ep.33 再会(ゲシュクール暦794年)
ep.33 再会(ゲシュクール暦794年)
首切りもまた、新たに現れた灰色のローブから視線を逸らそうとはしなかった。
先ほどまで私へ向けられていた殺意は跡形もなく消え、その細く裂けた瞳には目の前へ立つ賢者だけが映っている。
燃え落ちる家屋から吹き上がる熱気が景色を揺らし、風に乗った灰が二人の間をゆっくりと流れていく。
それでも互いに構えを崩す気配はなく、炎が爆ぜる音だけが静まり返った広場へ乾いたように響いていた。
やがてシルフィが静かに口を開く。
「黒騎士」
感情のない声だった。
「どこ」
首切りは答えない。
細長い身体が僅かに沈み、ショートソードを握る手へ静かに力が込められる。
その様子を見ても灰色のローブは動かず、返事を待つように立ち尽くしていた。
長い沈黙が流れる。
その均衡を破ったのは首切りだった。
地を滑るように踏み込むと、ショートソードが一直線にシルフィへ走る。
しかし刃が届く寸前、シルフィの姿がふっと掻き消えた。
違う。見失っただけだ。
私がそう気付いた時には、その姿は首切りの頭上にあった。
何もない空中へ足を掛けるように身体を止め、そのままもう一度踏み込む。
落ちるはずの身体が空を蹴り、あり得ない角度から首切りの背後へ降り立った。
黒炎の剣が閃く。
首切りは咄嗟に振り向いたものの間に合わず、肩口から黒い血が大きく飛び散った。
それでも体勢を崩すことなく距離を取り、傷口へ目を向けることもなくショートソードを構え直す。
シルフィは追わない。
首切りを見据えたまま、もう一度だけ口を開く。
「黒騎士」
「どこ」
返事はない。首切りはゆっくりと息を吐くと、その場から一歩も退かずシルフィを睨み返した。
シルフィは僅かに視線を落とす。次の瞬間、その姿は再び宙へ躍り出た。
今度は首切りも迎え撃つ。
ショートソードが風を裂き、鋭い斬撃が空中を薙ぐ。
しかしシルフィは落下するどころか空中でもう一度踏み込み、軌道を変えながら首切りの横をすり抜けると、黒炎の剣が脇腹を鋭く切り裂いた。
首切りの身体がぐらりと揺れる。それでも膝はつかない。
黒い血を滴らせながらなお剣を構え続ける姿を、シルフィはしばらく黙って見つめていた。
「黒騎士」
三度目の問い掛けにも返ってきたのは沈黙だけだった。
シルフィは首切りを見据えたまま数秒動かなかったが、やがて黒炎の剣を静かに消すと、小さく一言だけ呟く。
「……無駄か」
その声には落胆も怒りもない。ただ、この相手から得られるものは何もないと判断しただけだった。
シルフィは踵を返し、燃え続ける家々の間を一定の歩幅で歩き始める。
「待って!」
思わず声が漏れた。ようやく見つけた手掛かりだった。
ここで見失えば、また探し直しになる。
それでもシルフィは一度も振り返ることなく黒煙の向こうへ姿を消し、その背中が見えなくなる頃には、広場へ残されたのは私と首切りだけだった。
追わなければ。その思いは胸を掠めたものの、私の足は動かなかった。
ローガンさんとアイラは、まだ見つかっていない。
探さなければならない。今もどこかで助けを待っているかもしれない。
私はレイピアを握り直し、一歩踏み出そうとする。
その瞬間、正面から殺気が走った。反射的に身体を捻る。
銀色の刃が頬を掠め、数本の髪が宙を舞った。
首切りは肩と脇腹から黒い血を流しながらも、まるで傷など存在しないかのように静かにショートソードを構え、細く裂けた瞳で私だけを見据えている。
まだ終わっていない。この魔族は退く気がない。
探したい。一刻でも早く二人を見つけたい。
けれど、このまま背を向ければ追いつかれる。
その頃には、ローガンさん達まで巻き込んでしまう。
なら、やることは一つしかない。
私はレイピアを静かに構えた。
「すぐ終わらせる」
その呟きが聞こえたのかどうかは分からない。
首切りは細長い身体をゆっくりと沈めると、一瞬の溜めだけを残して地を蹴った。
私は迎え撃つように前へ踏み込む。
二本の剣が真正面からぶつかり合い、乾いた金属音が燃え盛る村へ鋭く響き渡った。
首切りは真正面から押し切ろうとはしなかった。
刃がぶつかった瞬間には力を逃がし、そのまま身体を滑らせるように私の横へ回り込む。
喉元へ迫る斬撃を紙一重でかわしながら、私は首切りを追うのではなく、流れる刃だけを見続けた。
切っ先が僅かに沈む。次に来る。そう感じた瞬間、私は半歩だけ後ろへ退いた。
ほぼ同時に首切りの刃が目の前を掠め、空を切った勢いで身体がわずかに流れる。
その隙を逃さず、私はレイピアを突き出した。
首切りの脇腹を浅く裂き、黒い血が飛び散る。
首切りはすぐに距離を取り直したものの、先ほどまでのように一方的に攻め込んではこない。
細く裂けた瞳は私を見据えたまま、じりじりと間合いを測り直していた。
押されている。そう感じたのかもしれない。私は息を整えながら剣先を下げない。
ローガンさん達を探したい。その焦りは消えない。
だからこそ、この戦いを長引かせるわけにはいかなかった。
首切りが再び動く。今度は迷いのない一直線の踏み込みだった。
私は迎え撃たず、一歩だけ横へ開く。振り抜かれたショートソードが空を切り、その勢いで首切りの身体が僅かに前へ流れた。
その瞬間だった。私は踏み込み、レイピアを真っ直ぐ突き出した。
首切りは咄嗟に身を捻った。心臓を外れ、肩口を深く貫いて背後へ抜ける。
黒い血が噴き出す。それでも首切りは怯まない。
苦痛を押し殺したまま身体を預けるように間合いへ飛び込み、ショートソードを力任せに振り下ろした。
私はその一撃を受け止めず、刃を滑らせるように受け流す。勢いを失ったショートソードが石畳を叩き、鈍い音が響いた。
体勢が崩れる。その一瞬だけで十分だった。私は踏み込み、柄で首切りの胸を強く打つ。
細長い身体が大きく仰け反る。逃がさない。
返す動きでレイピアを振り抜くと、銀色の軌跡が首切りの腋に鋭く走った。
首切りは数歩よろめく。
それでも倒れない。細く裂けた瞳だけは最後まで私を見据え、震える腕でなおショートソードを持ち上げようとしていた。
私は静かに息を吸う。これ以上長引かせれば、その間にもローガンさん達を探す時間が失われる。
迷いはなかった。首切りが最後の一歩を踏み出した瞬間、私も同時に地を蹴る。
交差する一瞬。
レイピアは首切りの喉を正確に貫き、その勢いのまま背後まで突き抜けた。
細長い身体から力が抜ける。
ショートソードが乾いた音を立てて石畳へ転がり、首切りはゆっくりと膝をつくと、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
私は倒れた魔族を見つめる暇もなくレイピアを振って血を払うと、踵を返して駆け出す。
「ローガンさん!」
「アイラ!」
炎と黒煙の中へ声を張り上げながら、私は焼け落ちた家々の間を必死に走り続けた。
燃え落ちた家々の間を駆け抜けながら、私は片端から人影を探した。
瓦礫を退かし、倒れている村人の顔を確かめ、負傷者を見つければ傷だけは塞いで次へ向かう。
違う。この人でもない。胸の鼓動だけが速くなる。
焦るな。焦れば見落とす。
そう自分へ言い聞かせながらも、視線は無意識に少女の姿ばかりを追っていた。
二人を探さなければならない。焼け跡を抜け、村外れまで走る。
そこにもいない。嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。
その時だった。
不意に胸の奥で何かが引っ掛かった。
違う。視界じゃない。
もっと曖昧な感覚。
説明できないのに、身体だけが「あっちだ」と告げている。
私は迷わず右へ曲がった。焼け落ちた納屋を回り込み、崩れた石垣を飛び越える。
違和感は消えない。むしろ近付いている。
――その角を右だ。
不意に脳裏へ、聞き慣れた声が蘇る。
サルトル。
理屈じゃない。
冒険者の勘。
私はその感覚へ身を任せる。細い路地へ飛び込むと、焼け落ちた家屋の陰で倒れた荷馬車が目に入った。
その下から、小さな手が覗いている。
「アイラ!」
私は夢中で瓦礫へ駆け寄った。
焼け落ちた荷馬車へ駆け寄った私の視界へ飛び込んできたのは、崩れた梁から娘を庇うように覆い被さったローガンの姿だった。
力尽きたように項垂れた身体は微動だにせず、その腕の中へ抱き込まれたアイラもまた、父親へ身を預けたまま静かに目を閉じている。
胸の奥が強く締めつけられた。
私は夢中で焼け焦げた梁へ両手を掛けると、全身の力を振り絞って持ち上げ、そのまま脇へ投げ捨てる。
崩れた木材が鈍い音を立てて転がる中、急いで二人の傍へ膝をついた。
「ローガンさん……!」
肩へ手を掛けて何度呼び掛けても返事はなく、ゆっくりと身体を起こしても力なく腕が揺れるだけだった。
その胸へ抱き寄せられたままのアイラもぴくりとも動かず、小さな顔は煤で汚れ、まるで眠っているように静かだった。
そんなはずはない。さっきまで笑っていた。
町で別れた時、「またね」と笑いながら手を振ってくれたばかりじゃないか。
震える指先でアイラの頬へ触れた瞬間、胸の奥へ押し込めていた恐怖が堰を切ったように溢れ出す。
遅かった。
また助けられなかった。
フィアの最期が脳裏をよぎる。
守りたいと願った人達は、いつも私の手が届く前にいなくなってしまう。
「……ごめん」
掠れた声と一緒に零れ落ちた涙が、アイラの頬へ小さく落ちた。
その一滴が頬を伝った瞬間、閉じられていた瞼がかすかに震え、小さな唇がゆっくりと動く。
「……エリシャさん?」
聞き間違いかと思った。
信じられず息を呑む私の前で、アイラは眠たそうに目を擦りながらゆっくりと顔を上げ、その拍子に覆い被さっていたローガンも苦しそうに咳き込み、大きく息を吸い込む。
「……っ、げほっ……!」
その咳払いだけで十分だった。
二人とも、生きている。
その当たり前の事実を理解した途端、張り詰めていた心が一気にほどけ、堪えていた涙が止めどなく頬を伝っていく。
「どうして泣いてるの?」
不思議そうに首を傾げるアイラへ、私は何度も口を開こうとして、それでも言葉にならなかった。
「……間に合ったから」
ようやく絞り出せた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「助けられたから」
その一言を口にした瞬間、もう涙を堪えることはできず、私はアイラを強く抱き締めた。
もう二度と失いたくない。
その温もりを確かめるように何度も抱き寄せながら、私は子どものように声を上げて泣き続けた。
私は何度も涙を拭いながら、ようやくアイラを離した。
村へ駆けつけた兵士達が二人を引き受け、私はローガンの傷だけを簡単に治療する。
命に別状はないと分かった途端、張り詰めていた空気が少しだけ緩み、村人達もようやく安堵の息を漏らした。
その夜は村で休息を取り、焼け落ちた家々の後始末が一段落した翌朝、私はローガン親子と共に村を後にする。
「本当に送ってくれるの?」
アイラが私を見上げる。
「最後まで送り届けたいから」
そう答えると、アイラは嬉しそうに笑い、ローガンは困ったように頭を下げた。
「……迷惑を掛ける」
「気にしないでください」
私は短く笑い返し、三人で街道を歩き始めた。
西から吹く風は穏やかで、数日前まで命を奪い合っていた場所とは思えないほど静かだった。
————数日後————
街道の先に、小さな村が姿を現した。
「あそこだ」
ローガンが静かに呟く。
アイラは待ちきれないように一歩前へ出ると、懐かしい景色を見つめて頬を緩めた。
「帰ってきた……」
村へ足を踏み入れると、一人の女性が家の前で洗濯物を取り込んでいた。
その姿を見つけたアイラが目を大きく見開く。
「お母さん!」
弾かれたように駆け出した小さな背中へ、女性はゆっくりと顔を上げた。
最初は何が起きたのか理解できないように立ち尽くしていたものの、駆け寄ってくる娘の姿を認めた瞬間、抱えていた籠を取り落とし、そのまま夢中で走り出す。
「アイラ!」
女性は何度も娘の肩や頬へ触れ、本当にそこにいるのか確かめるように顔を見つめると、堪えていた涙が一気に溢れ出した。
少し遅れて辿り着いたローガンも、その隣へ静かに膝をつく。
「……ただいま」
震える声だった。
女性は何も答えられず、ただ二人を強く抱き締めながら、堰を切ったように涙を流し続ける。
私は少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。
助けられた。
その一言だけが胸の中で何度も繰り返される。
もう、ここに私のいる理由はない。
私は三人へ背を向けると、誰にも気付かれないよう静かに歩き出した。
「エリシャさん!」
聞き慣れた声に足が止まる。
振り返ると、アイラが息を切らせながらこちらへ走ってきていた。
「帰っちゃうの?」
私は小さく頷く。
「うん。また旅に出る」
アイラは少しだけ寂しそうな顔をしたあと、いつものように笑った。
「また会えるよね?」
「もちろん」
「約束だよ?」
「うん、約束」
アイラは嬉しそうに何度も頷くと、大きく手を振った。
「またね! エリシャさん!」
私も手を振り返す。
「またね、アイラ」
その笑顔を胸へ刻みながら、私は再び街道へ足を向けた。
背中では、まだアイラの「またね!」という声が聞こえている。
一度だけ振り返り、小さく手を振る。
初夏の風がローブを揺らす。
それでも自然と口元が緩んだ。
私は再び、西への街道を歩き始めた。
つづく
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