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ep.35 心の葛藤(ゲシュクール暦794年)

ep.35 心の葛藤(ゲシュクール暦794年)


その二つは、どうしても一つに結び付かなかった。

けれど、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。

私は静かに息を吐き、乱れかけた思考を無理やり押しとどめた。目の前にいるのが本当に同一人物なのか、答えの出ない問いに構っている暇はない。少なくとも今は。

「......何でもない」

そう言葉を返すと、シルフィはまだ納得のいかない顔をしながらも、それ以上は追及してこなかった。


膝の上から降ろされた猫が、今度は私の足元に擦り寄ってくる。人懐こい仕草だった。警戒しろと言う方が難しいくらいに。

私は小さく息をつき、腹の底に沈めていたはずの感情がわずかに顔を出すのを感じた。

――アミルを壊したのは、この目の前の少女と同じ姿をした者だ。

そう分かっているのに、憎悪をぶつける先が見当たらない。灰色の賢者は確かに敵だった。だが今、私の前で猫を撫でて笑っている少女には、あの日の気配が欠片も残っていない。

苛立ちにも似た感情を無理やり呑み込み、私は表情を変えないまま、内心で息をついた。


岩場の場所は、すでに村長から聞いている。簡単な地図まで描いてもらった。シルフィから何かを聞き出す必要は、もとより無かった。

そう気付くと、彼女に対する苛立ちが、逆に色濃く滲んでくるのを感じた。素性の知れない、それでいて敵意も見せない少女に、これ以上時間を割く理由が見当たらなかった。

「……行く」

短くそれだけ言うと、私は踵を返した。


引き止められる前に、この場を離れるつもりだった。

しかし、数歩も進まないうちに、背後から軽い足音が追いついてくる。

振り返ると、シルフィが当然のような顔で私のすぐ後ろを歩いていた。

「......何をしている」

「ついていくの」

あっさりとした返事だった。断られるとは、微塵も思っていない口ぶりだった。

「頼んだ覚えはない」

「うん、知ってる」

悪びれた様子もなく、シルフィはそう言って小さく笑う。

「でも、一人で丘に座ってても暇だし。あなたの方が面白そうだから」

理由になっていない理由だった。


私は苛立ちを抑えながら、もう一度歩き出す。追い払ったところで、素直に引き下がるとは思えなかった。

肩越しに一瞥すると、シルフィは足元に纏わりついていた猫へ小さく手を振り、名残惜しそうにしながらも、迷いなく私の後を追ってくる。

結局、それ以上は何も言わず、私は森へ足を向けた。

その後ろに、勝手について歩くシルフィの足音が続いた。

夕刻にはまだ間があったが、日はすでに西へ傾き始めていた。


村を抜け、街道から逸れて森へ足を踏み入れる。木々の隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を落としていた。

シルフィは私の少し後ろをついてきていた。距離を詰めようとはしない。私も、詰めさせる気はなかった。

道中、背後から聞こえる足音は、何度も途切れがちだった。

「あ、蝶」

葉の陰から飛び立った黄色い蝶を目で追い、シルフィが足を止める。

私はそのまま歩みを緩めず、距離を空けたまま先へ進んだ。

「......待ってぇ」

慌てた声とともに、駆け足に近い足音が追いついてくる。振り返らずとも、その気配だけで十分だった。


しばらく進むと、今度は道端に咲いた小さな白い花に気付いたのか、しゃがみ込んでそっと指で触れていた。私は構わず先へ進む。

「あ、待って」

またすぐに、小走りの足音が追いついてくる。

一つひとつの仕草に、企みも警戒も感じられなかった。まるで、世界を初めて見る子どものような反応だった。

私は歩みを緩めず、あえて距離を空け続けた。いつでも魔法を放てるように、意識だけは張り詰めさせている。それでも、慌ただしく追いついてくる足音を耳にするたび、その緊張の糸がわずかに緩みかけるのを感じた。

「懐かれやすいんだよな、私」

ようやく追いついたシルフィが、息を弾ませながらそう零す。見れば、足元にはいつの間にか村で見た茶猫が一匹、律儀について来ていた。

誇るでも戸惑うでもない、ただの事実を口にしたような響きだった。


私は何も答えず、前へ向き直った。答えようがなかった、というのが正しい。

私の知る灰色の賢者は、こんな風に笑わない。花に見惚れることも、懐いてきた猫に笑いかけることもなかったはずだ。

けれど、後ろをついてくる少女は、間違いなくそのシルフィと同じ顔をしている。

森の奥へ進むにつれ、木々の密度が増し、日差しはさらに弱くなっていった。


シルフィが猫や蝶に気を取られるたび、二人の距離は一度広がり、そのたびに彼女が小走りで追いついてくる。それを繰り返しながら、私たちは奥へと進んだ。

そうして生まれた沈黙の間に、押し込めていた考えがまた頭をもたげてくる。

アミルは、確かにあの日を境に大きく変わってしまった。灰色の賢者と刃を交え、守れなかったものがある。その事実は変わらない。

だが、目の前にいる少女の人格は、あの時の敵とはあまりにもかけ離れている。

罪は、行為にあるのか。それとも、人格にあるのか。

同じ肉体でありながら、記憶も、振る舞いも、まるで別人のように違う。ならば、私が憎むべきなのは誰なのか。かつての行為を為した人格なのか、それとも今、目の前で笑っているこの少女なのか。

賢者として、私は理を尊んできたつもりだった。だが、この問いに理屈だけで答えを出せるとは思えなかった。

もし人格が別人同然だとして、それでも罪は消えないと言えるのか。逆に、行為さえ無ければ、人格がどれほど違っていても許されるのか。


答えの出ない問いを抱えたまま、私はまた一歩を踏み出す。

小走りに追いついたシルフィが、隣から顔を覗き込んでくる。

「大丈夫? なんか、難しい顔してる」

「......何でもない」

同じ言葉を、また返す。

それ以上、彼女は追及してこなかった。ただ、少しだけ心配そうな顔を残して、また少し遅れて歩き出す。

その後ろ姿を見つめながら、私は自分の内側で膨らみ続ける違和感に、まだ名前をつけられずにいた。


やがて木々が途切れ、視界が開けた。

眼前に広がっていたのは、無数の岩が積み重なるようにして連なる岩場だった。灰色の岩肌は夕日を浴びて赤く染まり、風化した表面には確かに、人工的な加工の跡らしきものが見て取れる。

――村長の言葉通りだった。

崩れた石組みが、岩場の一角に半ば土へ埋もれるようにして残っている。柱と思しき石材が幾つか折り重なり、その表面には摩耗した彫刻の痕跡が薄く残っていた。

古い、それも相当に古い遺構だった。


私は歩を早め、石材の一つに手を触れる。表面に刻まれた文様は風化が激しく判別しづらいが、村の古文書で見た紋様と近しい様式であるようにも思えた。

「これは......」

呟いた声に、応える者はいない。

シルフィは少し離れた場所で、崩れた石の隙間を興味深そうに覗き込んでいた。

「昔、誰かが住んでた場所なのかな」

「おそらく、な」

短く答えながらも、私の意識は目の前の遺構に釘付けになっていた。古文書に描かれていた黒騎士――それも二人。その繋がりを裏付けるものが、この場所にあるかもしれない。


そう思った、その時だった。

不意に、シルフィの声が硬くなった。

「……誰か来る」

私は反射的に顔を上げた。

先ほどまでの、あの何処までも柔らかかった声とは違う。低く、押し殺したような響きだった。

「シルフィ」

呼びかけても、返事はない。


シルフィは岩場の奥、夕闇が滲み始めた方角を、瞬きもせずに見つめていた。

その視線の先、崩れた石組みの陰から、ゆっくりと人影が姿を現す。

全身を覆う漆黒の甲冑。夕日を吸い込むように黒く沈んだその姿には、見紛いようがなかった。

――アスカー。


私は咄嗟に杖を構え、意識を戦闘へと切り替えた。

だが、異変はその直後に起きた。

「……あ」

シルフィの喉から、小さく掠れた声が漏れる。

次の瞬間、彼女の表情が凍りついたように強張り、瞳孔が焦点を失ったように揺れた。

「あ......ああああああああっ!!」

耳をつんざく絶叫が、静まり返った岩場に響き渡る。


同時に、シルフィの身体から膨大な魔力が奔流のように吹き出した。

抑えの利かない魔力の渦が、周囲の空気を軋ませ、足元の小石を弾き飛ばす。

「シルフィ!」

叫んでも、届いているとは思えなかった。

彼女の瞳には、もう何も映っていないように見えた。

暴走する魔力の光を浴びながら、私はアスカーへ視線を戻す。

黒騎士は、その光景を眺めるように、ただ静かに佇んでいた。


つづく



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