ep.39 終わらないフィナーレ(ゲシュクール暦786年)
ep.39 終わらないフィナーレ(ゲシュクール暦786年)
馬車を降りた瞬間、目の前に聳え立つ山脈の異様さに、私は思わず言葉を失った。
切り立った崖の中腹に、まるで大地そのものに突き刺さった刃のように、巨大な神殿が埋め込まれている。
入口を塞ぐ石門は優に二十メートルを超え、その表面には見たこともない紋様が幾重にも刻まれていた。
周囲には確かに風が吹き、木々の葉が絶え間なく揺れているというのに、石門の奥だけは、まるで時間そのものが凍りついているかのように、空気が一切動いていない。
「これは……凄い……本当に、生きているうちに見られるとは……」
ユリウスは声を上ずらせながら石門へ駆け寄り、震える指先で壁一面の古代文字を書き写し始めた。
眼鏡がずり落ちるのも構わず、羊皮紙にペンを走らせる音だけが忙しなく響く。
「仕事しろ」
ガレスが呆れたように腕を組んで言うと、その場に小さな笑いが起きた。
まだ、あの旅の温かい空気は失われていなかった。私はその笑い声を、後になって何度も、何度も思い返すことになる。
神殿の内部へ足を踏み入れた途端、私はその静けさに肌が粟立つのを感じた。魔物の気配がどこにもない。荒らされた形跡も、獣の巣穴も、朽ちた死骸の一つもない。
まるで、ここへ足を踏み入れる者を何百年も待ち続けていたかのような、あまりにも整いすぎた静けさだった。
「……なんか、嫌な感じがしません?」
キースが軽口のつもりで発した言葉に、誰も笑わなかった。
不意に、リリアの足が止まる。腕をさすり、視線を落としたまま、彼女は震える声で呟いた。
「……帰った方がいい」
その一言に、全員が驚いて振り返った。リリアがこんな弱気な言葉を口にするのを、私はこれまで一度も聞いたことがなかった。
いつだって私の隣で、静かに、けれど確かな強さで支えてくれていた彼女が、今は明らかに怯えている。
「最深部まであと少しです! あと少しで……!」
ユリウスの声が興奮に上ずり、リリアの声を掻き消していく。私は一瞬だけ、リリアの瞳を見つめた。
そこに宿っていたのは、根拠のない不安ではない。もっと生々しい、動物的な予感だった。
それでも――。
「行こう」
私はそう言った。仲間の熱意を信じたかった。皆で乗り越えられると、疑いもしなかった。
その一言を、私は魂が擦り切れるほど後悔することになる。
奥へ進むにつれ、通路は徐々に広がり、やがて見上げるほど巨大な空間へと辿り着いた。
神殿の王の間とでも呼ぶべきその場所は、天井が闇に溶けて見えないほど高く、中央には黒く艶めく玉座が据えられている。
そこに、一人の男が腰掛けていた。
全身を包む黒い甲冑。頬杖をつき、退屈しのぎに誰かが来るのを待っていたとでも言うような、あまりにも軽い佇まい。
まるでここが玉座の間ではなく、酒場の片隅の椅子であるかのような座り方だった。
「誰だ」
私は杖を構えながら誰何する。
男は少し考えるような素振りを見せてから、ゆっくりと答えた。
「俺? 誰でもいいだろ?」
くつくつと喉を鳴らして笑う。
「そんなことより遊ぼうぜ」
まるで悪戯を思いついた子供のような、あまりにも無邪気な口ぶりだった。
だからこそ、その場にいた全員の背筋が、同時に凍りついた。
ユリウスだけが、その瞬間に何かへ気付いたようだった。
手にした古代文献のページをめくる指先が、抑えきれないほど震えている。
「まさか……そんな……本当に、実在……」
その先の名前は、ついに口から出てこなかった。
私は先手を取り、渾身の魔法を放った。
狙いは正確だったはずだ。それなのに、光の弾が着弾する頃には、もうそこに男の姿はなかった。
「いいね。無詠唱か」
背後から聞こえた声に、全身が総毛立つ。振り返る間もなかった。男は最初に座っていた玉座に、何事もなかったかのように腰掛けたままだった。
移動したという実感すら、誰にもなかった。
「隊長」
ガレスが低く、静かに私を呼んだ。
「振り返るな……逃げろ」
短い一言だけを残し、彼は大剣を構えて突撃していく。
その巨躯が生み出す踏み込みの音、鎧が擦れる金属音、これまで何度も戦場で私たちを守ってきた、頼もしい足音。
ガレスの大剣が轟音と共に男に振り下ろされる。
捉えたと思った瞬間、大剣は何かに強く弾かれた。
「ざんねん」
男は軽く鼻を鳴らしながら片手をただ緩慢に持ち上げただけだった。
「がっ――」
ガレスの胸から、赤黒い花が咲くように鮮血が噴き上がった。大剣が手からこぼれ落ち、乾いた音を立てて石床に転がる。
彼は自分の胸に空いた穴を、信じられないという顔で見下ろしながら、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ガレス……?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
一瞬だった。あまりにも呆気なく、あまりにも一方的だった。
ついさっきまで「仕事しろ」と笑っていた男が、もう指一本動かさない。
「テメェ……!」
キースの絶叫が神殿を揺らす。彼は矢を番える間ももどかしいとばかりに連射した。
だが、その全てが空を切り、あるいは見えない壁に阻まれたように弾かれ、床へ落ちていく。
気付けば、男はキースの目の前に立っていた。首を片手で軽々と掴み上げる。
「ぐ……あ……」
ぎち、と骨が軋む音。それは、私がこれまで聞いたどんな音よりも鮮明に耳へ焼き付いた。
キースの顔から見る間に血の気が引き、瞳孔が開いていく。次の瞬間には、彼はもう動かなくなっていた。
人形のように地面へ落とされたその身体には、もう誰の意思も宿っていなかった。
「無理だ……無理だ! こんなの、だって、だって!逃げましょうシルフィ!」
ユリウスが泣き叫びながら後退る。震える手で杖を構えるが、詠唱の言葉すら満足に紡げない。
男が指を鳴らすような、あまりにも些細な仕草をした。それだけで、ユリウスの腹部に風穴が空いた。
「あ……え……」
信じられない、というその表情のまま、彼は仰向けに倒れ、二度と動かなかった。
三人。私が数えるまでもなく、たったの数分だった。
さっきまで確かに笑い、軽口を叩き合い、共に生きていたはずの仲間たちが、もう二度と動かない物として、この石床の上に転がっている。
私はその現実を、まだ受け止めることさえできずにいた。
「あ……あぁぁぁぁっ!」
私は絶叫と共に地を蹴った。残されたリリアと共に、学院で培った全ての連携をぶつける。ありとあらゆる魔法を連射し、黒炎の剣を召喚する。圧縮した空気を土台にし、急旋回急降下で男を錯乱する。
それでも、触れることさえできなかった。
「随分器用なんだな?」
「もしかして学院の優等生さんか?」
男はすべてを軽く受け流しながら、まるで教師が生徒を採点するような、退屈そうな口調で笑う。
その声には、怒りも憎しみも、殺意すらも見当たらなかった。ただ、暇つぶしの余興を眺めているだけの目だった。
放たれた風の刃が、私の喉を裂いた。
視界が白く弾け、意識が一瞬途切れる。
裂けた肉が繋がり直し、失われた血が肌の内側へ引き戻されていく感覚――致命傷から、時短再生で無理やり引き戻しただけだ。
目を開けば、まだ立っていられる。
何度、その致命傷を負っただろう。喉を裂かれ、腹を貫かれ、腕を落とされる度に、私は再生した。
だが再生する度に、頭の奥で何かが軋むように痺れていく。焦燥だけが際限なく膨れ上がっていく。時間が足りない。リリアを守るための時間が――そう思うほどに、私は自らその力を酷使し続けた。
「シルフィ! もう、やめて……お願い……!」
リリアの悲鳴が、鼓膜を突き刺す。彼女がこれほど取り乱すのを、私は初めて見た。
それでも、私は止まらなかった。止まれるはずがなかった。目の前で仲間が三人も死んだ。もう、これ以上は一人も失えない。
――そう思っていた矢先だった。
「あー、飽きた」
男が心底つまらなそうに、大きなあくびをした。
その一言と共に、玉座の周囲に沈んでいた闇そのものが、生き物のようにうねりながら私の四肢へ絡みついてくる。
黒い鎖だった。ただの拘束具ではない。触れた場所から、体温そのものが吸い取られていくような、粘つく冷たさを纏った鎖だった。
「なっ……」
抗おうと魔力を込めた瞬間、鎖はさらに強く締め上げてきた。皮膚の下で、まるで内臓ごと握り潰されるような圧迫感が走る。
呻き声を上げる暇もなく、両腕、両足、そして喉元までもが完全に縫い止められた。
指先一本、瞬き一つ、もはや自由にならない。声を出そうとしても、鎖が喉仏を圧迫し、掠れた息だけが漏れるばかりだった。
視界だけは、無理やり奪われずに残されていた。まるで――これから起こることを、一部始終見せつけるために。
「シルフィ!」
リリアの叫びに、男は初めて興味を示したように視線を向けた。口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「じゃあ――」
「次は君にしよう」
男の刃が、初めてリリアへ向いた。避ける間もなく、その切っ先が彼女の脇腹を深く抉る。
「ぐっ……!」
血が噴き出し、リリアの膝が崩れかける。だが、彼女は倒れなかった。震える手で自らの腹へ手を当てる。
《時短再生》
「使わないで……リリア、逃げて……!」
私は叫ぼうとした。だが、鎖に縛められた喉からは、掠れた息しか出てこない。声にすらならない懇願は、誰にも届かなかった。
リリアが淡い光に包まれ、傷が塞がっていく。その様を眺めていた男は、愉快そうに首を傾げた。
「へえ。お前も賢者なんだ」
そう言うと、彼はゆっくりとリリアへ歩み寄る。
「なら、ゲームをしよう」
刃が、今度はリリアの肩を貫いた。
「あぁっ……!」
「時短再生でお前が記憶枯渇になるのが先か、それともあいつの精神が先に壊れるのが先か――」
男は私の方へ、ちらりと視線を投げた。
「もしお前が時短再生をしなければ、あいつを殺す」
「だから使え。何度でも。勝ったほうは助けてやる」
その言葉の意味を理解した瞬間、リリアの顔から血の気が引いた。私を守るためではない。
私を人質にされ、彼女自身が壊れていくと知りながら、その力を使い続けることを強いられている。
「……分かり、ました」
震える声で、リリアは頷いた。
私は鎖の中で叫んだ。声にならない絶叫を、何度も何度も繰り返した。やめて。私はいい。私が壊れてもいい。
だから、リリアには触れるな――そう訴えても、喉から漏れるのは息だけだった。
最初は、脇腹だった。
刃が深々と潜り込み、リリアの表情が苦痛に歪む。血が石床へ滴り、彼女は震える唇で詠唱を紡ぐ。
《時短再生》
淡い光が傷を癒す。だが、その光は、最初よりも僅かに鈍く見えた。
二度目は、肩だった。
「あぁ……っ」
三度目は、腹だった。
四度目は、太腿だった。
男は退屈を紛らわすように、少しずつ傷を負わせる場所を変えていく。まるで玩具の壊れ具合を確かめる子供のように、飽きることなく、無邪気に、リリアの身体へ刃を突き立て続けた。
「なぁ、これ何度目だ?」
男が笑いながら尋ねる。
「数えてない……のか」
リリアは答えなかった。答える余裕など、もう残っていなかった。傷を負い、再生し、また傷を負う。
その度に、彼女の表情から少しずつ何かが削げ落ちていくのが、私には見えた。
私は鎖の中で、ただそれを見ていることしかできなかった。目を閉じることさえ許されない。
逸らそうとしても、視線は無理やり引き戻される。まるで、逃げることさえこの拷問の一部であるかのように。
「リリア……リリア、もう……」
声にならない声で、私は彼女の名を呼び続けた。
やがてリリアの再生が、目に見えて遅くなっていった。傷が塞がるまでの時間が延び、光の色が濁っていく。
彼女の瞳から、少しずつ焦点が失われていった。
「……あれ」
リリアが、ぽつりと呟いた。
「今の、私……何を、してた……?」
「リリア!」
私は声にならない絶叫を上げた。
彼女の瞳が、初めて私を見つけられずに宙を彷徨う。
「シル……フィ……?」
「どこ……?」
永久欠損。
言葉を失った私の目の前で、リリアはゆっくりと膝から崩れ落ちていった。もう、二度と立ち上がることはなかった。
「あ」
男が、興味を失ったように小さく呟く。
「終わった、これ」
まるで壊れたおもちゃを見るような、あまりにも軽い声だった。
その瞬間、私を縛っていた鎖が、音もなく解けた。もはや拘束する必要すらないと、判断されたのだろう。
私は崩れるように駆け寄り、リリアの身体を掻き抱いた。まだ、確かに温かい。
それなのに、どれだけ名前を呼んでも、揺すっても、その瞳はもう二度と私を映さなかった。
「お前」
男の声が、遠くから聞こえる。
「面白いな」
興味を失ったように背を向け、ゆっくりと歩き出す。
「俺はレイザー。所有者の名前は憶えておけよ。それと……また遊ぼうぜ」
振り返りもせず、そう言い残して。
その姿は、闇の奥へ音もなく溶けて消えていった。
残されたのは、静寂だけだった。
「あ……あああ……ああああああっ!!」
喉が張り裂けるほどの絶叫が、誰もいない神殿に木霊した。リリアを抱き締めたまま、私は自分の身体が内側から引き裂かれていくような感覚に襲われていた。
ガレス。キース。ユリウス。そして、リリア。
四つの、もう二度と笑わない身体。焚き火を囲んだ夜。カードに負け続けたキースの悔しそうな顔。本を買い込むユリウスの嬉しそうな横顔。
「そのくらいが長生きする」と笑ったガレスの声。指切りを交わした、あの夜の約束。
――全部、思い出してしまう。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい……!」
私は自分の頭を掻きむしった。爪が皮膚を裂いても、痛みすら感じなかった。
思い出が、次から次へと押し寄せてくる。忘れたい。忘れたい。これ以上、この記憶を抱えたまま息をしていたくない。
震える手が、自然と剣の柄を握っていた。
(これを忘れられるなら)
(記憶ごと消えてしまえるなら)
私は、自分の胸へ剣を突き立てた。
致命傷。世界が暗転し、次の瞬間には再生していた。だが、記憶は消えていない。
ガレスの死に顔も、キースの声も、リリアの瞳も、まだ鮮明にそこにあった。
「足りない……」
私は、もう一度剣を握り直した。
致命傷。再生。また、思い出す。
その繰り返しの中で、ふと手が止まる瞬間があった。
(……いや)
(違う)
刃を握ったまま、私は自分の胸の奥で何かが冷たく凝るのを感じた。
(このまま消えてたまるか)
(あいつを、殺すまでは)
黒い甲冑の男の顔が、笑い声が、脳裏に焼きついて離れない。
あの、遊びのように仲間を殺した顔。あの、リリアの最期を「終わった」の一言で片付けた声。
(探し出して、殺す)
(絶対に、殺してやる)
その執着だけが、消えかけていた自我を辛うじて繋ぎ止めていた。
生きなければ復讐できない。忘れてしまえば、誰を憎めばいいのかすら分からなくなる。
だが、次の瞬間には、その決意そのものが重すぎて、私はまた剣を握り直していた。
(でも……もう、無理だ)
(覚えていられない)
(覚えていたら、壊れる)
生きて憎み続けたいという叫びと、今すぐ全部を手放してしまいたいという願いが、交互に押し寄せては引いていく。
刃を握る手は、殺意のために震え、次の瞬間には自らを傷つけるために震えた。
致命傷。再生。また思い出す。
(殺す)
また、刺す。
(忘れたい)
また、再生する。
(殺す)
(忘れたい)
(殺す)
(忘れたい)
その二つの言葉だけが、頭の中で溶け合い、混ざり合い、やがて区別がつかなくなっていった。
復讐のために生きようとする自分と、その痛みから逃げようとする自分が、同じ手で同じ剣を握り続けていた。
最初は、獣のように叫んでいた。途中から、声もなく泣いていた。やがて、何も感じなくなっていった。
表情が消え、涙も涸れ、殺意すらも輪郭を失っていく。ただ機械的に剣を握り、胸を貫く動作だけが繰り返されていく。
春が過ぎた。
夏が来た。
秋が終わった。
雪が積もった。
私は致命傷を負い、再生し、また致命傷を負った。それだけを、ただ延々と繰り返していた。
ある日、剣を胸へ突き立てようとした手が、ふと止まった。
「……あれ」
「何で……私、これしてるんだっけ」
誰を憎んでいたのかも、誰のために生きようとしていたのかも、もう思い出せなかった。
最後に残ったのは、四つの墓標だった。いや――リリアだけは、どうしても土の下に埋めることができなかった。そばを離れることがどうしてもできず、私はただ、朽ちていく彼女の隣に座り続けた。
私は、何を忘れたかったのかさえ、もう思い出せなくなっていた。
つづく




