ep.38 学院の天才(ゲシュクール暦786年)
ep.38 学院の天才(ゲシュクール暦786年)
賢者学院の卒業式は、いつだって快晴と決まっているのだと、誰かが冗談交じりに言っていたのを覚えている。
実際、その日の空も抜けるように青く、白い石造りの講堂を包む光は、まるで祝福そのものを形にしたようだった。
壇上に立つ学院長の声が、静まり返った講堂へ朗々と響き渡る。
「卒業生代表――シルフィ・ヴァレンシア」
名を呼ばれ、私は用意されていた壇上へと歩を進めた。周囲からの視線が、痛いほど肌に突き刺さる。それでも不思議と足は震えなかった。
むしろ、誇らしさに近い何かが、胸の奥から静かにこみ上げてくるのを感じていた。
二年間、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで魔法書を開き続けた日々が、この瞬間のためにあったのだと思うと、込み上げてくるものを抑えるのに苦労した。
「歴代主席の中でも、最高峰と言っていいでしょう」
学院長の言葉に、教師たちが揃って重々しく頷く。
「次代を担う賢者」
「王国の宝」
そんな、あまりにも大きすぎる期待の言葉の数々を浴びせられながらも、私はただ照れ臭さだけを噛み締め、卒業証書を受け取った。
羊皮紙の重みが、これまでの二年間の重みそのもののように、掌へじんわりと伝わってくる。
視線を上げ、学院を見渡した。石畳の中庭を渡る風。鐘楼から響く澄んだ音。噴水が陽光を弾いて七色にきらめき、その周囲には満開の桜が薄紅色の花びらを絶え間なく散らせている。
この景色を、これから先も忘れることはないだろう。そう思いながら、私は静かに壇上を後にした。
式が終わり、外へ出ると、正門の脇でリリアが花束を抱えて待っていた。
淡い銀髪を結い上げ、少しだけ照れくさそうに視線を泳がせながら、彼女は花束を差し出してくる。
「主席、おめでとう」
「ありがとう」
私は自然と手を伸ばし、その身体を抱き寄せた。互いに何を確かめ合うでもなく、ただそうすることが当たり前だというように。
恋人だと、わざわざ言葉にする必要はなかった。二人の間にある空気だけが、それを何より雄弁に語っていた。
花束からは、リリアが好んで育てていた白い小花の匂いがした。彼女は寮の窓辺で、毎朝欠かさずその花に水をやっていたことを、私は誰よりもよく知っている。
「これから忙しくなるね」
リリアがぽつりと呟く。
「うん」
私は頷き、彼女の目を見つめ返した。
「でもリリアがいるから」
その一言に、リリアは花がほころぶように笑った。その笑顔だけで、これから始まる先の見えない未来も、怖くはないと思えた。
主席という肩書きは、思っていた以上に重く、そして便利なものだった。
王都のギルドで献身者登録を済ませた翌日には、早くも初依頼と、そのための仲間を紹介された。
最初に顔を合わせたのは、ガレスという男だった。
元は王国騎士だったというその体軀は岩のようにがっしりとしており、背負った大剣の大きさと相まって、初対面での印象は「怖い」の一言に尽きた。
無精髭に覆われた顎、値踏みするような鋭い眼光。
けれど、口を開いて笑った瞬間、その厳つい顔立ちに驚くほど柔らかな皺が刻まれるのを見て、私は密かに安堵していた。
「学院主席」
ガレスは私を一瞥し、それだけ言って笑う。
「頼りにしてるぞ」
その一言には、どこか年上の兄が妹を見るような、飾らない親しみがこもっていた。
続いて紹介されたのは、弓を背負った青年キースだった。
人懐こい、というより初対面からやたらと距離感の近い男だった。
整った顔立ちに、悪戯っぽい笑みを常に浮かべている。
「主席? 長いな。シルでいい?」
「え?」
戸惑う私に構わず、彼は勝手に呼び方を決めてしまう。
「好きに呼んでいいよ」
そう返すと、キースは満足そうに白い歯を見せた。
軽薄に見えて、その実、彼が張り詰めた空気を和らげるために誰よりも先に動く人間だということに、私はまだ気付いていなかった。
最後に紹介されたのは、両腕いっぱいに古びた地図を抱えたユリウスという青年だった。
眼鏡の奥の目は、初対面の私を見ているようで、実はその向こうにある古代遺跡のことしか見ていないようだった。
遺跡研究者だという彼は、口を開いた途端に止まらなくなる。
古代文明の話、失われた遺構の話、誰も聞いていないのに滔々と語り続ける様子に、皆がそれとなく視線を逸らした。
気まずい沈黙が流れかけたその時、ガレスが両手を叩いて立ち上がった。
「まず飯食うぞ」
その一言で、皆が我に返ったように笑い出す。連れ立って向かった酒場では、料理が並び、酒が注がれ、他愛もない笑い声が絶えず響いていた。
まだ出会ったばかりの、ぎこちなさの残る距離感が、その一夜だけで少しずつ縮まっていくのを、私は肌で感じ取っていた。
初めて共に受けた依頼は、森に潜むゴブリンの討伐だった。
危険度としては決して高くない。それでも、この依頼こそが、私たちというパーティの形を決定づけるものになった。
ガレスが最前線で受け止め、巨躯を盾のようにして仲間を守る。
キースの矢は迷いなく放たれ、確実に急所を貫いていく。
ユリウスは戦いながらも冷静に敵の数と配置を分析し、短く的確な指示を飛ばす。
リリアは絶えず回復魔法を紡ぎ、皆の傷を癒し続けた。そして最後に、私の魔法が止めを刺した。
無駄のない連携だった。
帰り道、キースが軽い調子で言った。
「隊長のおかげだな」
「違うよ」
私は首を振る。
「みんながいたから勝てたんだよ」
その言葉に、ガレスが満足そうに笑った。
「いい隊長だ」
その一言が、思っていたよりもずっと嬉しかった。
依頼をこなす日々の合間には、何気ない時間が積み重なっていった。
宿場ではキースがカードで負け続け、そのたびにガレスが腹を抱えて笑う。
「次こそ」と意気込んでは、また負けるキースの姿は、いつしか毎晩の恒例行事のようになっていた。
市場ではユリウスがまた本を買い込み、荷物が日に日に膨れ上がっていく。
「また増えたのか」とキースが呆れれば、ユリウスは真顔で「これは必要な資料です」と反論し、それを聞いたガレスがまた笑う。
食堂では、リリアが私の皿へそっと野菜を取り分ける。
「ちゃんと食べて」
「隊長は尻に敷かれてるな」
からかうキースに、ガレスが真顔で頷く。
「そのくらいが長生きするんだ」
全員が声を上げて笑った。こんな何気ないやり取りの一つひとつが、いつの間にか私にとってかけがえのないものになっていた。
夜、焚き火を囲みながら満天の星を見上げる時間もあった。少しだけ静かになった空気の中、キースがぽつりと呟く。
「平和になったら、何するよ?」
「酒場でもやるか」
ガレスが即答する。
「私は研究所ですね」
ユリウスも迷わず答えた。
リリアだけは、少し恥ずかしそうに視線を落としてから、私を見た。
「私は……静かな町に住みたい」
「シルフィと」
その一言に、場が一瞬だけ静まり返る。私は頬が熱くなるのを感じながらも、なんとか言葉を返した。
「庭付きで」
「花壇も」
リリアが続ける。
「犬も」
キースがはやし立て、ガレスが「若いな」と笑う。
焚き火を囲む全員の笑い声が、夜空へ吸い込まれていった。
その夜遅く、二人きりになった時間に、リリアは私の指へそっと自分の指を絡めた。
焚き火の残り火に照らされた横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「約束ね」
「必ず」
指切りを交わしたその約束を、この時の私はまだ、絶対に守れるものだと信じて疑わなかった。
依頼の成功を積み重ねるうち、ある村で私を見た子供が無邪気にこう叫んだ。
「灰色の賢者だ!」
それが最初だった。やがて王都から正式な通達が届き、私にはその二つ名が授けられることになる。
酒場では祝いの席が設けられた。
「今日は隊長の奢りだぞ!」
「有名人になっちまったな」
「本にも載りますよ!」
ユリウスが目を輝かせながら言う。リリアは誰よりも嬉しそうに、少し離れた場所から静かに拍手を送っていた。
その控えめな笑顔が、私には何よりの祝福に思えた。
「みんなのおかげだよ」
私はそう言うのが、精一杯だった。
そして、その依頼が舞い込んだ。王国使者の口から告げられたのは、これまでとは比較にならない難度の任務――古代遺跡の調査だった。
成功すれば歴史に名を残す。しかし、失敗は決して許されない。
「燃えるな」
ガレスが不敵に笑う。
「宝ある?」
キースが軽口を叩く。
「古代文明ですよ!」
ユリウスは興奮を隠しきれない様子だった。
「無理だけはしないで」
リリアだけが、僅かな不安を滲ませて言う。
私は仲間たちの顔を一人ずつ見渡した。ガレスの頼もしい笑み。キースの軽やかな軽口。ユリウスの尽きない好奇心。リリアの、いつも私を案じてくれる優しい瞳。
この四人がいれば、乗り越えられないものなど何もないと、心の底から思えた。
「必ず」
「全員で帰ろう」
その言葉に、全員が笑った。
このとき、この場にいる誰一人として、自分たちの誰かが死ぬなどとは、微塵も思っていなかった。
馬車が王都を出る。窓の外で、学院の白い尖塔が少しずつ小さくなっていく。
リリアが私の肩へそっともたれかかり、キースは早くも高いびきをかいている。ガレスは酒瓶を傾け、ユリウスは膝の上で地図を広げたまま何かを呟いている。
私はそんな仲間たちの姿を見渡しながら、胸の中で静かに思った。
――私は、この仲間たちとなら、どんな困難も乗り越えられる。
その確信は、揺るぎないものだったはずだ。
あの日、あの遺跡へ辿り着くまでは――。
つづく




