週まで付き合っていた二人がもう話していないとか。切られた髪も、鞄から消えた飾りも、気づくころにはその人のいつもの姿になっている。

「澪、今日帰り寄ってかない?」

 六時間目が終わり、前の席の子が椅子ごと振り返った。

「どこに」

「駅前。クレープ食べたいって話してたじゃん」

「誰が?」

「私が」

「じゃあ私は話してないね」

「そういう意味じゃないんだけど」

 彼女が笑う。机の脚に掛けていた鞄を膝へ引き上げ、もう一度こちらを見た。

「行かない?」

「今日はいいや」

「そっか。また今度ね」

 私は鞄の持ち手へ指を掛ける。

 今度がいつなのかは、知らない。

 椅子の脚が床を擦る。教室のあちこちで同じ音がして、さっきまで肩の詰まっていた列に隙間ができる。机の中から教科書を取り出した。奥には、消しゴムの欠片が一つ残っている。指で寄せて、ごみ箱へ捨てた。

 窓の向こうは晴れていた。山の上のほうだけが白い。あの山の名前を、小学校で習った気もする。でも、名前が出てこないせいで帰れなかったことは一度もない。

 廊下へ出て、人の流れとは反対に階段を上る。

 二階、三階。その先の踊り場。

 窓が指二本ぶん開いている。隙間を抜けた風が前髪を持ち上げ、額の汗を冷やした。閉めずに通る。寒い人がいれば、その人が閉めるだろう。

 旧校舎へ続く渡り廊下には、足音がよく響く。こちらで使われているのは美術室と資料室くらいで、図書室は新校舎へ移った。古い部屋には、新しい書架へは運ばれなかった本が残っている。背の褪せた全集。棚板に横倒しになった辞典。読みたい本は持ってくればいい。

 鍵は開いている。入るなとも言われていない。

 扉を横へ滑らせると、窓際の顔が上がった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 栞は開いた本へ指を挟んでいる。同じ学年、違うクラス。名字も聞いたことがあるはずなのに、名前のほうだけがすぐに出てくる。話すようになってひと月以上経つのだから、少し失礼かもしれない。

 隣の机へ鞄を置く。ここが私の席というわけではない。同じ椅子を選び続けているうちに、ほかの椅子を引く手順のほうが面倒になった。

 暖房のない部屋で、机へ置いた指先が冷える。新しい図書室なら暖かい。机もきれいで、本も多い。ただ、そこには人がいる。

 ここにいるのは栞だけだ。

 本を開く。向こうでも紙が一枚擦れた。窓から斜めに入る光が机の角にかかっている。読んでいるうちに、その光の幅が細くなった。

「今日、遅かったね」

 文字を追っていた目が止まる。

「そう?」

 栞は壁の時計へ目を向けた。

「いつもと同じくらいじゃない」

「十分くらい遅い」

「測ってるの」

「時計があるから」

 丸い時計の秒針が、一つ先へ進む。

「そう」

 栞の目がページへ戻る。私も戻した。数行読んでから時計を見る。四時十三分。普段は何時に来ていただろう。昨日も一昨日も、おそらく四時前後。その程度で足りていた。

 栞は、十分を知っている。

 同じ行を読み直す。意味が途中で途切れ、行頭へ戻った。

「何?」

「何が」

「さっきから同じところ読んでる」

 顔を上げると、栞はこちらを見ていた。髪は肩よりずっと下まである。右側の毛先だけ、外へ跳ねている。

「見てたの」

「見えただけ」

「本読んでるのに?」

「澪も本を読んでるのに、私が見てるって分かったでしょ」

 返す言葉が見つからない。

「確かに」

「でしょう」

 栞の口元がほどける。声は出ない。そういう笑い方をするのか、と考えてから、何度も見ている顔だと気づいた。

「今日、何かあった?」

「何かって?」

「遅かったから」

「掃除。当番だった」

「ああ、そうなんだ」

 栞は本へ戻る。

 掃除当番だと知ったところで、栞には何の関係もない。もし逆なら、私は聞くだろうか。栞が遅れてきても、来なくても、自分の続きを読めばいい。

 ページの角をつまむ。紙の向こうに次の行が見える。今度は読めた。

 やがて町の屋根が暗くなった。白い斜面だけが、まだ夕方の色を持っている。

「雪、降るかな」

 栞が窓へ顔を向ける。

「晴れてるけど」

「夜」

「天気予報は?」

「見てない」

「じゃあ知らない」

「澪って、そういうところあるよね」

「どういうところ」

「分からないことを、分からないままにしておけるところ」

「普通じゃない?」

「私は気になる」

「じゃあ調べればいいのに」

「それは面倒」

「私と同じじゃん」

「違うよ」

 何が違うのかは教えてもらえない。栞の目を追って窓を見る。青かった空が灰色になり、町には一軒ずつ明かりがつく。

「ねえ」

 私は顔を上げた。

「あれ、何て山?」

 栞の指が白い斜面を指す。

「知らない」

「地元なのに?」

「住んでるだけだし」

「ずっと?」

「たぶん」

「たぶんって何」

「小さいころのことなんて覚えてないから」

 今度の笑いには、かすかに声が混じる。

「変なの。自分の住んでる町のこと、全然知らない」

「栞は知ってるの」

「澪よりは」

「いつから住んでるの」

 栞の口元が止まった。窓へ視線を移すまで、一秒もなかったと思う。

「今年」

「へえ」

「秋くらい」

「そう」

 どこから来たのか、どうして来たのか。私は本の端へ指を戻す。栞はまだこちらを見ていた。

「何?」

「聞かないんだ」

「何を」

「前はどこに住んでたの、とか」

「聞いてほしい?」

「ううん」

「じゃあ聞かない」

 栞は指を本から抜き、机へ置いた。

「澪って、楽」

「それ、褒めてる?」

「かなり」

「そう」

 悪い意味ではなさそうなので、そのまま受け取る。

 そろそろ帰ろうと鞄へ手を伸ばした。隣では、まだページをめくる音がする。私は持ち手に触れず、本を開き直す。

 あと少し読んでから。

 同じ段落を、最初から読んだ。


 図書室を出たのは五時前になった。

「寒い」

 渡り廊下で栞が首を縮める。

「寒いね」

「手、死にそう」

「手袋は」

「鞄の中」

「すれば」

「面倒」

「さっきからそればっかり」

「何が?」

「気になるけど調べるのは面倒。寒いけど手袋するのも面倒」

「澪に言われたくないな」

 鞄から濃い灰色の手袋が出てくる。栞はそれを持ったまま階段を下りる。一階でようやく片方。靴を履き替えるころ、もう片方へ指を入れた。

 外で息を吐くと、白くほどける。晴れていた空の端に雲が増えていた。

「降るかも」

「雪?」

「雲が出てきたから」

「天気予報は?」

「見てない」

「じゃあ分からないね」

「そうだね」

 栞が声を出して笑う。

 住宅の並ぶ道へ入る。車が通るたび、二人の影が前へ伸びる。長くなった影は車に追い越され、その途端に足元へ戻った。

 栞の髪が風に広がり、制服の背中へまとまる。こんなに長くて、邪魔ではないのだろうか。

「何?」

「何でもない」

「今日それ一回目」

「数えてるの」

「澪のことは、わりと」

 靴底が一瞬、路面に引っかかった。足は止めない。

「暇なんだね」

「そうかも」

 道が分かれる。栞は右、私はまっすぐ。

「じゃあね」

「またね」

「明日」

 私は一度うなずく。

 十歩ほど進んで振り返った。灰色の手袋と長い髪。街灯の下へ入ると、栞の肩が明るくなった。

 見えなくなるまで見る必要はない。

 前を向いて、歩いた。


 翌日、旧図書室の扉を開けると、窓際の椅子には誰もいなかった。

 隣の机へ鞄を置いて座る。時計の秒針。廊下の靴音。風に押される窓の細い音。本を開く前に、それだけ聞こえた。

 一ページ読む。もう一ページ。

 四時十一分。

 昨日、私は十分遅かったらしい。なら、そろそろ来てもいいはずだ。

 四時十五分、二十分。ページをめくって時計を見る。四時二十八分。指を紙から離すと、めくりかけていた一枚が戻った。

 待っている。

 そう思って、窓際の椅子を見た。

 約束はない。毎日来ると聞いたこともない。具合が悪いのかもしれないし、ほかの用事があるのかもしれない。私は一人で本を読むために、この部屋へ来ている。

 四時四十分。本の厚さを指で測る。読んだはずのところが、ほとんど増えていない。

 帰ろう。

 鞄へ本をしまって立つと、廊下から靴音が近づいてきた。

「ごめん」

 開いた扉の向こうで栞が息をしている。肩が上下し、乱れた髪が頬へ貼りついていた。

「何が」

「遅くなった」

「別に待ってないけど」

「そうだよね」

 栞は笑わず、椅子へ座った。本を取り出す。私は鞄を持ったまま、その手を見ていた。

「帰るの?」

 四時四十二分。

「……まだ」

 椅子を引き直す。しまったばかりの本を出した。栞は何も言わない。私も言わない。

 続きの行を読んだ。さっきまでばらばらだった文字が、今度は意味になる。

 少し腹が立った。


 十二月に入った最初の月曜日、昼休みの窓を雪が横切った。誰かが雪だと言い、何人かが席を離れる。私は座ったまま見る。五時間目にはやんでいた。

 放課後、旧校舎へ向かうところを担任に呼び止められた。

「悪い、これ進路室に持ってってくれる?」

 差し出されたファイルを受け取る。

「今ですか」

「今」

「分かりました」

 進路室は反対側だ。階段を下り、開いている職員室の扉の前を通る。先生が二人話していた。ファイルの角を抱え直す。

「――転校の手続き、いつまででしたっけ」

「二月末までに一式そろえば。向こうの学校とはもう話がついてます」

「本人は?」

「分かってるみたいですよ。前にも経験してるらしいので」

 聞くつもりはなかった。自分には関係のない話だった。

「二年の――」

 名字が聞こえる。どこかで聞いたことがある。

「栞さん」

 ファイルの角が、腕の内側に当たった。

 進路室で渡し、礼を言われる。来た道を戻ると、渡り廊下の窓は今日も少し開いていた。風が袖の中へ入る。閉めずに通り過ぎた。

「こんにちは」

 栞がいつもの席にいる。

「こんにちは」

「今日、雪降ったね」

「見た」

「積もらなかったけど」

「この辺、そんなに積もらないし」

「そうなんだ」

 栞は、この町の冬を知らない。秋に来て、春には。

「澪?」

「何」

「どうしたの。ぼーっとしてる」

「そう?」

 栞が本の端を押さえる。

「何でもない」

 私は鞄から本を出す。ページの数字を見て開いたのに、どこまで読んだか分からない。向こうで紙が一枚擦れた。

「ねえ、栞」

「うん?」

 いつまで、と言いかけた舌が上顎に触れた。

「……何読んでるの」

 栞が目を丸くする。

「これ?」

「それ」

「珍しいね。澪が私のこと聞くの」

「本のことだけど」

「私が読んでる本のことでしょ」

 表紙がこちらへ向けられる。知らない題名、知らない作家。

「面白い?」

「まだ分からない」

「半分くらい読んでるのに?」

「最後まで読まないと分からないよ」

「そういうもの?」

「私はね」

 表紙が戻る。ページを押さえる爪は、短く整えられている。

「貸そうか?」

「まだ読んでるじゃん」

「読み終わったら」

「別にいい」

「そっか」

 窓を見る。山は白い。名前を知らなくても、明日も来年もそこにある。

 ガラスに栞の顔が薄く重なる。伏せた目と、頬へ落ちた髪。そちらの輪郭のほうが山より近い。

 転校するんだ。

 胸に手を当てるほどのことはない。涙も出ない。ただ、栞の指が一枚めくるところを、私は最後まで見ていた。

 いつまで。どこへ。どうして。

「栞」

「ん?」

「……何でもない」

 栞が笑う。

「また呼んだ」

「聞こえた?」

「澪のことは、わりと」

 前にも聞いた言葉なのに、今度は本へ戻れない。

 栞が目を落とす。私は開いたままの自分のページを、指で押さえていた。

 知りたい。

 声にはしなかった。指を離しても、紙はそのままだった。


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