ep.36 暴走(ゲシュクール暦794年)
ep.36 暴走(ゲシュクール暦794年)
崩れた石組みの隙間を縫うように吹き抜ける風は、夕日に炙られた岩肌の熱をわずかに冷ましながら、シルフィの黒髪を絶えず揺らし続けていた。
彼女が上げていた絶叫の余韻は、まだ空気の粒子そのものに絡みついたまま消えずに残っており、膨れ上がった魔力がその輪郭をちりちりと焦がすように肌へ突き刺さってくる。
私はレイピアの柄を握り直しながら、まだ収まりきらないその圧を全身で受け止め、崩れた石柱の陰へ視線を注いだ。
そこから、ゆっくりと一つの影が滲み出るように現れる。全身を覆う漆黒の甲冑は、夕焼けの赤さえ吸い込んで沈むように黒く、肩に担がれた人の背丈ほどもある巨大な槍斧は、鈍い光を纏ったまま微動だにせず静止している。
歩幅は一定で、急ぐ様子も、油断する様子もない。ただそこにいるだけで、周囲の空気が確かに重さを変えていくのが分かった。
――アスカー。
その名を思い浮かべた瞬間、喉の奥が干上がったように張り付いた。首切りとは比べ物にならない。あの雪原で、フィアの命を奪い、王国最強と呼ばれたガイゼルの右腕をあっさりと刈り取った化け物が、今また目の前に立っている。
私は無意識のうちに半歩だけ後ろへ下がり、その圧に抗おうとする自分の身体を静かに制した。
だが、アスカーは武器を構えようとはしなかった。ただ静かにこちらを、いや正確には隣に立つシルフィだけを見据えたまま、低く一言だけを落とす。
「……何しに来た」
短い問いだった。それでいて、有無を言わせない重みがあった。私はその視線の先を追うように、シルフィの横顔へ目を向ける。
次の瞬間、彼女の表情が凍りついていることに気付いた。
「シルフィ?」
呼びかけても、返事はなかった。青灰色の瞳孔は限界まで開ききり、それでいて焦点はどこにも結ばれておらず、細かく揺れ続けている。
呼吸は浅く、そのくせ異様なほど速い。ついさっきまで猫を撫でて笑っていた少女とは、まるで別人のようだった。
「シルフィ、しっかりして――」
肩へ手を伸ばそうとした、その刹那だった。
「……返せ」
掠れた声が、風の音に混じって耳へ届く。俯いたまま握り締められた拳は、爪が食い込むほど強く、白く血の気を失っていた。
「返せ……」
その一言を境に、空気そのものの質が変わっていくのを、私は肌で感じ取った。足元に転がっていた小石が、音もなくふわりと浮かび上がる。
逆巻く風に煽られ、乱れた黒髪が鞭のようにしなり、頬を打つ。
「返せぇぇぇぇぇぇぇ!!」
轟音とともに、岩場全体を揺さぶるほどの衝撃波が四方へ弾け飛んだ。周囲の岩肌が悲鳴のような音を立てて次々と砕け散り、私は咄嗟に後方へ跳んで、降り注ぐ瓦礫の雨からどうにか身を守る。
顔を上げたとき、そこにさっきまでの人懐こい少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。獣のように両手を地面へ突き、銀色に近く見える黒髪を振り乱しながら、低い唸り声だけを漏らし続けている。
「殺してやる……」
「返せ……」
「殺してやる……ッ!!」
その瞳には、もう私の姿さえ映っていないように思えた。
シルフィの身体が、地を蹴った。一歩、二歩と踏み込み、三歩目にはもう地面がない。それでも彼女は落下しなかった。
パン、と空気が弾ける乾いた音が響いたかと思うと、圧縮された空気そのものを新たな足場へ変え、宙で一瞬だけ静止し、直角に方向を転じ、そのままさらに空気を蹴って加速していく。
夕焼けに染まった空を、銀色の髪が一本の刃のように縫っていった。本来なら重力に従って落ちるはずの高度で、彼女は何度も宙を踏み抜き続けている。
上へ跳んだかと思えば横へ流れ、次の瞬間には斜め下から音もなく迫ってくる。速いという言葉だけでは、到底説明のつかない何かがそこにあった。
「……追えない」
思わず零れた呟きは、自分でも驚くほど掠れていた。速度の問題ではない。軌道そのものに、もはや法則性という概念が存在していないかのように、予測の一切を裏切り続けている。
シルフィの狙いは明らかにアスカーただ一人だったが、その軌道上に立っていた私も、容赦なく巻き込まれていく。
私はレイピアの柄を強く握り締め、全身へ雷を呼び込んだ。
《ライトニング》
青白い光が肌の下を駆け巡り、神経の隅々まで痺れるような感覚とともに、世界の流れがわずかに緩んで見え始める。
シルフィが空を踏み抜くその瞬間だけ、小さな白い衝撃波が生まれることに、私はようやく気付いた。
――そこだ。
ぎりぎりの間合いで身体を捻ると、風圧だけで頬が浅く裂け、銀色の髪が数本、宙へ舞い散っていく。だが、それで終わりではなかった。
真上から迫ったかと思えば瞬きの間にはもう背後に回り込み、落下したと錯覚させておいて途中で軌道を強引に切り替え、横へ跳ぶ。
まるで重力という法則そのものを、歯牙にもかけていないかのような動きだった。
私はようやく理解する。これは単に速いのではない。軌道が、まったく読めないのだ。
シルフィは岩壁を蹴って宙へ躍り上がり、そこから急停止し、急降下へ転じたかと思えば、その落下すら強引に打ち消して再加速する。
岩場という岩場そのものを、まるで自分だけの舞台であるかのように塗り替えていった。
私は《ライトニング》の力だけを頼りに、かろうじてその動きへ食らいついていく。攻撃を仕掛ける余裕などどこにもない。
ただ避け続け、ただ防ぎ続けるだけの時間が延々と積み重なっていく。レイピアで一撃を受け止めても、その衝撃だけで身体ごと弾き飛ばされ、肩の皮膚が裂け、腕から生温かい血が滴り落ちていった。
「くっ……ぅ!」
一瞬でも雷の力が途切れれば、次の一撃に反応する術さえ残らない。そう分かっていながら、身体強化の反動によって視界の端が少しずつ霞み始めていることにも、私は気付いていた。
腕は重く、足は震え、それでも止まるわけにはいかなかった。
その間、アスカーは一歩たりとも動かなかった。シルフィが何度襲い掛かろうとも、槍斧を構えることさえしない。
必要最小限に半歩だけ身体をずらすことで、その刃を悠々とかわし続けている。まるで、目の前で繰り広げられる暴走のすべてを、ただ静かに観察しているだけのように。
「戦えッ……!」
堪えきれず、私は叫んだ。
「見ているだけなら、加勢するか止めるかしろ……!」
返る言葉はなかった。アスカーは無表情のまま、シルフィだけを見つめ続けている。その静けさこそが、目の前の暴力よりも、何よりも不気味だった。
不意に、岩の上から声が降ってきた。
「――なんか、面白そうなことになってるな」
その一言で、全員の動きが一瞬だけ止まった。崩れた石柱の頂には、いつの間にか一人の男が腰を下ろしていた。
頬杖をつき、退屈そうでありながら、どこか愉快そうにこの惨状を見下ろしている。
アスカーとよく似た輪郭を持ちながら、どこか歪んだ気配を纏う男だった。
私は言葉を失ったまま、その姿を見つめる。しかし、それ以上に激しく反応したのはシルフィだった。彼女の身体が、糸が切れたように硬直する。
アスカーから外れた視線が、まっすぐその男だけへと向けられていく。震えは瞬く間に全身へと広がっていった。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
黒い鎧のシルエット。血に染まった岩場。崩れ落ちていく、見知らぬ誰かたちの姿。伸ばされた一本の手。その先で、笑っている男。
それらの映像は、ほんの瞬きほどの間だけ確かに見えたはずなのに、次の瞬間にはもう何一つ残っていなかった。
「……今のは」
自分自身へ問いかけても、答えは返ってこなかった。
シルフィは頭を抱え込むようにして、その場へ崩れ落ちていく。呼吸は乱れ切り、喉の奥から途切れ途切れの声が漏れ出した。
「違う……」
「違う……」
「お前……」
「お前だけは……ッ」
そして、今までで最も大きな絶叫が、夕闇に沈みつつある岩場全体を震わせた。
「――レイザァァァァァァァァァーーーーーー!!!!」
その叫びと同時に、抑えの利かなくなった魔力が一気に膨れ上がる。砕けた岩の破片が宙へ舞い上がり、風が悲鳴のように鳴り響いた。
私は膝から崩れそうになる身体を、レイピアの切っ先を地に突き立てることで辛うじて支える。
視界の隅、崩れた石柱の上では、レイザーと名指された男だけが、口元をわずかに歪めて笑い続けていた。
まるで、この光景そのものを心から楽しんでいるかのように。
つづく




