ep.26 五年後(ゲシュクール暦794)
ep.26 五年後(ゲシュクール暦794)
風が草原を撫でる。
刈り取られる前の麦が波のように揺れ、その向こうには、討ち倒された魔物が静かに横たわっていた。
魔石を取り出し、血の付いた短剣を布で拭う。手は迷うことなく動いた。
いつから、こんな作業に何も感じなくなったのだろう。
村を荒らしていた《ホーンウルフ》は三体。
村人だけでは手に負えず、献身者へ依頼が出されていた。
私は最後の一体から視線を外し、静かに息を吐く。
戦いは終わった。
それだけだった。
「ありがとうございました……!」
背後から駆け寄ってきた村人が、深々と頭を下げる。
年老いた村長も、家々の陰から顔を覗かせる子どもたちも、皆どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「これで、ようやく安心して畑へ出られます」
そう言って差し出された手を、私はそっと握り返す。
返す言葉は短い。
「依頼でしたから」
それだけ伝えると、村人は少し困ったように笑った。
「昔も、そう言っていましたね」
私は首を傾げる。
「昔……ですか」
「ええ。五年ほど前でしょうか。この辺りで盗賊退治をお願いしたことがあったんです。あの時も、一人で来て、一人で帰っていきました」
覚えていなかった。
依頼は数え切れないほど受けてきた。
村も、人も、魔物も。
名前を覚えている方が少ない。
「そうでしたか」
それだけ答える。村人は少し寂しそうに笑った。
「変わりませんね」
私は返事をしなかった。本当に変わっていないのは、私だけなのだから。
依頼書へ討伐完了の署名を受け、報酬袋を腰へしまう。
村人たちは最後まで頭を下げ続けていた。私は軽く会釈を返し、そのまま村を後にする。
背中へ向けられる感謝の言葉も、引き留める声も聞こえていた。
けれど振り返ることはなかった。誰かと長く関われば、その人を知る。
その人を知れば、いつか失う。それを知ってしまった私は、もう旅先で友人を作ることはなかった。
風が吹く。
街道の先には王都へ続く石畳が伸びている。私は荷物を背負い直し、一人で歩き始めた。
王都の城壁は、夕日に照らされながら静かに姿を現していた。
王都へ到着した頃には、太陽は西へ傾き始めていた。
高い城壁は、あの日と同じように人々を見下ろしていた。
門をくぐると、聞き慣れた喧騒が耳へ届いた。
露店の呼び込み。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音。笑い合う子どもたち。
平和だった。
だからこそ、この光景を守れなかったあの日が、時折胸を締めつける。
私は考えを振り払うように歩き続けた。
向かう先は献身者ギルド。重い木の扉を開くと、酒場とは違う静かな空気が流れていた。
依頼書を整理する者。
次の任務を探す献身者。
受付では数人が順番を待っている。
見慣れた景色だった。
受付の奥に立つ女性が、こちらへ気付いて顔を上げる。
「エリシャさん、お帰りなさい」
柔らかな笑みを浮かべたのは受付嬢のカレンだった。
五年以上、依頼のたびに顔を合わせてきた。
王都へ戻れば、必ず顔を合わせる相手だった。
「ただいま戻りました」
「討伐依頼ですね」
私は依頼書と魔石を差し出す。
カレンは慣れた手つきで確認し、静かに頷いた。
「ホーンウルフ三体。討伐を確認しました」
帳簿へ記入し、報酬袋を差し出す。
「こちらが今回の報酬です」
「ありがとう」
袋を受け取り腰へしまう。短い手続きだった。
それでもカレンは、すぐには次の依頼書を差し出さなかった。
「そうだ」
何かを思い出したように微笑む。
「ロイドさんから伝言を預かっています」
私は顔を上げる。
「私に?」
「はい」
「時間がある時で構わないから、一度家へ寄ってほしいそうです」
「何かあったのかな」
「詳しくは聞いていません」
カレンは申し訳なさそうに首を横へ振る。
「でも、少し嬉しそうでしたよ」
嬉しそう。その言葉だけが少し引っ掛かった。
ロイドは滅多に人を呼びつけたりしない。何か見つけたのかもしれない。
「分かったよ。今日、顔を出してみる」
そう答えると、カレンは安心したように微笑んだ。
「きっと喜びます」
一礼して受付を離れる。扉へ向かう途中、壁一面に貼られた依頼書が視界へ入る。
昔より枚数が増えていた。知らない名前も多い。新人だろうか。
私が王都を離れている間にも、新しい献身者が生まれ、新しい物語が始まっている。
時間は止まらない。止まっているのは、きっと私だけだった。
ギルドを出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。まずは宿へ戻ろう。
エマも、きっと帰りを待っている。
石畳の大通りを歩く。夕暮れの王都は、一日の終わりを迎えようとしていた。
焼きたてのパンの香りが風に乗り、露店では夕食の支度を始める店主たちの威勢のいい声が飛び交っている。
依頼が終われば、次の依頼へ向かう。それが、この数年の生活だった。
宿へ続く角を曲がると、見慣れた看板が目に入る。木製の看板は少し色褪せていた。
それでも入口には、今日も花が飾られていた。エマらしかった。
扉を開けると、小さな鈴が軽やかな音を鳴らす。
「いらっしゃ……あら」
カウンターの奥で帳簿をつけていたエマが顔を上げる。
私を見るなり、目を細めて微笑んだ。
「おかえり」
その一言だけで十分だった。
「ただいま戻りました」
「今日は帰ってくる気がしてたんだよ」
エマは笑いながら立ち上がる。
「いつもの部屋、空いてるよ」
私は少し驚いた。
「帰ってくるか分からなかったでしょう」
「分かるさ」
エマは当然のように答える。
「長い付き合いなんだから」
返す言葉が見つからない。
「ご飯はまだだろう」
「今、シチューを温め直すから座ってな」
香草の香りが店の中へ広がる。厨房から聞こえる鍋の音が、妙に心地よかった。
窓際の席へ腰を下ろし、静かに視線を窓の外へ向けた。
店の扉が開き、旅人が二人入ってくる。知らない顔だった。
知らない人たちが宿へ泊まり、また旅立っていく。
世界は少しずつ前に進んでいる。エマが湯気の立つ皿を運んできた。
「熱いから気を付けな」
目の前へ置かれたシチューから、柔らかな湯気が立ち上る。
スプーンを口へ運ぶ。
優しい味。
昔と同じ味だった。
「少し痩せたね」
エマがぽつりと言う。
「ちゃんと食べてるのかい」
「それなりには」
「それなりじゃ駄目なんだよ」
困ったように笑いながら、焼きたてのパンをもう一つ皿へ乗せる。
「帰ってきた時くらいは、しっかり食べな」
私は小さく頷いた。
こうして世話を焼いてくれる人がいる。それだけで、この宿へ戻ってきてしまう理由になる。
けれど、その温かさに長く浸かってしまえば、また旅立つ時が苦しくなる。
だから私は、食事を終えたらすぐ席を立つ。それが、この数年で身につけた距離の取り方だった。
食事を終え、宿を後にする。西へ傾いた陽は城壁を赤く染め、石畳には長い影が伸びていた。
学院へ向かう道は、昔と変わらない。何度も歩いた道だ。
目を閉じれば、隣を歩くフィアの笑い声まで思い出せそうだった。
「おーい」
不意に聞き覚えのある声が飛んできた。
青年が片手を上げて立っていた。その隣には、呆れたような表情を浮かべる女性。
レオンとリズだった。二人とも軍服に身を包み、胸元には王国軍隊長の徽章が輝いている。
六年半という時間は、二人を立派な軍人へ変えていた。それでも笑い方だけは昔のままだった。
「そういや、ガイゼルのおっさんがお前に会いたがってたぞ」
レオンが豪快に笑う。
リズも柔らかく微笑む。
「顔を見たいらしいです」
少し考え、「また今度にする」そう答えた。
今はロイドのことが先だった。
「まぁ、お前らしいな」
レオンは苦笑し、それ以上は何も言わなかった。
「それじゃあ、勤務中なんで」
リズが軽く頭を下げる。
二人は軍本部の方へ歩いていく。昔より少しだけ大きく見える背中を、私はしばらく見送っていた。
学院への坂道を上る。見慣れた校舎が夕日に照らされ、静かに佇んでいた。
門をくぐると、制服姿の生徒たちが談笑しながらすれ違っていく。知らない顔ばかりだった。
あの日、一緒に学んでいた仲間たちは、もう誰もここにはいない。時間だけが、確かに流れていた。
学院の廊下は静かだった。授業が終わった時間なのだろう。
窓から差し込む夕陽が床を赤く染め、廊下を歩く生徒たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけ疼いた。あの日も、こんな夕暮れだった。
フィアと他愛もない話をしながら歩き、ノエルは分厚い本を抱え、クレイは優しく笑っていた。
今は、その姿はどこにもない。
研究棟の最上階。
見慣れた扉を軽く叩く。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、昔とほとんど変わっていなかった。
扉を開ける。部屋いっぱいに積み上げられた本と資料。机の上には開いたままの古文書。
その中心で、一人の少女が顔を上げた。
「エリシャ」
クレイは一瞬だけ目を丸くし、それから穏やかに笑った。
「久しぶり」
机を挟んで向かい合う。部屋の様子だけを見れば、六年前とほとんど同じだ。
違うのは、本の量がさらに増えていることくらいだった。
「研究はどう?」
「まぁ、それなりにね」
クレイは苦笑する。
「気付けば一日中ここにいることも珍しくなくなってしまいました」
「クレイらしいね」
「そうですかね」
二人で小さく笑う。
短い沈黙。
私は自然と口を開いた。
「ノエルは」
その一言で、クレイの表情が少しだけ曇る。
「最初の頃は手紙が届いてたんですけど」
引き出しから、一枚の封筒を取り出す。
「旅先の話とか、珍しい魔物を見つけたとか元気そうでしたよ」
封筒をそっと机へ戻す。
「でも、一年くらい前でしょうか?それから急に来なくなってしまいました」
部屋に静かな空気が流れる。
「学院でも調べてはいるんですが、まだ何も分かっていません」
私は何も言えなかった。ノエルなら、ふらりと帰ってきても不思議ではない。
そう思いたかった。
「エリシャなら、何か聞いてないかなって思ってたんですが」
私は静かに首を横へ振る。
「そうですか」
クレイはそれ以上聞かなかった。無理に話題を変えることもない。
それがクレイだった。再び沈黙が訪れる。
やがてクレイは窓の外へ目を向け、小さく呟いた。
「アミルもあのままですよ。時々、様子を見に行ってます」
その言葉に、私は返事をしなかった。できなかった。
視線だけが、窓の外へ向く。医療棟の白い屋根が、夕日に照らされていた。
私は立ち上がる。
「そろそろ行くよ」
「ロイドさんのところ?」
「うん」
「また帰ってきたら顔を出してください。今度は、ゆっくり話しましょう」
私は頷く。
「また」
それだけ言い残し、研究室を後にした。
研究棟を出ると、夕陽はもう校舎の向こうへ沈みかけていた。
廊下には人影も少なく、窓から吹き込む風だけが静かにカーテンを揺らしている。
私はゆっくりと階段を下りた。玄関を出れば、そのまま図書館へ向かう。
それだけのつもりだった。
けれど。石畳の先で、道が二つに分かれている。
一つは図書館へ。もう一つは医療棟と、さらに奥の墓地へ続く道だった。
私は足を止める。視線が、ほんの一瞬だけ奥へ向く。
医療棟の白い建物。さらにその先の木々に隠れた墓地。
静かな風が枝葉を揺らした。私は目を伏せる。
行こうと思えば行ける。歩いて数分もかからない。それなのに、一歩が出ない。
会えば、思い出してしまう。向き合えば、認めなければならない。
私は何も守れなかったことを。そして、そのまま踵を返した。
図書館へ続く道を歩き出す。背中に夕陽を受けながら、一度も振り返らなかった。
図書館の扉を開けると、懐かしい紙の香りが鼻をくすぐった。
棚の間を歩く利用者。本を抱えた学生。静かな時間だけが流れている。昔と同じ景色だった。
違うのは。
「少々お待ちください」
落ち着いた声が館内へ響く。
受付で利用者へ本を手渡している女性が、一冊ずつ丁寧に貸出票へ印を押していた。
髪を後ろで束ね、司書の制服をきちんと着こなしている。見違えるほど大人になっていた。
利用者を見送り、その女性が顔を上げる。 一瞬だけ目を丸くし。次の瞬間、柔らかく微笑んだ。
「エリシャさん」
ルルだった。
最初に会った頃の幼さはもう残っていない。
見習いとして本を抱えて走り回っていた少女は、今では一人の司書として図書館を支えていた。
それでも、その笑顔だけは、あの頃のままだった。
「お久しぶりです」
「久しぶり」
受付を離れたルルは、小さく頭を下げる。
「戻られたんですね」
「今日、依頼が終わったから」
「そうだったんですね」
嬉しそうに笑う。
けれど、その声は以前よりずっと落ち着いていた。
この数年で、たくさんの利用者と向き合い、多くの本を扱ってきたのだろう。
自然と司書らしい話し方になっていた。
「ロイドさんから聞いていました。帰ってきたら、きっと顔を出してくれるって」
私は少し驚く。
「そう……」
「はい」
ルルは微笑んだ。
「先生、とても楽しみにしていましたよ」
その一言に、思わず口元が緩む。ロイドらしい。
わざわざ呼びつけることはしない。来れば嬉しい。
来られなければ、それでも構わない。そんな人だった。
「ロイドさんは?」
ルルは少しだけ視線を落とした。
「……病気は少しずつ進んでいます」
「でも」
すぐに笑顔を作る。
「本を読んでいる時だけは元気なんです。今日も朝から机に向かっていました」
その姿が容易に想像できた。本棚に囲まれた部屋。机いっぱいに広げられた資料。
時間を忘れて本を読むロイド。司書を辞めても、本だけは手放せなかったのだろう。
「最近は、西の地方の文献ばかり読んでいます」
「西?」
「はい。何か調べているみたいですけど、私には教えてくれなくて」
少しだけ頬を膨らませる。その仕草だけは昔のルルのままだった。
私は思わず小さく笑う。
「ロイドさんらしいね」
「ですよね」
二人で笑い合う。静かな図書館に、小さな笑い声だけが響いた。
「先生は自宅にいらっしゃいますよ」
ルルは図書館の外を指差す。
「ありがとう」
「また戻ってきたら、寄ってください。今度はゆっくり、お話ししましょう」
私は頷く。
「また帰ってきたら」
その言葉を残し、図書館を後にする。
夕暮れの王都は、ゆっくりと夜へ染まり始めていた。
ロイドの家は、王都の喧騒から少し離れた静かな住宅街にあった。
石畳の小道を抜けると、小さな庭のある木造の家が見えてくる。
季節の花が丁寧に手入れされ、窓辺には植木鉢が並んでいた。
司書だった頃から同じ景色だった。玄関の前で一度だけ深呼吸をする。
扉を軽く叩くと、中から穏やかな声が返ってきた。
「開いているよ」
扉を開ける。懐かしい紙の匂いが部屋いっぱいに広がっていた。
壁一面の本棚。積み重ねられた古文書。机の上には何枚もの地図が広げられている。
司書を引退したとは思えないほど、本に囲まれた空間だった。机へ向かっていたロイドがゆっくりと振り返る。
以前より少し痩せたように見えた。頬はこけ、肩も細くなっている。
それでも、その穏やかな笑顔だけは昔と何一つ変わらない。
「よく来てくれたね」
「お久しぶりです」
「元気そうで安心したよ」
私は小さく頭を下げる。
「ロイドさんも、お変わりなさそうで」
その言葉に、ロイドは少しだけ苦笑した。
「さすがに昔ほど動けなくなったけどね。最近は家で本を読む毎日だよ」
その言い方には、寂しさよりも諦めが混じっていた。
けれど悲壮感はない。自分にできることを受け入れ、その中で生きている。
そんな穏やかさがあった。
「ルルさんから聞きました。西の地方を調べているそうですね」
「ああ」
ロイドは静かに頷く。
机の上から、一冊の古びた文献を手に取った。
革表紙は擦り切れ、何度も読み返された跡が残っている。
「少し前にね」
「地方の古文書を整理していた司祭から、面白い話を聞いたんだ」
ページを開く。そこには古い文字と、かすれた挿絵が描かれていた。
ロイドはその一ページを静かにこちらへ向ける。
「西にある小さな村なんだけどね」
「代々、大切に保管されている古文書があるらしい」
私は文献へ目を落とす。描かれているのは一体の人物。
長柄の武器を持ち、全身を鎧で覆った大柄な姿。
顔までは判別できない。輪郭も曖昧だ。
それでも。胸の奥が、小さくざわついた。
「……」
ロイドは私の表情を見ながら静かに続ける。
「もちろん、これだけで同じ人物とは言えない」
「昔話の中で姿が変わっているかもしれないし、まったく別の人物かもしれない」
一拍置く。
「でも、君が以前話してくれた特徴と、少し似ているように思えてね」
部屋が静かになる。窓の外では、小鳥の鳴き声だけが聞こえていた。
私は古文書から目を離さない。本人だという確証はない。
けれど。
何もないよりは遥かによかった。
ロイドは本を閉じる。
「無理にとは言わないよ」
「ただ」
「もし君が、まだ探し続けるつもりなら。一度訪ねてみる価値はあると思う」
私はゆっくりと顔を上げた。
「場所を教えてください」
ロイドは穏やかに微笑み、小さく頷いた。
ロイドは引き出しから一枚の地図を取り出した。
何度も折り畳まれていたのだろう。紙の端は擦り切れ、何か所も書き込みが残されている。
西方へ指を滑らせ、小さな村を示した。
「ここだよ」
「王都から歩けば一か月かな。大きな街道から外れているから、訪れる人も少ない村らしい」
私は地図を静かに見つめる。聞いたこともない村だった。
だからこそ、古い文献が残っていても不思議ではない。
「文献そのものは見つかっていないんですか」
「残念ながらね」
ロイドは穏やかに首を横へ振る。
「私も病気さえなければ、自分で確かめに行きたかったんだけど」
そう言って小さく笑う。私は何も言えなかった。
この人はきっと、本当に行こうとしていたのだろう。
自分では歩けないから、私に託した。それだけだった。
「ありがとう」
自然と、その言葉が口をついて出る。
ロイドは少し驚いたような顔をした後、優しく微笑んだ。
「礼を言われるほどのことじゃないよ」
「私は本を読んでいただけだから」
その言葉が、妙にロイドらしかった。昔からそうだ。
誰かの役に立てるなら、それで満足する人だった。見返りを求めることもない。
理由を問いただすこともない。ただ静かに、本を読み、人を支える。
私は地図を丁寧に畳み、鞄へしまった。
「行ってきます」
ロイドはゆっくりと頷く。
「気を付けて」
「それから」
一度言葉を区切る。
「帰ってきたら、また話を聞かせてほしい」
「はい」
短く答え、立ち上がる。
玄関まで見送ろうとしたロイドを、私はそっと制した。
「無理はしないでください」
「ありがとう」
ロイドは少し照れくさそうに笑う。
「年を取ると、心配されることが増えるね」
その穏やかな笑顔を最後に、私は家を後にした。
外へ出ると、空はすっかり暗闇に染まっていた。
翌朝。
まだ人通りの少ない王都の通りを歩く。
荷物は少ない。旅には、もう慣れていた。
宿の前ではエマが腕を組んで待っていた。
「朝飯くらい食べていきな」
焼きたてのパンを紙袋へ詰め、強引に私へ持たせる。
「ありがとうございます」
「帰ってきたら、また作ってやるから」
私は小さく頷く。ギルドの前では、開館準備をしていたカレンがこちらへ気付いた。
「もう出発されるんですね」
「うん」
「お気を付けて」
それだけだった。大げさな見送りはない。
けれど、その何気ない一言が、少しだけ嬉しかった。
王都の門をくぐる。背後には、変わり続ける街。
前には、まだ見ぬ西の大地。私は振り返らなかった。
向かう先にアスカーがいる保証はない。
古文書に描かれた人物が、本当にアスカーなのかも分からない。
それでも、立ち止まっているよりはいい。
私は荷物を背負い直し、西へ続く街道を静かに歩き始めた。
つづく
最後までお読み頂き有難うございます。
なるべく短い間隔で、連載していきたいと思いますので
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