ep.34 古文書(ゲシュクール暦794年)
ep.34 古文書(ゲシュクール暦794年)
アイラ達と別れて三日。
私は王都から西へ延びる街道を歩いていた。
目的地は、西部辺境のレイブル村。王都から遠く離れた、小さな集落だ。
黒い騎士アスカー。正体や目的にまで触れたものは一つとして見つからない。
だからこそ、わずかな可能性でも確かめる価値があった。
初夏の風が草原を渡り、青々と茂った草が一斉に揺れ、空はどこまでも青く、雲はゆっくりと流れていた。
穏やかな景色だった。
魔物の脅威など忘れてしまいそうなほど静かな時間が続き、街道には旅人の姿もほとんど見当たらない。
やがて石畳は途切れ、踏み固められた土道へ変わる。森を背にするように、小さな村が姿を現した。
十数軒ほどの木造の家が寄り添うように建ち並び、煙突からは昼食の支度を知らせる白い煙が立ち上っている。
決して裕福ではない。それでも庭先には花が咲き、薪は崩れることなく積み上げられていた。
長い年月をかけて守られてきた村なのだろう。
村へ足を踏み入れると、畑帰りらしい老人が私に気付き、鍬を担いだまま足を止めた。
「賢者様ですかな」
「はい。少しお尋ねしたいことがあります」
老人は穏やかな笑みを浮かべる。
「このような村へ賢者様が来られるとは珍しいですな」
「村長さんにお会いしたいのですが、ご在宅でしょうか」
「ああ、それでしたら村の奥にございます。一番大きな家です。今ならいらっしゃると思いますよ」
「ありがとうございます」
一礼して歩き出す。
教えられた屋敷は村の中央から少し外れた場所に建っていた。他の家より一回り大きいとはいえ、華美な造りではない。
長い年月を経た木壁は深い飴色へと変わり、玄関先の庭には季節の草花が丁寧に手入れされている。
私は扉を二度叩いた。ほどなくして扉が開き、小柄な白髪の老人が姿を現す。
「どちら様でしょう」
「突然申し訳ありません。私は賢者のエリシャと申します。少し、お話を伺いたく参りました」
老人は少し驚いたように目を見開いたあと、柔らかく微笑んだ。
「これはご丁寧に。私はこの村の村長を務めております。どうぞ、お入りください」
私は頭を下げ、村長の後に続いて屋敷へ足を踏み入れた。
案内された屋敷の中は、外観以上に長い歳月を感じさせた。
磨き込まれた床板は深い飴色に艶を帯び、壁には古びた地図や絵画が静かに飾られている。豪華さはないが、一つひとつが大切に受け継がれてきたことは、部屋に足を踏み入れた瞬間に伝わってきた。
応接間へ通されると、村長は向かいの椅子を勧めてくる。
「どうぞ、お掛けください」
「失礼します」
腰を下ろすと、村長は温かい茶を差し出してくれた。
湯気とともに、乾燥させた薬草の穏やかな香りが立ちのぼる。
「それで、本日はどのようなご用件でしょう」
「この村に古い文献が残されていると伺いました。黒騎士について調べています。もし関連する記録があれば、拝見させていただけないでしょうか」
「なるほど……そのお話でしたか」
静かに目を閉じ、何かを思い返すように息をつく。
「確かに、この家には代々受け継がれてきた古文書がございます。しかし、残念ながら内容を読める者は、もう誰もおりません」
「古代文字ですか」
「ええ。私の祖父も、そのまた祖父も、守ることだけを言い伝えられてきたそうです。読めなくとも失ってはならないものだと」
そう言って村長は立ち上がった。
「よろしければ、ご覧になりますか」
「お願いします」
私は椅子を立ち、村長の後に続いた。
廊下の奥へ進むにつれ、人の気配は遠ざかっていく。突き当たりには、一枚の重厚な木の扉があった。
村長は腰に提げていた鍵束から一本を選び、静かに錠を外す。鈍い音を立てて扉が開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
部屋の中は薄暗く、外の陽射しが嘘のように静まり返っていた。
窓は小さく、差し込む光だけでは部屋の隅まで届かない。壁一面に並ぶ本棚には革張りの書物や木箱に収められた巻物が隙間なく並び、長い年月を経た紙と木材の匂いが静かに漂っている。
「こちらが、この村で受け継いできた文献です」
村長が本棚へ視線を向ける。
「戦や火災にも遭いましたが、その度に先祖が運び出し、今日まで守ってきました」
私は思わず本棚を見渡した。王都の図書館でさえ、戦乱によって失われた文献は数知れない。
それを思えば、これほどまとまった資料が一つの村に残されていること自体が奇跡だった。
「触れても構いませんか」
「もちろんです。どうぞご自由に」
礼を述べ、本棚へ歩み寄る。
背表紙には見慣れない古代文字が刻まれていた。
賢者学院で古代文字は学んだが、判読できるのは比較的新しい時代のものだけだ。目の前に並ぶ文字は、それよりさらに古い様式らしく、題名すら読み取れない。
読める文字を探そうと目で追うものの、辛うじて年代らしき数字を拾える程度で、文章として理解できる箇所は一つもない。
静かな部屋に、頁をめくる音だけが規則正しく響いていた。
その時だった。棚の最上段に、一冊だけ一回り大きな書物が収められていることに気付く。
革張りの表紙はひび割れ、中央には二人の騎士が型押しされていた。
私は慎重に書物を取り出し、近くの机へそっと置いた。
ゆっくりと表紙を開く。乾いた紙が擦れ合う音が、静まり返った保管庫に小さく響く。
頁をめくるたびに現れるのは、見慣れない古代文字と色褪せた挿絵だった。賢者学院で学んだ古代文字よりさらに古い様式らしく、辛うじて数字らしきものが判別できる程度で、文章の意味を読み取ることはできない。
それでも、戦場で刃を交える兵士や堅牢な城壁、空を舞う巨大な魔物を描いた挿絵の数々は、この文献が遠い昔の出来事を記録したものであることだけは雄弁に物語っていた。
私は無言のまま頁を繰り続ける。何か手掛かりはないかと目を凝らしていた、その時だった。
一枚の挿絵を前にして、指先がぴたりと止まる。
見開きいっぱいに描かれていたのは、互いに武器を構えて対峙する二人の騎士だった。全身を覆う漆黒の甲冑は光を拒むように黒く沈み、その異様な姿には見覚えがある。
私が追い続けてきた、黒騎士だった。だが、視線を中央へ移した瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
二人の間だけが、不自然に失われていたのだ。
紙は経年劣化で破れたようには見えない。刃物で切り抜いたかのように中央だけが正確に欠けており、そこへ描かれていたはずの何者かだけが、意図的にこの文献から消されていた。
私は破れた紙の縁へそっと指を這わせた。
切り口は古く、誰かが最近手を加えたものではない。それでも、この一頁だけが語るべき何かを奪われてしまったことだけは、はっきりと伝わってくる。
「……ここには、何が描かれていたんだ」
独り言のように漏らした声に応える者はいなかった。
代わりに、少し離れた場所で見守っていた村長が、思い出したように口を開く。
「その本でしたら、数日前にも若い女性が熱心にご覧になっていましたな」
私は顔を上げた。
シルフィが——ここへきたのか——?
「同じようにその挿絵を眺めておられました。あまりにも真剣だったんで挿絵の舞台になったとされる森の奥にある岩場の話をしたんです」
「岩場?」
「そうです。そしたら、そこに行ってみたいって……」
「その場所は?ここから近いんですか?」
「えぇ。数時間ですよ」
私は村長から岩場への簡易的な地図を書いてもらった。
私はもう一度、破り取られた挿絵へ目を落とし、革張りの表紙をひと撫でして元の場所へ戻した。
失われた挿絵が何を意味するのかは結局分からなかったが、二人の黒騎士が描かれていたという事実だけでも、この文献が私の追い求める存在と無関係ではないことは確かだった。
中央だけが意図的に切り取られていた理由も、数日前にここを訪れたという若い女性が何を見つけたのかも、今は推し量ることしかできない。
それでも、この村まで足を運んだことは決して無駄ではなかったと思えた。
次にとる行動は決まった。
私は挿絵の舞台となったとされる岩場へ行ってみることにした。
「ありがとうございました。貴重なものを見せていただきました」
私が頭を下げると、村長は穏やかに目を細めた。
「お役に立てたのなら何よりです。この古文書も、ようやく日の目を見たと先祖が喜んでおりますよ」
その言葉に思わず小さく笑みを返し、私は村長へ改めて礼を述べて屋敷を後にした。
外へ出ると、日は西へ傾き始め、村を包む空気もどこか柔らかさを帯びていた。家々からは夕餉の支度を知らせる香りが漂い、遊び疲れた子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
私は街道へ戻ろうと歩き出したが、不意に足元を駆け抜けた一匹の茶猫へ目を奪われた。
その後を追うように白猫や黒猫が次々と細い路地へ消えていき、まるで決まった帰り道でもあるかのように村外れの丘を目指していく。
何気なくその先へ視線を向けると、小高い丘には村を見守るように一本の大樹が枝葉を広げ、その木陰に誰かが腰を下ろしているのが見えた。
風に揺れた灰色のローブが木漏れ日の中へ溶け込むように揺れた瞬間、胸の奥に小さな違和感が走り、私は無意識のうちにその人影へ足を向けていた。
太い根へ背を預けるように座るその姿は、どこにでもいる旅人と変わらない。膝の上では白い猫が心地良さそうに目を閉じ、少女は柔らかな手つきでその背を撫でている。
その横顔を目にした瞬間、私は思わず足を止めた。
見間違えるはずがない。
首切りとの戦いで刃を交え、アミルの運命を大きく変えた灰色の賢者――シルフィだった。
少女は私に気付いていないのか、それとも気付いた上で意に介していないのか、膝の上で丸くなった猫の背を変わらぬ手つきで撫で続けていた。
枝葉を揺らした風が黒髪をそっとさらい、木漏れ日がその横顔を淡く照らす。その穏やかな佇まいは、私が知る灰色の賢者とはあまりにもかけ離れており、幾度も死地を潜り抜けてきた人物だとは到底思えなかった。
私は歩幅を変えないまま距離を縮める。相手が敵意を見せていないからといって警戒を解く理由にはならない。
いつでも魔法を放てるよう意識だけは研ぎ澄ませながら大樹の木陰へ踏み入ると、一匹の猫が私へ気付いて小さく鳴き、その声につられるように少女がゆっくりと顔を上げた。
青灰色の瞳が私を映し、一瞬だけ不思議そうに瞬きをする。しかし、その表情はすぐに柔らかな笑みへ変わり、まるで偶然街で知り合いと出会ったかのような気軽さで口を開く。
「この前の人」
その声には驚きも警戒もなかった。
むしろ、私が張り詰めている理由が分からないとでも言いたげな、あまりにも自然な笑顔だった。
その笑顔を向けられても、私の足はそれ以上近付こうとはしなかった。
視界に映る姿と私の知る灰色の賢者とが噛み合わず、その食い違いだけが胸の内で静かに膨らんでいく。
一方のシルフィは、そんな私の様子を気にするでもなく、膝の上の猫をそっと地面へ降ろした。
猫は名残惜しそうに一度だけ身体を擦り寄せると、すぐ近くの木の根元で丸くなる。その姿を見届けたシルフィは、ようやく私へ向き直り、小さく首を傾げた。
「……どうしたの?」
問い掛ける声はどこまでも穏やかで、敵意どころか警戒の色さえ滲んでいない。
私はしばらく返事をしなかった。
相手の表情を崩さないように視線を向けたまま、呼吸だけを静かに整える。この距離は決して油断していい間合いではない。
けれど、彼女は私の緊張とは裏腹に、不思議そうな顔をするばかりだった。
「……一つ聞く」
そう切り出すと、シルフィは素直に頷く。
「うん」
「お前、この村へ何をしに来た」
その質問に、シルフィは一度だけ瞬きをすると、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「何をしに……って?」
まるで質問の意味そのものが分からない、と言いたげな反応だった。
私はシルフィの表情から目を離さなかった。戸惑っているようには見える。
だが、それは問い詰められた者の動揺ではなく、こちらの質問そのものを理解できていない者の反応だった。
「この村へ来た理由だ」
言葉を重ねると、シルフィは少しだけ考え込むように視線を宙へ向け、やがて思い出したように笑った。
「なんとなくかな」
拍子抜けするほど、あっさりとした返事だった。
「今日は天気が良かったから、なんとなくかな」
そう言って肩をすくめると、足元で寝転んでいた茶色い猫が「にゃあ」と鳴き、シルフィの足へ身体を擦り寄せる。彼女は話を続けながら自然な仕草で猫を抱き上げ、その喉元を優しく撫で始めた。
「この子たち、人を怖がらないんだよ。少し遊んでたら、どんどん集まってきちゃって」
その笑顔には作為が見えない。私はしばらく黙ったまま彼女を見つめ、それから一歩だけ踏み込んだ。
「村長の家には行ったか」
その一言で、シルフィの手が止まる。もっとも、それは動揺したからではなく、質問の意味を考えたからだとすぐに分かった。
「村長さん?」
「この村の村長だ」
「ああ……」
小さく頷いたあと、シルフィは首を横へ振る。
「会ってないよ」
返事は迷いなく、それでいて何かを隠しているようにも聞こえなかった。
「この村に来たのも今日が初か?」
「うん、初めて」
即座に返ってきた答えを聞きながらも、私は視線を逸らさない。
村長は数日前、灰色のローブを羽織った旅の娘が古文書を調べに来たと言っていた。
もし目の前のシルフィがその人物なら、どちらかが嘘をついていることになる。
だが、少なくとも私の目には、シルフィが嘘をついているようには見えなかった。
むしろ彼女は、不思議そうに私を見返しながら、小さく首を傾げる。
「……私、何かした?」
私は答えを返せないまま、ただ目の前の少女を見つめていた。
私の知るシルフィと、目の前の少女。
その二つは、どうしても一つに結び付かなかった。
つづく




