ep.30 距離感(ゲシュクール暦794年)
ep.30 距離感(ゲシュクール暦794年)
工房を出てから二日。私は西へ続く街道を、一人で歩いていた。
初夏の風が草原を渡り、青々とした草をゆっくりと揺らしていく。
空はどこまでも高く澄み、耳に届くのは風の音と、自分の足音だけだった。
無意識に腰へ手を伸ばす。
指先が触れたのは、長年使い続けた革巻きの柄。
幾度も握り締め、幾度も血を浴び、幾度も仲間と共に振るった感触は、昔と何も変わらない。
私は静かにレイピアを抜いた。陽光を受けた刀身が、銀色の光を返す。
柄は昔のまま。だが、その先に伸びる刃だけは違った。
ボルドが打ち直した、新しい刀身。軽く一度だけ振るう。
空気を裂く音は鋭く、剣先は以前よりもわずかに遠くへ伸びる。
重心は大きく変わらない。それでも身体は、その僅かな違いを敏感に感じ取っていた。
そんな違和感だけが胸に残る。
私はレイピアを鞘へ納め、再び歩き始めた。
不意に森の奥から低い唸り声が響く。
草むらを掻き分ける音とともに、灰色のウルフが三匹姿を現した。
さらに木陰から数匹のゴブリンが現れ、その奥では一回り大きなオーガがゆっくりと立ち上がる。
私は静かにレイピアを抜いた。澄んだ金属音が街道へ響く。
先に動いたのはウルフだった。一直線に間合いを詰めてくる。
私は半歩踏み込み、迷いなく突きを放つ。
――外れた。切っ先は頬を掠めただけで、狼は私の横を駆け抜ける。
あり得ない。今の距離なら急所を貫いていたはずだ。
考える間もなく二匹目が飛び掛かる。身体を捻って躱し、そのまま斬り返す。
しかし、これも浅い。毛皮を裂いただけで致命傷には届かなかった。
私は距離を取る。腕は鈍っていない。視力も衰えていない。
それでも剣だけが思い描いた場所へ届かない。
昨日までの感覚が、今日の剣と噛み合わない。
その瞬間、不意に老人の怒鳴り声が耳の奥で蘇る。
『鉄を見ろ』
私は息を呑んだ。
見るべきなのは敵ではない。
昨日までの剣でもない。
この一本だ。ボルドが打ち直した、新しいレイピア。
私はまだ、この剣を昔の剣として振るっていた。
静かに呼吸を整える。柄を握る力を抜き、刀身へ意識を向ける。
その感触を確かめるように、ゆっくりと魔力を流し込んだ。
青白い雷光が刃を駆け抜ける。
《ライトニング》
紫電が刀身と体を包み、身体の奥まで熱が駆け巡る。
私は地を蹴った。今度は昨日までの剣ではない。
この一本が示す間合いを信じる。
最初に飛び込んできたウルフの喉を、雷を纏った切っ先が正確に貫く。
返す刃で二匹目を仕留め、その勢いのまま最後の一匹を斬り伏せた。
雷光が奔る。
迫ってきたゴブリンたちは抵抗する暇もなく倒れ、残るのはオーガだけとなる。
巨体が咆哮を上げ、大剣を振り下ろした。私は半歩だけ身体を開く。
轟音とともに剣が地面へめり込む。
その懐へ踏み込んだ。
以前の私なら届かないと判断した間合い。
だが、新しいレイピアは違う。私は迷わず切っ先を伸ばした。
銀の刃は厚い胸板を貫き、その奥の心臓へ届く。
紫電が巨体を駆け巡り、オーガは低い呻きを漏らして膝をついた。
やがて力なく前へ倒れ込み、地面が小さく揺れる。
オーガが崩れ落ちると、街道を満たしていた咆哮は消え、風だけが草を揺らしていた。
私はゆっくりと血を払い、レイピアを見つめた。
刀身には傷一つない。
その輝きを見つめながら、小さく息を吐く。
「……なるほど」
思わず口元が緩む。
「こういうことだったんですね」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
だが、あの頑固な鍛冶師なら、不愛想に鼻を鳴らすだけなのだろう。
私は静かにレイピアを鞘へ納めた。
風が草を揺らす。
「……すごい」
少女の声が風に乗って聞こえた。
振り返ると、街道の先に父娘らしい二人組が立っていた。
先に駆け寄ってきたのは、栗色の髪を肩まで伸ばした少女だった。
「今の……全部、一人で倒したの?」
倒れた魔物と私を何度も見比べながら、素直に目を輝かせる。
私は静かに頷いた。
その後ろから、一人の男がゆっくり歩み寄ってきた。
日に焼けた顔。使い込まれた革鎧。腰には長剣を佩いている。
派手さはないが、旅慣れた者だとすぐに分かった。
「アイラ」
男が娘の名を呼ぶ。それだけで少女は我に返り、慌てて頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。急に話しかけちゃって」
「気にしていません」
私が答えると、少女は安心したように笑った。
「私はアイラ。父さんはローガン」
男は軽く会釈する。
「ローガンだ」
「エリシャです」
互いに名乗り合うと、小さな沈黙が流れた。
ローガンは倒れたオーガへ目を向ける。
「この辺りで見るのは珍しい」
「最近、魔物が増えています」
「……かもしれんな」
アイラは倒れたオーガへ駆け寄り、恐る恐るつま先でつついた。
「こんなに大きかったのに、あっという間だったね」
ローガンは倒れた魔物へ目を向け、小さく笑う。
「エリシャさんが強かったのもある」
「だが、生き物ってのは同じ種でも強さが違う」
アイラは不思議そうに首を傾げた。
「違うの?」
「人間だってそうだ。英雄ガイゼルもいれば、剣を握ったこともない者もいる」
「同じ人間でも強さはまるで違う」
私はローガンの言葉に頷きながら続けた。
「魔物も魔族も、人も同じです」
「同じ種でも、強さには大きな差があります」
「じゃあ見た目だけじゃ分からないんだね」
アイラは倒れたオーガをもう一度見つめ、どこか納得したように笑った。
アイラは私の腰へ視線を向ける。
「そのレイピア、すごく綺麗」
私は柄へそっと触れた。
「新しいのは刀身だけです。柄は昔から使っています」
「そうなんだ」
少女は少し嬉しそうに頷いた。
「だから手に馴染んでるように見えたんだ」
私は答えず、傷だらけの柄を親指でなぞる。
その傷一つひとつに、共に旅をした仲間たちの面影が刻まれていた。
フィアも、この柄を握って笑っていた。その思い出だけが、一瞬胸を過ぎった。
ローガンは私の様子を見ても何も聞かなかった。踏み込まず、ただ静かに視線を外す。
その距離感がありがたかった。やがてローガンが街道の先へ目を向ける。
「君も西へ?」
「ええ」
「私たちも同じ道だ」
少し間を置いて続ける。
「良ければ途中まで一緒に歩かないか」
私は首を横に振った。
「ありがとうございます」
「ですが、一人で旅をしていますので」
断ると、ローガンは静かに頷く。
「そうか」
それ以上は何も言わない。
引き止めることも、理由を尋ねることもなかった。
「じゃあ、行こう」
娘へ穏やかに声を掛ける。
「うん」
アイラは少しだけ残念そうに笑った。
「またどこかで会えたらいいね」
親子は西へ向かって歩き始める。
私はその背中を見送った。
誰とも歩かない。
それが私の選んだ生き方だった。
親子の背中はゆっくりと遠ざかっていく。
私はその場に立ったまま、視線を落とす。
これでいい。人とは深く関わらない。
そう決めたのは、自分だ。誰かと歩けば、いつか別れが来る。
別れの先に待つものを、私は嫌というほど知っている。
だから一人で歩く。それが一番傷つかない生き方だった。
私はレイピアへ手を添え、再び歩き出そうとする。
『出来たら取りに来てね』
不意に、ミーナの笑顔が脳裏をよぎる。
採寸用の革紐を握りしめ、少し照れくさそうに笑っていた少女。
『……待ってるから』
私は思わず足を止めた。
待っている。その言葉が、胸の奥で静かに響く。
続いて浮かんだのは、工房を出る直前のことだった。
ぶっきらぼうな老人は、最後までこちらを見ようとせず、それでも小さく言った。
『帰ってこい』
たった、それだけ。
飾り気のない一言だった。
それなのに、あの言葉だけが妙に心へ残っている。
私は苦く笑った。
「……変わったな」
思わず零れた独り言だった。
旅立つたび、振り返ることはなかった。
それなのに今は、工房の灯りが頭から離れない。
視線を上げる。
前を歩く親子は何か話しているらしく、アイラの笑い声が風に乗って聞こえてきた。
その何気ない声が、不思議と耳に残る。
気付けば、足は自然と親子を追っていた。砂利を踏む音に、二人が振り返る。
「エリシャさん?」
アイラが目を丸くする。
私は一度だけ呼吸を整えた。
こんな一言を口にするだけなのに、少しだけ勇気がいる。
「……先ほどのお話ですが」
ローガンは黙って私を見つめている。急かすことも、返事を促すこともない。
私は静かに続けた。
「ご迷惑でなければ」
言葉が途切れる。少しだけ照れくさい。
「途中まで、ご一緒してもよろしいでしょうか」
一瞬、風だけが三人の間を吹き抜けた。やがてアイラが満面の笑みを浮かべる。
「もちろん!」
その声に、ローガンは穏やかに笑った。
「歓迎する」
短い一言だった。だが、それだけで十分だった。
私は小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「よろしくね、エリシャさん」
アイラは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜けた。
三人は並んで歩き始める。
一人だった足音は、いつの間にか三つになっていた。
その音は、思っていたよりもずっと心地よかった。
西へ傾いた陽が街道を淡く染め始める頃、三人は小さな川のほとりで足を止めた。
街道から少し外れた場所には、大きな広葉樹が枝を広げ、その木陰を縫うように澄んだ水が流れている。
夜露をしのげる場所としては申し分なく、ローガンは辺りをひと目見渡しただけで静かに頷いた。
「今夜はここにしよう」
その一言で十分だった。
アイラは「はーい」と返事をすると、荷物を下ろして川の方へ駆けていく。
石を飛び越え、水面を覗き込みながら何かを探している姿は年相応の少女そのものだった。
「転ぶな」
「子どもじゃないってば」
振り返ることもなく返ってきた声に、ローガンは困ったように笑い、慣れた手つきで荷物をほどき始める。
私は近くへ落ちていた枯れ枝を拾い集めながら、その様子を眺めていた。
旅は長い。その間に野営をすることなど数え切れないほど経験してきた。
だが、誰かと役割を分けて焚き火の支度をするのは、いつ以来だろうか。
一人でいることに慣れすぎたせいか、それだけのことがどこか新鮮に感じられる。
「助かる」
枝を受け取ったローガンが短く礼を言う。
「いえ」
私もそれ以上は続けない。
互いに必要以上を話さない空気は、不思議と心地よかった。
やがて火打石の乾いた音が響き、小さな火種が薪へ移る。
ぱちり、と木が爆ぜる音とともに橙色の炎が揺れ始めると、それまで静かだった川辺にも少しずつ温もりが広がっていった。
「見て!」
元気な声とともにアイラが戻ってくる。
両手には小ぶりの魚が三匹ぶら下がっていた。
「運が良かったね」
そう言って笑う娘を見たローガンは少し目を丸くしたが、すぐに口元を緩めた。
「今夜はご馳走だな」
「でしょ?」
誇らしげに胸を張るアイラを見ていると、思わず頬が緩む。
そんな私の表情に気付いたのか、アイラは少し嬉しそうに笑ったが、それ以上何も言わなかった。
以前なら「笑った」と無邪気にはしゃいでいただろう。
アイラは何か言いかけ、小さく笑って言葉を飲み込んだ。
魚が焼ける匂いが漂い始める。
脂が火へ落ちるたびに小さな音が弾け、香ばしい匂いが風に乗って流れていく。
「はい」
焼き上がった魚をアイラが差し出した。
「ありがとうございます」
受け取った魚は驚くほど熱く、指先へじんわりと温もりが伝わる。
一口かじると、皮は香ばしく、身はふっくらとしていた。
決して豪華な料理ではない。
それでも、焚き火を囲み、誰かと同じ食事を口にする時間そのものが、私にはどこか懐かしく感じられた。
炎は静かに揺れ、川は絶え間なく流れ続けている。
その穏やかな時間の中で、私は知らず知らずのうちに肩から力が抜けていくのを感じていた。
食事を終える頃には、西の空は茜色から群青へと移り変わり始めていた。
「これ、お母さんが食べたら絶対喜ぶのになぁ」
ローガンが苦笑する。
「帰ったら作ってやればいい」
「無理だよ」
「父さんみたいに焼けないもん」
「練習すりゃいい」
「じゃあ父さんが教えてよ」
そんな他愛もないやり取りのあと、アイラがペンダントを取り出す。
「これね、お母さんにもらったの」
そう言って照れくさそうに笑う。
隣でローガンが苦笑した。
「心配性なんだ」
「毎日ちゃんとご飯食べてるかとか、怪我してないかとか」
「何度も念を押されてな」
「父さんだって同じくらい言われてたじゃん」
「……否定はせん」
珍しく照れたように視線を逸らすローガンに、アイラがくすりと笑う。
ペンダントを握り締めながら、小さく呟いた。
「今度は三人で食べようね」
「あぁ」
川のせせらぎは絶え間なく流れ、昼間まで聞こえていた鳥の声も、いつしか虫たちの音色へと変わっていた。
その何気ないやり取りを眺めながら、私は焚き火へ薪を一本足した。
炎が少しだけ大きくなり、橙色の光が三人の影を静かに揺らしていく。
旅に出てから、こうして誰かと火を囲む夜は何度あっただろう。
思い返そうとしても、浮かぶのは仲間たちの記憶ばかりだった。
私は炎を見つめる。不思議と胸は痛まなかった。
失った記憶が薄れたわけではない。
ただ、その隣に新しい時間が静かに積み重なり始めている。
そんな気がした。
「エリシャさん」
アイラが遠慮がちに声を掛ける。
「明日もよろしくね」
私は小さく頷いた。
「こちらこそ」
それだけで十分だった。言葉は少なくても、この親子となら無理に会話を続けなくていい。
その距離感が心地よい。焚き火の火は静かに燃え続ける。
見上げれば、夜空には無数の星が瞬いていた。
私は毛布を肩まで引き寄せ、静かに目を閉じる。
明日もまた、西へ向かって歩く。
いつの間にか、街道に響く足音は三つになっていた。
その穏やかな時間が、永遠には続かないことを。
この時の私は、まだ知らなかった。
最後までお読み頂き有難うございます。
なるべく短い間隔で、連載していきたいと思いますので
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