ep.37 フィナーレの始まり(ゲシュクール暦794年)
ep.37 フィナーレの始まり(ゲシュクール暦794年)
シルフィがレイザーの名を叫んだ、その残響がまだ岩場の空気にこびりついているというのに、辺り一帯は嘘のように静まり返っていた。風さえも息を潜め、砕けた岩の破片が乾いた音を立てて転がり落ちるのが、やけに大きく耳へ届く。夕闇に炙られた岩肌は、まだ先ほどの衝撃波の余熱を微かに残しており、その熱気が、立ち尽くす私の頬をちりちりと炙っていた。
私は動けなかった。動く理由が見つからなかった、という方が正しいかもしれない。目の前に立つ二つの影を見つめたまま、思考だけが勝手に過去へと引き戻されていく。
黒い甲冑。黒い外套。顔を覆い隠す兜。
その組み合わせを見た瞬間、脳裏に蘇ったのは、レイブル村で目にしたあの古びた文献のことだった。革表紙はひび割れ、頁を繰るたびに乾いた紙の匂いが立ち上っていた、あの一冊。見開きいっぱいに描かれていた挿絵には、確かに二人の黒騎士が向かい合っていたはずだった。
――間違いない。あの古文書は、この二人を描いたものだったんだ。
目の前に立つアスカーと、突如として岩の上から降ってきたもう一人の男。特徴は恐ろしいほどに一致していた。それなのに、同じ姿形をしていながら、二人が纏う気配はまるで正反対だった。
だが、確信が胸に落ちるのと同時に、それ以上の違和感が私の中で膨らんでいく。
古文書に描かれていたのは、崇められる者としての黒騎士だった。村に代々伝わり、何百年もの間、大切に守られてきた記録。神格化された英雄譚か、あるいは畏怖すべき伝承か――いずれにせよ、そこに描かれる存在は、ただの脅威ではなく、人々が語り継ぐ価値のある「何か」であったはずだ。
(本当に、この二人なのか……?)
破り取られていた挿絵の中央。そこに描かれていたはずの何かこそが、その答えを握っているのかもしれない。
分からないことばかりが、次々と積み重なっていく。それでも、目の前の二人が、私の追い求めてきた「黒騎士」の正体に直結していることだけは、もはや疑いようがなかった。
アスカーは槍斧を肩に担いだまま一歩も動かない。まるで彫像のように微動だにせず、この惨状すらどこか遠い出来事のように眺めている。その佇まいには、感情という感情がまるで削ぎ落とされているようだった。対して、もう一人の男は――気の向くままに散歩でも楽しんでいるかのような、あまりにも軽い足取りで崩れた石の上を歩いてくる。踏みしめる瓦礫の音さえ、どこか鼻歌のように弾んで聞こえた。
レイザーは肩を竦め、口元に薄い笑みを浮かべた。
「兄貴。なんか楽しそうなことしてんなぁ」
私は思わず息を呑んだ。
(兄貴……?)
アスカーは表情ひとつ変えず、感情の色を一切滲ませない声で問い返す。
「その呼び方はやめろと言ったはずだ……それより貴様、何をしに来た」
レイザーはその冷たさを受け流すように、笑みを深くする。
「言ってなかったっけ?」
視線をゆっくりとシルフィへ移す。値踏みするような、それでいてどこか懐かしむような眼差しだった。値踏みされる側のシルフィは、その視線を浴びただけで身体を強張らせている。
「そこの狂犬は、俺が作った最高の玩具だ」
「だから、久しぶりに遊びに来た。玩具は懐かしいほど過去の記憶が美化されるだろ」
その言葉が耳へ届いた瞬間、シルフィの肩が大きく跳ねるように震えた。決して聞きたくなかった言葉を、無理やり流し込まれたかのように。
「……玩具」
掠れた声で、シルフィがその言葉だけを繰り返す。
レイザーは楽しそうに片眉を上げた。
「呼び方が気に入らないのか? それとも、思い出したのか?」
「うるさい」
「どっちだ」
「うるさいって言ってる!」
シルフィの声が、初めて感情の色を帯びた。それは怒りにも、悲鳴にも聞こえた。喉から絞り出されるような、二つの感情がないまぜになった声だった。
レイザーは愉快でたまらないというように口の端を吊り上げる。
「見てろよ。これからがフィナーレだ」
意味など、私にはまだ分からない。だが、シルフィだけは違った。呼吸が浅く速く乱れ、指先が痙攣するように震え始めていた。
その震えは恐怖からくるものではなく、もっと別の、押さえ込んできた何かが決壊する寸前の震えだった。
その震えが臨界を超えた瞬間、シルフィの喉から獣じみた咆哮が迸る。
同時に、彼女の眼前へ黒く渦を巻く魔法陣が展開された。
渦の中心から炎とも影ともつかない黒い揺らめきが噴き上がり、その中から一振りの剣が引き抜かれるように現れる。刀身を包む黒炎が、握り拳ごと焼くように揺れていた。
爆発的な加速とともに、彼女の姿が景色から掻き消える。次の瞬間には、黒炎を纏った斬撃の雨が、レイザーただ一人へ降り注いでいた。
しかし――レイザーは剣に手すらかけない。首を僅かに傾け、体をずらす。未来をあらかじめ見透かしているかのように、その動きだけであらゆる刃をすり抜けていく。
「遅いなぁ。昔はもっと早かったけどなぁ」
耳元で囁くような声がした。シルフィが振り向いた時には、もう何もない空間だった。背後から刃が届く。空を切る。
「そんなに急いでどうする」
「黙れ!」
「それにもっと落ち着いてただろ。教えてやろうか、お前がどれだけ――」
「黙れぇぇぇっ!」
言葉を最後まで聞かず、シルフィは黒炎の剣を横薙ぎに振り抜いた。刃圧だけで岩が縦に裂け、粉塵が舞い上がる。
レイザーはそれすら軽く仰け反ってかわし「ほら、ここだ」と幼子をからかうような笑みを浮かべ顔を差し出す。
そして次の瞬間にはもう背後に立っている。
シルフィはさらに激昂し、黒炎の剣を振るい続けた。突き。薙ぎ払い。振り下ろし。息継ぎすら惜しむように連撃を叩き込む。
刃が空を裂くたびに黒い炎の軌跡が尾を引き、森が裂け、岩が砕け、大地がえぐり取られていく。
土煙が視界を覆い、その中で無数の黒い光跡だけが縦横に走り続けていた。それでも、レイザーの外套の裾一枚さえ掠りもしない。
私は目を見開いたまま、その光景から目を離せなかった。全身の震えが、単なる恐怖からくるものなのか、それとも目の前で繰り広げられる圧倒的な力の差に本能が竦んでいるだけなのか、自分でも判別がつかなかった。
(強い……いや、違う)
強いという言葉だけでは、この状況を言い表せない。
これは――遊んでいるのだ。それが、何よりも恐ろしかった。
シルフィはこの一瞬に命を懸けている。積み重ねてきた憎しみと、失われた何かを取り戻そうとする必死さだけを武器に、黒炎の剣へ全霊を注いでいる。
だというのに、レイザーにとってそれは退屈しのぎの遊戯でしかない。その温度差こそが、彼女の絶望をより深いものにしているのだと、私は嫌でも理解させられていた。
一方のアスカーは腕を組んだまま、ただ黙ってその光景を見つめ続けていた。止める気配も、助ける素振りもない。まるで、これから起こる何かを見届けることこそが自分の役目だとでも言うように。
その徹底した無関心が、この場のどんな暴力よりも異様に感じられた。
不意に、レイザーの動きがぴたりと止まる。
宙を薙いでいたシルフィの黒炎の剣先も、それに呼応するように止まった。レイザーは小さく息を吐き、心底つまらなそうにため息をつく。
「おいおい。まだ思い出せないのか?」
シルフィは苦悶の表情を浮かべ、片手で頭を抱え込む。もう片方の手は、黒炎の剣を握ったまま小刻みに震えていた。
「黙れ……」
「黙れ……」
「随分と嫌われたもんだな」
レイザーはわざとらしく肩を落として見せた。
「俺は何もしてないんだけどな。お前がそっちで勝手に、大事なものを全部忘れちまっただけだ」
「知らない……知らない!」
「知らないはずないだろ。八年、経ってるんだぞ?」
その声には、初めて僅かな苛立ちが滲んでいた。愉快そうな仮面の下から、別の何かが一瞬だけ顔を覗かせたように、私には見えた。
「八年も忘れたままか。期待外れだな」
言い終わるより早く、彼の姿が視界から消えた。
気付けば、レイザーはシルフィの目の前に立ち、その額へそっと人差し指を当てていた。
「なら――逆流させてやるよ」
シルフィの身体が、糸で吊られたように硬直する。
握られていた黒炎の剣が音もなく地面へ滑り落ち、刀身を包んでいた炎がふっと消えた。
見開かれた瞳の奥で、瞳孔が小さく震える。
その瞬間――視界のすべてが青白い光に呑み込まれていく。
膨大な記憶の奔流が堰を切ったように流れ込んでいく感覚が、なぜか少し離れた場所に立つ私にまで伝わってくるようだった。
彼女は喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げ、その場に頽れる。
――賢者学院 八年前 ゲシュクール歴786年――
「シルフィ。卒業おめでとう!」
私にとって最愛の人、リリアが満面の笑顔で花束を差し出した。
見慣れた石造りの校舎。青空へ突き刺すように伸びる尖塔。賢者学院。
その中庭で、まだ何も知らずに笑っていた頃の私がいる。
周りを取り囲むのは、肩を並べて共に笑っていたはずの仲間たちだった。
私は学院を主席で卒業した。
周りは私を天才と呼んだ。
私自身も、それを疑っていなかった。
努力すれば結果はついてくる。
仲間となら、どんな困難だって乗り越えられる。
だから――全部、うまくいくとばかり思っていた。
景色が、ゆっくりと切り替わっていく。
そして――あの惨劇がゆっくりと近づいてくる。
つづく




