ep.22 理由を示せ(ゲシュクール歴789年)
ep.22 理由を示せ(ゲシュクール歴789年)
西部第二防衛線へ到着した頃には、空は鉛色の煙に覆われていた。砦は燃えている。
崩れた城壁から黒煙が立ち上り、雪原には兵士と魔物の亡骸が幾重にも積み重なっていた。
「まだ生きてる者を運べ!」
「回復班、こっちだ!」
「前線を下げるな!」
怒号が飛び交う。だが、それすら押し潰すような重苦しい空気が戦場を支配していた。
エリシャは思わず息を呑む。昨日までの戦いとは、まるで違う。ここはもう、防衛線ではなかった。
戦場そのものだった。
「酷い……」
クレイが小さく呟く。ノエルも険しい表情で前を見据えている。
フィアは静かにレイピアへ手を掛けた。
「警戒して。まだ終わってない」
四人は慎重に前線へ近付く。その時だった。
前方に集まっていた兵士たちが、一斉に左右へ道を開けた。
「総司令だ!」ガイゼルだった。
片手に大剣を携え、炎の向こうを真っ直ぐ見据えている。
その視線の先へ、エリシャも目を向けた。雪煙の向こう。
一人の男が立っていた。黒い外套。漆黒の長髪。ただ静かに立っている。
ただ、それだけ。魔力を放っているわけでもない。威圧しているわけでもない。
それでも、その場にいる誰一人として動くことができなかった。
兵士の一人が、震える声で呟く。
「……アスカー」
その名が広がる。
兵士たちの顔から血の気が引いていく。
エリシャは喉が渇くのを感じた。
(あれが……)
魔王軍最強。
人類を滅ぼす魔族。
アスカー。
その時だった。アスカーの前へ、一人の魔族が跪いた。
「アスカー様!西部防衛線は制圧しました!」
興奮した声だった。
「このまま追撃すれば王都まで――」
アスカーは静かに口を開いた。
「理由を示せ」
低い声だった。
魔族は一瞬だけ言葉を失う。
「……え?」
「王都へ向かう理由だ」
魔族は慌てて答えた。
「そ、それは魔王様のご命令です!」
「命令……か」
「それは理由ではない」
次の瞬間だった。
銀色の光が一閃する。
何が起きたのか、誰も理解できなかった。
遅れて、魔族の首が宙を舞う。
どさり、と胴体が雪原へ倒れ込んだ。
鮮血が白い雪を赤く染める。
静寂。
魔物たちでさえ、その場から動けない。
兵士の誰かが掠れた声を漏らした。
「味方を……斬った……?」
アスカーは倒れた魔族を一瞥することもなく、血に濡れた刃を静かに払った。
「理由のない命令に従う価値はない」
その一言だけだった。
人間も。
魔族も。
誰一人として声を出せなかった。
アスカーは静かにハルバードを肩へ担いだ。
戦場は静まり返っていた。つい先程まで響いていた怒号も、剣戟も、悲鳴さえ聞こえない。
雪だけが静かに降り続けている。誰も動けなかった。
王国軍も。
魔王軍も。
味方を斬った魔族を前に、理解が追いついていなかった。そんな静寂を破るように、一人の男が前へ歩み出る。
王国軍最高司令官、ガイゼル。
重厚な鎧を軋ませながら、一歩、また一歩とアスカーへ向かう。その背中へ兵士達の声が飛んだ。
「総司令!」
「お待ちください!」
「危険です!」
だがガイゼルは足を止めない。
「誰も手を出すな」
低い一言。
それだけで兵士達は押し黙った。エリシャはその背中を見つめる。
先程まで負傷兵へ指示を飛ばしていた男とは思えないほど静かな背中だった。
やがて二人は十数メートルの距離で向かい合う。ガイゼルは大剣をゆっくりと抜いた。
分厚い刀身が雪明かりを鈍く反射する。その瞬間、周囲の兵士達の表情が変わった。
誰もが知っている。
王国最強。
幾度となく戦場を勝利へ導いてきた英雄。その本気を見る機会など、一生に一度あるかどうかだった。
アスカーは静かにガイゼルを見つめる。やがて低い声が響いた。
「ここにいる理由を示せ」
ガイゼルは眉をひそめる。
「……何?」
「貴様が戦う理由だ」
戦場には似つかわしくない問いだった。
ガイゼルは鼻で笑う。
「理由だと?そんなものはない」
「敵がいる。だから斬る。それだけだ」
アスカーは数秒、黙っていた。
沈黙が戦いの合図となる。
ガイゼルは地を蹴った。
轟音。
雪原が爆ぜる。
巨体とは思えない速度で間合いを潰し、大剣を振り下ろす。
「はあああああっ!!」
大気を裂く一撃。しかしアスカーは身体を半歩ずらすだけで躱した。
大剣は雪を砕き、大地を深く抉る。そのままガイゼルは止まらない。
返す刃。
横薙ぎ。
斬り上げ。
袈裟斬り。
一切淀みのない連撃。一撃ごとに地面が裂け、雪煙が舞い上がる。
兵士達は歓声を上げた。
「総司令!」
「押してる!」
「そのままだ!」
エリシャは目を見開いていた。学院で見てきた誰とも違う。魔法ではない。
純粋な剣技だけで戦場を支配している。
(これが……王国最強……)
だがアスカーはハルバードを動かさない。
半歩。
一歩。
僅かな体捌きだけで全てを避け続ける。
まるで最初から軌道を知っているようだった。
「まだだぁぁっ!」
ガイゼルが咆哮する。踏み込みを変えた。
右から振ると見せかけ、身体を反転させる。
死角からの斬撃。
ギィィィンッ!!
甲高い音が響く。黒い長髪が数本、宙を舞った。
兵士達がどよめく。
「掠った!」
「総司令が……!」
魔族達にも動揺が走る。
アスカーは舞い落ちる髪へ静かに視線を向けた。そして初めてハルバードを両手で握る。
エリシャは思わず息を呑んだ。
(今まで……片手だったの?)
空気が変わる。
言葉では説明できない圧迫感。
身体が勝手に震えた。
ガイゼルもそれを感じたのか、大剣を握り直す。
互いに動かない。数秒の静寂。
次の瞬間だった。
ガギィィィン!!耳をつんざく衝突音。
いつ動いたのか見えなかった。気付けばハルバードと大剣が激しくぶつかり合っていた。
ガイゼルは歯を食いしばりながら押し返す。そのまま力任せに弾き飛ばし、間髪入れず追撃へ移る。
振り下ろし。
突き。
回転斬り。
休むことなく攻め続ける。アスカーは初めてハルバードで受け始めた。
長柄を滑らせ、受け流し、時には真正面から受け止める。
金属音が絶え間なく響く。
エリシャには、押しているようにしか見えなかった。
しかし。
「違う……」
隣でノエルが小さく呟く。
「え?」
「押されてるのは……司令官」
言われて初めて気付く。ガイゼルは攻め続けている。
なのに、一歩ずつ後ろへ下がっている。押されている。
そして。ガイゼルの呼吸が僅かに乱れた、その瞬間だった。
アスカーが一歩踏み込む。
速い。
見えない。
ハルバードが閃いた。
次の瞬間。鮮血が雪原へ舞った。
何が起きたのか分からなかった。
エリシャの目には、ただ赤い線が空中へ走ったようにしか見えない。
一拍遅れて、重い音が響く。
どさり。
雪へ落ちたのは、ガイゼルの右腕だった。
「――ッ!」
兵士達が息を呑む。ガイゼルは苦悶に顔を歪めながらも、叫び声は上げなかった。
肩口から溢れる鮮血が白銀の雪を赤く染めていく。それでも膝はつかない。
左手一本で大剣を握り直し、アスカーを睨み続ける。
「総司令!」
「総司令官ッ!!」
兵士達の悲鳴が戦場へ響いた。
誰も助けに行けない。足が動かない。目の前で人類最強が追い詰められているというのに。
エリシャも身体が硬直していた。
(速すぎる……)
見えなかった。本当に一瞬だった。
学院で何度もアミルやフィアの戦いを見てきた。
それでも比べ物にならない。人間が認識できる速度ではなかった。
ガイゼルは荒い息を吐きながら、大剣を構え直す。左手だけでは支え切れず、剣先がゆっくりと雪へ沈んでいく。
それでも、その瞳だけは死んでいなかった。
ハルバードが振り上げられる。
その瞬間だった。キィィィィィンッ!!
鋭い金属音が戦場へ響き渡る。
火花が散る。
アスカーのハルバードを受け止めた一本のレイピア。
エリシャは目を見開いた。
「……フィア!」
赤い髪が雪風に揺れる。
フィアはレイピアを強く握り締めたまま、一歩も退かなかった。
「悪いけど」
不敵に笑う。
「その人は、まだ死なせない」
レイピアを押し込み、アスカーのハルバードを弾き返す。
フィアはゆっくりと前へ出た。
ガイゼルを背中へ庇うように。
「下がって」
誰に向けた言葉か、一瞬分からなかった。
フィアは視線をアスカーから逸らさないまま続ける。
「ここから先は――」
レイピアの切っ先を静かに持ち上げる。
「私が相手だ」
フィアの声が、静まり返った戦場へ響く。
誰も言葉を発さなかった。
兵士達も。
魔族達も。
ただ、突然割って入った一人の少女を見つめていた。
エリシャは思わず一歩踏み出す。
「フィア!」
その声にも、フィアは振り返らない。
視線はアスカーだけへ向けられていた。
片腕を失ったガイゼルが苦しげに息を吐く。
「……退け。お前では……勝てん」
フィアは小さく肩を竦めた。
「知ってる」
その一言だけだった。
レイピアを構え直し、アスカーとの距離をゆっくりと詰める。
エリシャの鼓動が速くなる。止めなければ。
そう思うのに、身体が動かない。目の前に立つ男から目を離した瞬間、自分が死ぬ。
そんな確信だけがあった。アスカーは静かにフィアを見つめる。
しばらくの沈黙。雪だけが二人の間へ降り積もる。
エリシャは息を呑む。何が始まる。そう本能が告げていた。
アスカーはハルバードを静かに構え直す。
その切っ先が、ゆっくりとフィアへ向けられる。
低い声が雪原へ響く。
「お前がここにいる理由を示せ」
フィアの表情から笑みが消えた。
その問いにどう答えるのか。エリシャには分からない。
ただ、その背中だけは、不思議なほど大きく見えた。
雪が静かに降り続ける。誰も動かない。
戦場にいる全員が、赤い髪の少女の答えを待っていた。
最後までお読み頂き有難うございます。
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