ep.31 分岐点(ゲシュクール暦794年)
ep.31 分岐点(ゲシュクール暦794年)
宿場町へ辿り着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街道を行き交う旅人の姿は門へ近付くにつれて増え始め、やがて石畳を踏む足音と荷車の軋む音が、町全体を包み込むように響いてくる。
王都ほどの賑わいはない。
それでも幾つもの街道が交わるこの町には、各地から集まった人々が絶え間なく行き交い、露店には旅に必要な道具や食料が所狭しと並べられていた。
焼きたてのパンの香りが風に乗って漂い、その隣では鍛冶屋の槌音が規則正しく響いている。
一人で旅をしていた頃なら、そのどれにも足を止めることはなかった。必要な物だけを買い、必要な情報だけを集める。
それ以外は、私にとって足を止める理由にはならなかった。
「わぁ……」
隣から、小さく感嘆の声が漏れる。アイラだった。
門を潜った途端、忙しなく辺りを見回し、店先へ並ぶ品々へ目を輝かせている。
「あのお店見て、父さん。果物があんなにいっぱい並んでる」
嬉しそうに指を差す横顔は、昨日焚き火を囲んで笑っていた時と何も変わらない。
ローガンは娘の視線を追い、一度だけその店へ目を向けると、小さく口元を緩めた。
「帰りでも遅くはない」
「うん」
そう返事はしたものの、アイラは歩きながらも何度も後ろを振り返っていた。
その様子が少し可笑しくて、私は思わず小さく笑みを零す。
「笑った」
アイラがこちらを振り返り、少し嬉しそうに笑う。
「……何でもありません」
昨日なら「どうしたの?」と聞いてきたかもしれない。その小さな変化に気付き、私は胸の内で静かに息を吐いた。
人との距離は、近付き過ぎても遠過ぎても長く続かない。だからこそ、今のこの距離が心地よかった。
町の中央まで歩いたところで、ローガンが足を止める。
「エリシャさんはどうする」
私は人で賑わう通りへ目を向ける。この町へ来た目的は一つだった。
「少し街を見てきます」
ローガンは理由を尋ねない。
ただ静かに頷き、「日が暮れる前には戻れ」とだけ言った。
「分かりました」
短い言葉だけだった。
それでも、その一言には互いを信頼しているからこその自然さがあった。
「私も行っていい?」
アイラが期待するように尋ねる。私は少し考えてから、穏やかに首を横へ振った。
「ごめんなさい。今日は少し探したいものがあるんです」
「そっか」
残念そうに眉を下げるものの、すぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ帰ってきたら、町のお話聞かせてね」
「ええ」
そう答えると、アイラは満足そうに頷いた。
私は二人へ軽く頭を下げ、人混みの中へ足を踏み入れた。
アイラは一瞬だけ私の表情を見つめ、小さく微笑んだ。
その笑みには、昨夜までのような無邪気さだけではなく、どこか相手の様子を窺うような遠慮が混じっている。
何かを言い掛けたようだったが、そのまま何も口にはしなかった。
私も理由を尋ねることはせず、軽く手を振って二人と別れる。
人混みへ足を踏み入れると、宿の前とは空気が一変した。
道の両脇には露店が軒を連ね、香辛料や干し肉を売る店の前では旅人達が品定めをしている。
防具屋では鎧の寸法を測る職人が忙しなく手を動かし、その隣では鍛冶屋の槌音が一定のリズムを刻み続けていた。
聞こえてくる話し声も様々だった。どこそこの街道で盗賊を見掛けたという話。
橋が崩れ、迂回を余儀なくされたという愚痴。収穫祭を控えた村の賑わい。
耳へ入る情報を一つひとつ拾い上げながら歩くものの、どれも私が探しているものではない。
探しているのは、灰色のローブを纏った一人の賢者。シルフィ。
足を止めたのは、一軒の酒場だった。
昼を過ぎたばかりだというのに店内は賑わい、旅装束の男女が木杯を片手に思い思いの話へ花を咲かせている。
酒を飲みに来たわけではない。旅人が集まる場所には、旅人しか知らない話がある。
私は店内へ入り、空いていた席へ腰を下ろした。運ばれてきた水へ口を付けながら、静かに店内を見渡す。
誰にでも声を掛ければいいわけではない。酔った勢いで話を盛る者もいれば、面白半分に噂を作る者もいる。
本当に知りたいのなら、まず人を見る。その癖は、長い旅の中で自然と身に付いたものだった。
やがて店の扉が開き、二人組の旅人が入ってくる。
日に焼けた外套には街道の土埃が残り、長く歩いてきたことが一目で分かった。
二人は注文を済ませると、腰を下ろすなり深く息を吐く。
「思ったより遠かったな」
「北西の街道は人も少ないからな。すれ違った旅人なんて、片手で数えられるくらいだった」
私はそれとなく視線を向ける。
「それにしても、あれは驚いた」
片方の男が木杯を持ち上げながら苦笑する。
「あんなところで賢者を見るとは思わなかった」
私はゆっくりと水を口へ運ぶ。
耳だけが、その先の言葉を追っていた。
「賢者?」
「ああ。灰色のローブを着た女だ」
胸の奥で、何かが小さく震えた。
私は表情を変えないよう意識しながら、水を飲み干す。
灰色のローブ。
期待するな。
そう言い聞かせても、鼓動だけは静かに速くなっていく。
「けど妙な人だったな」
「妙?」
「ああ」
男は記憶を辿るように眉を寄せる。
「旅人なら、普通はすれ違う時に一度くらい相手を見るだろ」
「でもあの人は違った」
「俺達が横を通っても、一度も視線を向けなかった」
「ずっと前だけを見て歩いてた」
その情景が頭へ浮かぶ。
周囲へ興味を示さず、ただ目的地だけを見据えて歩く姿。
「北西のどの辺りですか」
気付けば、私は席を立っていた。二人は少し驚いたように私を見る。
突然話へ割って入ったのだから当然だった。
「ごめんなさい。話を聞いてました」
一度頭を下げてから続ける。
「その賢者を探しています」
二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「だったら、この町を出て半日くらいのところだ」
「街道沿いに小さな村がある」
「俺達が見たのは、その少し手前だった」
私は頭の中へ地図を描く。
半日。今から向かえば、日が暮れる前には着ける距離だった。
「ありがとうございます」
礼を告げると、男は照れくさそうに頭を掻く。
「役に立つかは分からんぞ」
「ただ見掛けただけだからな」
「それでも十分です」
私は静かに答えた。
期待し過ぎてはいけない。
何度もそう自分へ言い聞かせながらも、胸の奥では小さな希望が静かに灯り始めていた。
酒場を出ると、先ほどまでとは違って町の景色が少しだけ近く感じられた。
確証はない。それでも、掴んだ手掛かりだった。
私は人波を縫うように歩きながら、頭の中で北西の街道を思い描く。
雑貨屋の前でアイラが入口の石段へ腰を下ろし、行き交う人々を眺めていた。
私へ気付くと、ぱっと表情を明るくする。
「おかえり!」
その声に気付いたローガンも、店の中から静かに姿を見せた。
「何か分かったか」
私は頷く。
「探している人を見たという話を聞きました」
「北西の街道です」
ローガンは黙って続きを待つ。
「確かな情報ではありません。ですが、今はそこへ向かってみようと思います」
短い沈黙が流れる。やがてローガンは一度だけ頷いた。
「そうか」
それだけだった。
「私達も、そろそろ出る」
私は顔を上げる。荷物へ目を向けながら、ローガンは静かに続けた。
「ここから先は別の道になるな」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
旅をしていれば、別れは珍しいことではない。
昨日まで見知らぬ者同士だったのだから、ここで道が分かれるのも当たり前だった。
それでも、当たり前だからといって寂しさまで消えるわけではない。
アイラは少しだけ俯き、それから私を見上げる。
「今度会えたら、またお話しようね」
私は思わず笑みを浮かべる。
「そうだね」
「うん」
アイラも笑う。
その笑顔を見ていると、昨日までの距離が少しだけ縮まったことを実感した。
「気を付けてください」
私がそう言うと、ローガンは静かに頷く。
「君も」
交わした言葉は、それだけだった。けれど、不思議と物足りなさはない。
互いに必要以上を語らない。だからこそ、一つひとつの言葉が胸へ残る。
私は二人へ一礼すると、北西へ続く街道へ向かって歩き始めた。
しばらく歩いてから振り返る。
宿の前では、アイラが小さく手を振っていた。私も静かに手を挙げ、それだけを返す。
やがて親子の姿は町並みへ溶け込み、見えなくなった。
私は前を向く。次に目指すのは、北西の小さな村だった。
宿場町を離れると、人の往来は目に見えて少なくなった。
石畳はやがて土の街道へ変わり、両脇には初夏の草原がどこまでも広がっている。
風は穏やかだった。草を揺らす音だけが耳に届き、町の喧騒は背中の向こうへ遠ざかっていく。
私は一定の歩幅を保ったまま北西を目指した。頭の中では、酒場で聞いた話を何度も思い返している。
灰色のローブ。
北西の街道。
小さな街。
それだけでは、手掛かりと呼ぶにはあまりにも曖昧だった。
それでも、何もないよりはずっといい。だからこそ、期待し過ぎないよう自分へ言い聞かせる。
希望は、ときに判断を鈍らせる。そのことを私は何度も経験してきた。
陽が西へ傾き始めた頃、小さな村が見えてきた。
十数軒ほどの家々が寄り添うように建ち、その周囲には畑が広がっている。
村の入口には子ども達が集まり、笑いながら木剣を振り回して遊んでいた。
穏やかな景色だった。少なくとも、争いや騒ぎの気配はない。
私は村へ入り、畑仕事を終えようとしていた老人へ声を掛ける。
「少し、お聞きしたいことがあります」
老人は鍬へ手を添えたまま振り返った。
「旅のお人か」
私は頷く。
「灰色のローブを纏った賢者を見ませんでしたか」
老人は少しだけ考え込んだものの、やがて首を横へ振る。
「見とらんな」
私は礼を言い、その場を離れた。
次は井戸で水を汲んでいた女性達へ尋ねる。
返ってきた答えは同じだった。知らない。見ていない。そんな人は来ていない。
村を歩き回りながら何人かへ声を掛けたが、返事は変わらない。
やがて村の端まで歩き終えた頃には、私の中で答えは出ていた。
……外れだった。
酒場で聞いた目撃談は、この村ではない。
あるいは最初から勘違いだったのかもしれない。
私は静かに空を見上げる。西日が空を赤く染め始めていた。
落胆はあった。それでも、不思議と絶望はしていない。
外れなら、また探せばいい。それだけの年月を私は歩いてきた。
小さく息を吐き、踵を返そうとした、その時だった。
村の入口から慌ただしい足音が響く。一人の青年が息を切らせながら広場へ駆け込み、大声で誰かを呼び始めた。
その声を聞いた村人達が次々と仕事の手を止め、青年の周りへ集まっていく。
穏やかだった村の空気が、一瞬で張り詰めた。
青年は村の中央まで駆け込むと、その場へ膝をつき、乱れた呼吸を整えようと何度も肩を上下させた。
全身は土埃にまみれ、外套の裾はところどころ裂けている。長い距離を休まず走ってきたことは、一目で分かった。
村人達が次々と集まり、不安そうな表情で青年を取り囲む。
「どうした」
「何があった」
口々に飛ぶ問い掛けへ、青年は首を横へ振りながら息を飲み込んだ。
「西の街が……」
掠れた声だった。それだけで周囲の空気が変わる。
「魔物に襲われた」
誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。青年は差し出された水を一気に飲み干し、震える声で続ける。
「数が多すぎる」
「村だけじゃ抑えきれない」
「ギルドへ救援を頼みに来た」
村人達は顔を見合わせる。
動揺は広がるものの、誰一人として騒ぎ立てる者はいない。
それぞれが事態の深刻さを理解しているからだろう。
私は青年へ歩み寄った。
「西の街まで、どれくらい掛かりますか」
青年は息を整えながら私を見る。
「歩けば半日ほどだ」
「馬なら、もっと早い」
私は頷く。
「ギルド支部は、この村にありますか」
「入口の近くだ」
「あそこへ知らせを届ける途中だった」
私は礼を告げると、その場を離れた。
ギルド支部へ向かいながら、頭の中で街道の位置を思い返す。
西の街。その言葉が胸の奥へ引っ掛かった。
どこかで聞いた。そう思った次の瞬間、宿場町で別れたばかりの光景が脳裏へ浮かぶ。
宿の前。
穏やかな笑顔。
「今度会えたら、またお話しようね」
そう言って笑ったアイラ。
そして、ローガンが口にした行き先。
西。思考がそこで止まる。
まさか。嫌な胸騒ぎが、ゆっくりと全身へ広がっていく。
別れたのは、ほんの数時間前だった。
二人がもう西の街へ着いているとは限らない。
途中で野営をしているかもしれない。道を変えている可能性だってある。
それでも。もし、あの二人が西の街へ向かっていたのなら。
私は歩みを速める。気付けば、早足は駆け足へ変わっていた。
今、確かめるべきなのはシルフィの足跡ではない。
西の街の状況だった。
胸の奥で、小さな焦りが音を立てて膨らみ始めていた。
つづく
最後までお読み頂き有難うございます。
なるべく短い間隔で、連載していきたいと思いますので
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