ep.40 二度目の約束(ゲシュクール暦794年)
ep.40 二度目の約束(ゲシュクール暦794年)
シルフィが崩れ落ちてから、どれほどの時間が経っただろう。夕闇に沈んだ岩場には、彼女が最後に上げた絶叫の残響だけがまだ空気にこびりついていて、それ以外のあらゆる音が消え失せていた。
私は動けなかった。レイピアを握る手も、震えたまま前へ出ることを拒んでいる。アスカーは相変わらず槍斧を担いだまま、彫像のように立ち尽くしている。
止めなければ、と思う端から、その考えそのものが恐怖に押し潰されていく。
シルフィの背が、弓なりに大きく跳ねる。四肢が痙攣し、喉を掻きむしるように両手で押さえながら、獣じみた呻き声を漏らし始めた。
鼻から一筋の血が流れ落ち、耳からも赤い滴がこぼれていく。頭を抱え込み、声にならない悲鳴を繰り返すその姿を見ながら、私はレイザーが何をしたのか、正確には理解できなかった。
ただ、彼女の中で何か途方もないものが、無理やり注ぎ込まれているのだということだけは、痛いほど伝わってきた。
「あ……あああああああああっ!!」
シルフィの絶叫が、岩場全体を震わせた。悲鳴というより、獣の断末魔に近かった。私は思わず後ずさった。
震えが、ふっと止んだ。
シルフィは、ゆっくりと立ち上がった。俯いたまま、肩を小刻みに揺らしている。それが笑いなのか、嗚咽なのか、私には判断がつかなかった。
「……ガレス」
掠れた声が、最初にその名を紡いだ。
「キース。ユリウス」
一人ずつ、確かめるように名前を呼んでいく。まるで、失われたものが本当に戻ってきたのかを、自分の声で検証するように。
「リリア……」
その名前を口にした瞬間、シルフィの肩がびくりと跳ね、次の瞬間には顔を上げていた。
「ぐ、う、あああああああっ!!」
両手で頭を掻きむしり、獣のような叫び声を上げる。それは怒りなのか、後悔なのか、あるいはその両方が渾然一体となった、言葉にすらならない感情の奔流だった。
「お前、お前、お前ぇぇぇっ!」
シルフィは顔を上げ、レイザーを睨みつけた。その瞳は血走り、これまで見たどんな戦意とも違う、狂気に近い憎悪だけが渦巻いていた。
「よくも……よくも、仲間たちを……!」
「玩具だと? 誰が、誰があんたの玩具だ!」
「ガレス……!」
「なんで笑ってるんだよ、キース!」
「ユリウス、まだ調べたいことがあるって……!」
「リリアァァァ!!」
叫びながら、シルフィの拳が地面を打つ。石が砕け、指の皮が裂けても、彼女は止まらなかった。
「返して……返してよ!」
「お前が、お前が全部奪ったんだ……!」
「絶対に、絶対に許さない……!」
その慟哭を、レイザーは腕を組んだまま、興味深そうに見下ろしていた。
「へえ」
「思ったより、感情的なんだな」
まるで実験結果を観察するような、冷たい声だった。
「なら、見せろよ」
「お前が八年かけて、どれだけ強くなったのか」
シルフィが震える手を掲げた瞬間、周囲の空気そのものが軋むように歪んだ。
一つ、二つ――数えることすら追いつかない速さで、幾つもの黒い魔法陣が虚空に展開されていく。十を超え、二十を超え、それでも止まらない。
展開された陣の一つ一つから、黒炎を纏った剣が音もなく引き抜かれるように現れていった。
無数の黒炎の剣が、まるでそれぞれに意思を持っているかのように、宙で獲物を定めるようにゆらりと揺れる。
次の瞬間、それらは示し合わせたわけでもないのに、四方八方からレイザーへ一斉に襲いかかった。
「死ねぇぇぇっ!」
シルフィの絶叫と共に、刃と刃が空気を裂く音が絶え間なく連なって響く。
上から、横から、死角から。まるで生きた群れが獲物を仕留めようとするような、統率された猛攻だった。
レイザーは、その全てを一人で捌いていた。剣を幾重にも返しながら、時に身を捻り、時に半歩だけ引く。
だが次々と押し寄せる刃を防ぎ続けるうちに、その防御の姿勢は、まるで自分を守るための円陣を組んでいるかのように変わっていった。
「くく……」
刃の隙間から、笑い声が漏れる。
「いいねぇ。すごくいい」
「その怒り、その憎しみ。それでこそ、俺が育てた狂犬だ」
「うるさい……うるさい!うるさい!うるさい!」
シルフィ自身の姿は、その黒炎の剣の群れに紛れるように景色から掻き消えていた。
彼女は空気を蹴るごとに軌道を変え、上へ、横へ、斜めへと縦横無尽に駆け抜けながら、隙を見つけては黒炎の剣そのものへ刃を重ね合わせ、威力を底上げした一撃を叩き込んでいく。
私はその光景を、ただ立ち尽くして見ていた。
(このまま、見ているだけでいいのか)
問いかけても、答えは出なかった。
飛び交う黒炎と、絶叫と、憎悪だけがぶつかり合う戦場に、自分の入り込む隙間があるとは思えなかった。
そう思ったのは、一瞬だった。次の瞬間、レイザーの剣先がシルフィの死角から迫るのが見えた。
彼女は気付いていない。憎しみに支配された視界は、目の前のレイザーしか映していない。
(だめだ)
(一人で戦わせちゃいけない)
迷っている暇はなかった。私はレイピアを握り直し、雷を呼び込んだ。
《ライトニング》
青白い光が全身を駆け巡る。私は地を蹴り、シルフィへ迫ろうとしていた刃の軌道へ、横合いから割り込んだ。
「邪魔だ」
レイザーが初めて、忌々しげにそう吐き捨てた。
シルフィの猛攻は止まらなかった。
黒炎の剣が円を描くように飛び回り、逃げ場を塗り潰していく。
私はその隙間を縫うように動き、レイザーの意識が僅かでもシルフィから逸れた瞬間を狙って斬りつけた。
――浅い。だが、確かに届いている。
肩口に、赤い線が走る。頬に、一筋の傷が刻まれる。腕にも、薄く裂けた痕が残っていく。
何十合と交わされた斬撃の中で、レイザーの余裕は、確実に、けれど僅かずつ削られていった。
「はは……はははっ!」
レイザーは笑っていた。傷を負うたびに、むしろその笑い声は大きくなっていく。
「いいぞ、いいぞ! もっと来い!」
言葉とは裏腹にレイザーは僅かながらも一歩、また一歩と後退し、先ほどまでの余裕な表情は見えなくなっている。
(勝てる)
私はそう思った。
(今度こそ、終わらせられる)
だが、その確信こそが、致命的な隙になった。
シルフィは、決着を急いだ。着実に削っていけばいい。
それなのに彼女は、その一瞬をどうしても待てなかった。
「リリアッ! 今、仇を!みんなの仇を!」
「もう、終わりにする……ッ!」
咆哮とともに、シルフィが大きく踏み込む。周囲を舞っていた黒炎の剣の全てが、それに呼応するように一斉にレイザーへ殺到した。
――レイザーは、それを待っていた。
紙一重で全ての剣をかわし切ると、逆手に持ち替えた自分の剣が、踏み込んできたシルフィの腹部へ、深々と沈み込んだ。
「ぐっ……」
「シルフィ!」
私は叫んだ。
黒炎が明滅するように激しく揺らぎ、宙に浮かんでいた無数の魔法陣が、糸が切れるように一枚、また一枚と消えていく。
シルフィは膝から崩れ落ち、地面へ倒れ込んだ。ぴくりとも動かない。
レイザーは追撃をしなかった。血の付いた剣を軽く一振りすると、興味を失ったようにシルフィから視線を外し、代わりに私だけを見据える。
「さて」
「次はお前だな」
一人になった瞬間、これまでとは比較にならない恐怖が押し寄せてきた。
(勝てない)
分かっていたはずなのに、実際にその視線を向けられると、足の裏から震えが這い上がってくる。
シルフィでさえ届かなかった相手に、私一人でどうしろというのか。
レイザーが、ゆっくりと距離を詰めてくる。私は反射的にレイピアを構えたが、次の瞬間には身体が宙を舞っていた。
受け身も取れないまま地面を転がり、肩から鮮血が噴き出す。
「あ……ぐっ……!」
立ち上がる。また吹き飛ばされる。脚を斬られ、感覚が薄れていく。口の中に鉄の味が広がった。
(このままじゃ、死ぬ)
倒れたまま動かないシルフィと、傷だらけの自分。周りには誰もいない。助けなど、来るはずがない。
そう思いながらも、震える手でもう一度剣を握り直した。立てなくても、立たなければならない。それだけが、今の私にできる唯一のことだった。
「そろそろ、飽きてきたな」
レイザーの剣が、最後の一撃とばかりに大きく振り上げられる。
その刹那。
轟音とともに、巨大な氷の壁がその剣を受け止めた。
私は目を見開いた。何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
ただ、周囲の気温が急激に下がり、張り詰めた空気の中に、覚えのある冷たい魔力の気配が広がっていることだけは分かった。
「――少し遅れたみたいだけど、まだ大丈夫そうね」
静かな声だった。振り返る前に、その声だけで分かった。五年という歳月を経ても、その落ち着き払った響きは、少しも変わっていない。
「ノエル……!」
黒髪を揺らし、氷の壁の陰から歩み出た彼女は、私の姿を一瞥すると、すぐに戦場全体へ視線を走らせた。
倒れたシルフィ。傷だらけの私。そして、余裕を崩さないレイザー。それだけを見て、彼女はすでに何もかもを理解したような顔をしていた。
「エリシャ」
「黙って聞いて」
有無を言わせない声だった。私は反射的に頷く。
「今の私達じゃ、アイツには勝てない」
淡々とした声だった。だが、その言葉の一つ一つには、迷いも誇張もなかった。事実だけを、冷静に告げている声だった。
「だから、禁呪を使う」
その言葉と同時に8年前、王立図書館の出来事が脳裏をよぎった。
ノエルが咄嗟に隠した本のタイトル。
『禁』
(だから姿を消したんだ・・・)
「ずっと追っていたんだね。禁呪を」
「その話は後で説明する。だから今は詠唱の時間を稼いで」
ノエルはそう言うと、返事を待たずに足元へ巨大な魔法陣を描き始めた。
幾重にも重なる幾何学模様が、複雑な文字列とともに地面へ広がっていく。
私が理解できるのは、その紋様のごく一部だけだった。
レイザーは、その光景を興味深そうに見つめている。
刻まれていく術式の意味を読み取るように目を細め、やがて口の端を吊り上げた。
「ほぉ」
「空間系の禁呪か……」
その声には、これまでの退屈しのぎとは違う、純粋な興味の色があった。
「これは、面白そうだ」
「普通の魔法の何十倍も時間がかかる」
ノエルは詠唱の合間に、短くそれだけを告げた。
私は迷わなかった。ここで退けば、彼女の禁呪が完成する前に、全てが終わる。
「分かった」
震える脚に力を込め、私はもう一度立ち上がった。
レイザーが、一歩、また一歩と近付いてくる。その度に私は弾き飛ばされた。
肩が斬られる。脚が斬られる。血が止めどなく流れ落ち、視界が霞んでいく。
それでも、立ち上がることをやめなかった。
ノエルの詠唱の声が途切れないように。あと少し。あと少しだけ、この身が保てばいい。
「まだ、立つのか」
「詠唱が終わるのが先か、それともあいつが先に死ぬのが先か……くくっ」
レイザーが、僅かに驚いたような声を漏らす。私は答える余裕もなく、ただレイピアを構え直した。
その姿を、倒れたままのシルフィが見ていた。
霞んだ視界の中、シルフィの瞼がゆっくりと開いていく。血の気の失せた頬。焦点の合わない瞳。傷ついた身体を無理やり起こそうとする、その動きだけが辛うじて意思を持っていた。
震える腕が、地面に落ちていた自分の黒炎の剣を探り当てる。指先に力を込め、その柄を握り締める。
よく見るとシルフィの傷は治っていない。どうみても永久欠損の一歩手前だ。
私は、動けなかった。ノエルの詠唱を邪魔しないよう、レイザーの意識だけを引き付け続けることに、意識の全てを費やしていたから。だから、気付くのが少し遅れた。
シルフィが、涙を流しながら、ゆっくりと身体を起こしていく。
「……もう」
「大丈夫」
その声は、確かに私へ向けられているようだった。だが、その瞳は、私を見ているようで、私を見ていなかった。焦点の合わない意識の混濁の中で言葉を続けた。
「……リリア……怖かったよね。」
「もう誰にも傷つけさせない……今度こそ……私が守る」
そう言って、シルフィは私に向かって、静かに微笑んだ。
その笑顔があまりにも穏やかで、あまりにも壊れていて、私は何も言葉を返せなかった。
訂正しなければならないのか、それとも、今だけはこのままにしておくべきなのか、判断がつかない。
ただ、その微笑みだけが、深く胸に突き刺さった。
黒炎が、再び静かに燃え上がる。
その気配に、レイザーがゆっくりと振り返った。
口元に、これまでとは違う笑みを浮かべながら。
つづく




