ep.21 人類最強(ゲシュクール歴789年)
ep.21 人類最強(ゲシュクール歴789年)
夜明け前。
まだ空が白み始めたばかりの頃、基地にラッパの音が響き渡った。
「総員、起床!」
兵士たちは重い身体を起こし、黙々と鎧を身につけていく。
昨日の疲れなど誰も口にしない。今日も戦う。
それが当たり前だった。エリシャも静かに装備を整える。
長剣を腰へ差し、外へ出ると、冷え切った空気が肺を満たした。
吐く息が白く流れていく。食堂では黒パンと薄い野菜のスープが配られていた。
温かいはずなのに、誰も味わって食べてはいない。
ただ身体を動かすためだけに口へ運ぶ。昨日、隣に座っていた兵士の姿はなかった。
誰も理由を聞かない。聞く必要がないからだ。
戦場では、昨日まで生きていた者が翌日にはいなくなる。
それだけの話だった。
食事を終えると、兵士たちは広場へ整列する。
やがてガイゼルが前へ立った。
「本日の目標は、西部第二防衛線の奪還だ」
低く、それでいてよく通る声が基地中へ響く。
「敵主力は依然として西部へ集結している」
「各部隊は担当区域を死守しろ」
「遊撃班は本隊側面を援護する」
「以上だ」
余計な激励はない。
兵士たちは短く返事をし、それぞれの部隊へ散っていく。
第七遊撃班も隊列へ加わった。フィアが地図を確認しながら歩き出す。
「昨日と同じ隊形で行くよ」
「クレイは前衛」
「ノエルは後衛」
「エリシャは私の左」
「了解」
三人の返事が重なる。学院にいた頃なら、誰かが軽口を叩いていた。
けれど今は違う。必要な言葉だけを交わし、雪原を進む。
しばらく歩くと、昨日の戦場が見えてきた。
砕けた盾。折れた槍。焼け焦げた荷馬車。
雪の上には、まだ回収しきれていない亡骸が横たわっている。
昨夜降った雪が、その身体へ静かに積もり始めていた。
エリシャは思わず足を止める。昨日なら、目を逸らしていた。
けれど今は違う。雪に埋もれた亡骸を、ただ静かに見つめている自分がいた。
(……)
胸の奥が、小さく痛んだ。
ふと前方から列が近付いてきた。
避難民だった。
老人が子どもの手を引き、母親は幼い赤子を抱えている。
誰もが疲れ切った顔をしていた。兵士たちは黙って道を譲る。
その中の一人、小さな少女がエリシャの前で立ち止まった。
不安そうな瞳が、まっすぐエリシャを見上げる。
「お父さん、まだ帰ってこないの。お姉ちゃん、お父さん連れてきて」
幼い声だった。
エリシャは少しだけ驚き、返事を少しためらった。
「……うん」
少女は安心したように笑うと、母親のもとへ駆け戻っていった。
その小さな背中を見送りながら、エリシャは長剣の柄を握る。
(守らなきゃ)
昨日は、生き残ることで精一杯だった。
でも今は違う。守りたい人がいる。
守らなければならない人たちがいる。
だから、戦う。その時だった。
――ドォォォンッ!!
遠くで爆発音が響いた。
続いて、伝令兵の叫び声が雪原を駆け抜ける。
「西部第二防衛線、接敵!」
フィアはすぐにレイピアを抜いた。
「みんな、行くよ!」
四人は雪を蹴る。
地平線の向こうでは、黒煙が空を覆っていた。
昨日とは違う。あれはもう、小競り合いではない。
戦争だった。
四人は雪原を駆け抜けた。第二防衛線へ近付くにつれ、空気が変わる。
爆発音。剣戟。兵士たちの怒号。
昨日とは比べ物にならない戦場が目の前に広がっていた。
「左翼が押されてる!」
伝令兵の叫びが響く。
「第七遊撃班は左翼を援護!」
「了解!」
フィアが先頭へ飛び出した。
「エリシャ、左!」
「クレイは正面を押さえて!」
「ノエルは後衛!」
迷いのない指示だった。
「ギャアアッ!」
ゴブリンの群れが一斉に雪原を駆ける。
「行くよ!」
フィアのレイピアが閃く。
一体。
二体。
正確な突きが急所だけを貫いていく。
「クレイ!」
大盾が前へ出る。
ホブゴブリンの棍棒を真正面から受け止め、そのまま体重を乗せて押し返した。
「今です!」
「任せて!」
エリシャが飛び込む。
長剣が横薙ぎに走り、魔物の胴を斬り裂く。
その背後では、
「アイスランス」
ノエルの氷槍が一直線に飛び、逃げようとしたゴブリンの胸を貫いた。
四人の動きには無駄がない。学院で何度も繰り返した連携。
離れていた一年半など感じさせないほど、身体が自然に動いていた。
「助かった!」
救出された兵士が息を吐く。
「学院生の賢者か……?」
「援護を頼む!」
周囲から驚きの声が上がる。
しかし、フィアは振り返らない。
「止まらない!」
「次!」四人はさらに前へ出る。
兵士が叫ぶ。
「左が崩れる!」
ホブゴブリンが三体。
ゴブリン十数体。
フィアが歯を食いしばる。
「多い……!」
その時だった。
「エリシャ!」
聞き覚えのある声が響く。
振り向くと、レオンが大剣を振り抜いていた。
ホブゴブリンがまとめて吹き飛んだ。
「無事だったか!」
「レオン!」
その隣では、リズが呆れたようにため息をつく。
「兄さん、一人で突っ込み過ぎ」
「ははっ! 大丈夫だって!」
「全然、大丈夫じゃないから!」
兄妹は言い合いながらも、息はぴったりだった。
レオンが敵を引きつけ、リズがその隙を正確に突く。
何度も繰り返したのだろう。言葉がなくても動きが噛み合っている。
エリシャは思わず小さく笑った。だが、その穏やかな空気は長く続かなかった。
――ズシン。
雪原が揺れる。
巨大な影が兵士たちの前へ姿を現した。
二メートルを超える体躯。全身を黒い筋肉で覆われた魔物。
手には人間ほどもある巨大な斧を握っている。
「オーガだ!」
兵士の叫び声が響く。
魔物は咆哮を上げると、一気に距離を詰めた。
その一撃だけで兵士が数人吹き飛んだ。
「散開!」
フィアの声と同時に全員が飛び退く。
巨大な斧が地面へ叩き付けられ、雪と土が吹き上がった。
その直後。魔物は標的を変えた。
一直線にリズへ向かって突進する。
「リズ!」
レオンが叫ぶ。リズの前へ飛び込み、大剣を構える。
轟音。斧と剣が激突する。
凄まじい衝撃にレオンの身体が吹き飛ばされた。
「兄さん!」
肩口から鮮血が噴き出す。それでもレオンは笑った。
「妹は……兄貴が守るもんだろ」
リズの表情が歪む。
「馬鹿……!」
レオンは立ち上がろうとする。その時だった。
右腕が、小さく震えた。
大剣の柄が、軋む音を立てるほど強く握り締められている。
エリシャは息を呑んだ。昨日見た震えと同じだった。
レオンはすぐ左手で右腕を押さえ込む。
「兄さん……?」
リズが不安そうに見つめる。
「……平気だ」
笑おうとする。
だが、その笑顔はどこか引きつっていた。
エリシャの胸に、小さな違和感が残る。
(また……)
レオンは震える右腕を必死に押さえ込んでいた。
呼吸が荒い。肩が上下し、額から汗が滴り落ちる。
「兄さん、本当に大丈夫?」
リズが一歩近付く。
「来るな」
低い声だった。
「え……?」
「来るなって言ったんだ」
レオンの声は震えていた。まるで何かと戦っているようだった。
その時。「ガァァァァァァッ!!」
獣の咆哮が戦場へ響き渡る。
レオンの身体から赤黒い魔力が噴き上がった。
筋肉が大きく膨れ上がる。瞳は血のように赤く染まり、握り締めた大剣が軋む音を立てた。
「兄さん!」
リズが叫ぶ。
返事はない。レオンは地面を蹴った。
姿が消える。次の瞬間。ズバァァァッ!!
オーガの胴体が袈裟斬りに裂けた。
鮮血が雪原へ降り注ぐ。兵士たちは息を呑む。
「速い……!」
「なんだあれ……!」
レオンは止まらない。
次々と魔物を斬り裂き、戦場を蹂躙していく。
圧倒的だった。
だが。突然、その足が止まる。
ゆっくりと振り返る。視線の先にいたのは――兵士だった。
「まずい!」
誰かが叫ぶ。レオンは大剣を振り上げる。
「兄さん!」
リズが飛び出そうとする。その前へ一人の男が立った。
ガイゼルだった。
「全員、下がれ」
低い一言。兵士たちは一斉に距離を取る。
レオンが咆哮を上げる。地面を砕きながら突進した。
巨大な大剣が振り下ろされる。しかしガイゼルは半歩だけ身体をずらした。
刃が雪原へ叩き付けられる。その懐へ踏み込む。
「眠れ」
拳が鳩尾へ突き刺さった。
ドゴッ!!
鈍い音とともにレオンの身体が宙へ浮く。
「がっ……!」
苦悶の声を漏らし、そのまま意識を失って雪の上へ崩れ落ちた。
戦場が静まり返る。ガイゼルは振り返ることもなく言う。
「医療班」
その一言だけだった。
衛生兵たちが駆け寄り、レオンを担架へ乗せる。
「兄さん!」
リズは兄の傍らへ膝をつき、その手を強く握った。
「お願い……目を開けて」
返事はない。
ガイゼルは静かに口を開く。
「死んではいない」
リズが顔を上げる。
「極度の興奮で理性を失っただけだ」
「休ませろ」
それだけ言い残すと、ガイゼルは再び前線へ歩き出した。
リズは何度も頷きながら、兄の担架について行く。
その背中を見送りながら、エリシャは胸の奥に残るざわめきを押さえ込んだ。
(あれが……バーサーカー)
一歩間違えれば、仲間まで斬ってしまう。その恐ろしさが脳裏に焼き付いて離れなかった。
戦闘はひとまず落ち着き、第七遊撃班にも束の間の休息が与えられる。
四人は戦場から少し離れた雪原を歩いていた。誰も口を開かない。
レオンを乗せた担架だけが、ゆっくりと基地へ運ばれていく。
フィアはその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「……いったん落ち着いたな」
「うん」
「……エリシャ」
エリシャも足を止める。フィアは少し困ったように笑った。
「さっきは助かった」
少し照れくさそうに笑う。
「……ありがと」
エリシャも小さく笑う。
「……当たり前」
その言葉に、フィアは肩の力を抜いた。
「そうだよね」
少しだけ沈黙が流れる。フィアは雪へ視線を落とした。
「あの時さ」
「仲間なのに、勝手に怒って……ごめん」
エリシャは首を横に振る。
「私も……ちゃんと話さなかった。逃げてた」
フィアは苦笑する。
「じゃあ、お互い様だ」
そう言って右手を差し出した。
「仲直り」
エリシャはその手を見つめる。
学院で何度も並んで歩いた日々が頭をよぎる。
何も言わず、その手を握った。
「うん」
フィアは照れくさそうに笑った。
「これでいつもの四人だ」
その様子を見ていたクレイが、ほっと息を吐く。
「安心しました」
「やっぱり四人は、この形が一番です」
ノエルも静かに頷いた。
「……うん」
四人は顔を見合わせる。
ほんの一瞬だけ。
学院にいた頃と同じ空気が戻っていた。
その時だった。
――ドォォォォォン!!
地面が激しく揺れた。四人は反射的に西の空を見上げる。
遠くで黒煙が立ち昇り、その下では炎が空を赤く染めていた。
「伝令!」
雪煙を巻き上げ、一頭の軍馬が基地へ駆け込んでくる。
兵士は馬から飛び降りると、ガイゼルの前へ膝をついた。
「報告します!」
「西部第二防衛線、突破されました!」
周囲が静まり返る。兵士は震える声で続けた。
「アスカー、西進を続けています!」
ガイゼルは静かに地図を見つめる。
そして短く命じた。
「全部隊、迎撃準備」
兵士たちが一斉に動き出す。
エリシャは燃え上がる西の空を見つめた。
————西部防衛線付近————
雪煙の向こう。
一人の魔族が、ゆっくりと歩いていた。
兵士が震える声で呟く。
「……アスカー」
その男は止まらない。倒れた兵士にも、燃え上がる砦にも、一度も視線を向けることなく歩き続ける。
誰も前へ出られなかった。
戦場にいた誰もが理解していた。
あれは、人が勝てる相手ではない。
その絶望だけが、静かに戦場へ広がっていった。
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