ep.21 人類最強(ゲシュクール暦789年)
第21話 人類最強(ゲシュクール暦789年)
夜明け前、まだ空が白み始めたばかりの頃、基地にラッパの音が響き渡った。
「総員、起床!」
兵士たちは重い身体を起こし、黙々と鎧を身につけていく。昨日の疲れなど、誰も口にしない。
今日もまた戦う。それが、この場所での当たり前だった。
装備を整え、長剣を腰へ差して外へ出ると、冷え切った空気が肺の奥まで満たしていく。吐く息が、白く尾を引きながら流れていった。
食堂では黒パンと薄い野菜のスープ、それに干した腸詰めが配られていたが、味わって食べる者は誰もいない。
身体を動かすための燃料として、機械的に口へ運んでいるだけだった。昨日、隣に座っていた兵士の姿は、もうどこにもなかった。
誰も、その理由を尋ねようとはしない。尋ねる必要すらなかった。
戦場では、昨日まで確かに生きていた者が、翌日には跡形もなくいなくなる。それだけの話だった。
トレーを持って席へ着くと、正面にフィアが座った。何も言わずに、自分の皿の腸詰めを私のトレーへ放って寄越す。
親指ほどの、干からびたものだった。
「なにこれ」
「返す」
それだけ言って、フィアは黙々とスープを啜り始めた。
「……昨日の?」
「一年半も根に持たれちゃ、かなわねぇからな」
顔は上げない。耳だけが、少し赤かった。
言い返せなかった。根に持っていたのは、確かに私のほうだ。
黒パンは硬くて、スープは薄い。それでも、その腸詰めだけは、しばらく口の中に置いておいた。
飲み込んでしまうのが惜しかった。
食事を終えると、兵士たちは広場へ整列する。やがてガイゼルが前へ立った。
「本日の目標は、西部第二防衛線の奪還だ。敵主力は依然として西部へ集結している。各部隊は担当区域を死守しろ。遊撃班は本隊側面を援護する」
低く、それでいてよく通る声が基地中へ響き渡る。余計な激励は、一言もなかった。
兵士たちは短く返事をし、それぞれの部隊へ散っていく。第七遊撃班も、その隊列へ加わった。
フィアが地図を確認しながら歩き出す。
「昨日と同じ隊形で行くよ。クレイは前衛。ノエルは後衛。エリシャはアタシの左」
「了解」
三人の返事が重なった。だが今は、必要な言葉だけを交わし、黙々と雪原を進んでいく。
しばらく歩くと、昨日の戦場が見えてきた。砕けた盾。
折れた槍。焼け焦げた荷馬車。
雪の上には、まだ回収しきれていない亡骸が横たわっている。昨夜降った雪が、その身体へ静かに積もり始めていた。
思わず足が止まる。昨日までの自分なら、目を逸らしていたはずだった。
それなのに今は、雪に埋もれていくその亡骸を、ただじっと見つめている自分がいる。
感覚が麻痺してしまったのか、それとも、これが戦場に慣れるということなのか。胸の奥が、鈍く痛んだ。
柔らかかった部分に、薄い皮が一枚張り始めているような感覚だった。
ふと、前方から一列の人影が近付いてきた。避難民だった。
老人が子どもの手を引き、母親は幼い赤子を抱えている。誰の顔にも、隠しようのない疲労が刻まれていた。
兵士たちは無言のまま、その列へ道を譲っていく。
その時だった。――ドォォォンッ!! 遠くで爆発音が響く。
続いて、伝令兵の叫び声が雪原を駆け抜けた。
「西部第二防衛線、接敵!」
フィアが即座にレイピアを抜く。
「みんな、行くよ!」
四人は雪を蹴り、地平線の向こうに広がる黒煙へ向かって走り出した。昨日とは、明らかに違う。
あれはもう、小競り合いなどという生易しいものではない。紛れもない、戦争そのものだった。
第二防衛線へ近付くにつれ、空気が張り詰めていく。爆発音、剣戟の響き、兵士たちの怒号。
昨日とは比べ物にならない規模の戦場が、目の前に広がっていた。
「左翼が押されてる!」
伝令兵の叫びに、フィアが即座に反応する。
「第七遊撃班は左翼を援護!」
「了解!」
先頭へ飛び出したフィアが、迷いのない声で告げる。
「エリシャ、左! クレイは正面を押さえて! ノエルは後衛!」
「ギャアアッ!」
ゴブリンの群れが一斉に雪原を駆けてくる。フィアのレイピアが閃き、正確な突きが急所だけを次々と貫いていった。
「クレイ!」
大盾が前へ出る。ホブゴブリンの棍棒を真正面から受け止めた。
――だが、その盾はすぐに横へ動いた。
「そっちは自分でどうにかしてください!」
クレイが向かったのは、私でもフィアでもなかった。倒れたまま動けずにいる、名も知らぬ兵士の前だった。
次の瞬間には、その判断が正しいと分かった。私は避けられる。
フィアも避けられる。あの兵士だけが、避けられない。
クレイは、いつもそれを考えている。
「今です!」
「任せて!」
飛び込む。長剣が横薙ぎに走り、魔物の胴を斬り裂いた。
その背後では、ノエルが杖を掲げていた。
「《アイスランス》」
ノエルの氷槍が一直線に飛び、逃げようとしたゴブリンの胸を貫く。四人の動きに、無駄はなかった。
学院で幾度となく繰り返してきた連携が、離れていた一年半という時間を感じさせないほど、自然に身体を突き動かしている。
「助かった!」
救出された兵士が息を吐く。
「学院生の賢者か……? 援護を頼む!」
周囲から、驚きの声が上がった。だが、フィアは振り返らない。
「止まらない! 次!」
四人はさらに前へと進む。兵士が叫んだ。
「左が崩れる!」
ホブゴブリンが三体、ゴブリンが十数体。フィアが歯を食いしばる。
「多い……!」
その時だった。
「エリシャ!」
聞き覚えのある声が響く。振り向くと、レオンが大剣を振り抜き、ホブゴブリンをまとめて吹き飛ばしていた。
「無事だったか!」
「レオン!」
その隣で、リズが呆れたようにため息をつく。
「兄さん、一人で突っ込み過ぎ」
「ははっ! 大丈夫だって!」
「全然、大丈夫じゃないから!」
言い合いながらも、兄妹の息はぴったりと合っていた。レオンが敵を引きつけ、リズがその隙を正確に突く。
何度も繰り返してきたのだろう、言葉を交わさずとも動きが噛み合っている。思わず小さく笑みがこぼれた。
だが、その穏やかな空気は、長くは続かなかった。――ズシン。
雪原が、重く揺れる。三メートルを超える体躯、全身を黒い筋肉で覆われた魔物が、兵士たちの前へ姿を現した。
手には、人間ほどもある巨大な斧を握っている。
「オーガだ!」
兵士の叫び声が響く。魔物は咆哮を上げると、一気に距離を詰めた。
その一撃だけで、兵士が数人まとめて吹き飛ぶ。
「散開!」
フィアの声と同時に、全員が飛び退いた。巨大な斧が地面へ叩き付けられ、雪と土が高く舞い上がる。
次の瞬間には、フィアが踏み込んでいた。
「フィア!」
止める間もない。レイピアがオーガの脇腹を捉える。
刃は、確かに突き刺さった。――浅い。
分厚い脂肪と筋肉が、切っ先をそこで止めていた。オーガは痛がりもしない。
丸太のような腕が、無造作に振り抜かれる。フィアの身体が雪原を転がった。
「っ、痛……!」
それでも、すぐに起き上がる。もう一度レイピアを構え直した。
構え直して、そこで止まった。突く場所がない。
フィアの剣は、急所を一突きで抜くための剣だ。急所まで届かない相手には、何もできない。
その直後、魔物は標的を変えた。一直線に、リズへ向かって突進していく。
「リズ!」
レオンが叫び、リズの前へ飛び込むと大剣を構えた。轟音とともに、斧と剣が激突する。
凄まじい衝撃に、レオンの身体が吹き飛ばされた。
「兄さん!」
肩口から鮮血が噴き出す。それでも、レオンは笑った。
「妹は……兄貴が守るもんだろ」
リズの表情が、大きく歪む。
「馬鹿……!」
レオンが立ち上がろうとする。その時だった。
右腕が、小さく震え出す。大剣の柄が、軋むほどの力で握り締められていた。
息を呑む。昨日見たあの震えと、まったく同じだった。
レオンはすぐに左手で右腕を押さえ込む。
「兄さん……?」
リズが不安そうに見つめる。
「……平気だ」
笑おうとする。だが、その笑顔は、明らかに引きつっていた。
胸の奥に、小さな違和感がまた重く残る。
(また……)
レオンは震える右腕を必死に押さえ込もうとしていた。呼吸が荒く、肩が大きく上下し、額から玉のような汗が滴り落ちる。
「兄さん、本当に大丈夫?」
リズが、一歩近付こうとする。
「来るな」
低い声だった。
「え……?」
「来るなって言ったんだ」
レオンの声は、はっきりと震えていた。まるで、自分自身の内側にいる何かと、必死に戦っているようだった。
その時。
「ガァァァァァァッ!!」
獣の咆哮が、戦場全体へ響き渡る。レオンの身体から、赤黒い魔力が噴き上がった。
筋肉が急激に膨れ上がり、瞳は血のように赤く染まっていく。握り締めた大剣が、軋んだ音を立てた。
「兄さん!」
リズが叫ぶ。返事はない。
レオンが地面を蹴り、その姿が一瞬で掻き消えた。次の瞬間――ズバッ。
オーガの胴体が、袈裟斬りに深く裂ける。鮮血が雪原へ降り注ぎ、兵士たちが一斉に息を呑んだ。
「速い……!」
「なんだあれ……!」
レオンは止まらない。次々と魔物を斬り裂き、戦場そのものを蹂躙していく。
その光景は、あまりにも圧倒的だった。だが突然、その足が止まる。
ゆっくりと振り返った視線の先にいたのは――一人の兵士だった。
「まずい!」
誰かが叫ぶ。レオンが、大剣を振り上げる。
「兄さん!」
リズが飛び出そうとする。その前へ、一人の男が静かに立った。
ガイゼルだった。
「全員、下がれ」
低い一言に、兵士たちが一斉に距離を取る。レオンが咆哮を上げ、地面を砕きながら突進した。
巨大な大剣が振り下ろされる。だが、ガイゼルは半歩だけ身体をずらし、刃は虚しく雪原へ叩き付けられただけだった。
その懐へ、迷いなく踏み込んでいく。
「眠れ」
拳が、鳩尾へ突き刺さった。鈍い音とともに、レオンの身体が宙へ浮く。
「がっ……!」
苦悶の声を漏らし、そのまま意識を失って雪の上へ崩れ落ちた。戦場に、静寂が戻る。
ガイゼルは振り返ることもなく、短く告げた。
「医療班」
それだけだった。衛生兵たちが駆け寄り、レオンを担架へ乗せていく。
「兄さん!」
リズが兄の傍らへ膝をつき、その手を強く握り締める。
「お願い……目を開けて」
返事はない。ガイゼルが口を開いた。
「死んではいない。極度の興奮で理性を失っただけだ。休ませろ」
それだけ言い残し、再び前線へと歩き出す。リズは何度も頷きながら、兄の担架について行った。
その背中を見送りながら、胸の奥に残るざわめきを、どうにか押さえ込む。
(あれが……バーサーカー)
一歩間違えれば、味方さえ斬り捨てかねない。その恐ろしさが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
力とは、時としてそれを持つ者自身を最も傷つける刃にもなるのだと、思い知らされた。レオンを乗せた担架だけが、ゆっくりと基地へ運ばれていく。
フィアはその背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。その時だった。
――ドォォォォォン!! 地面が激しく揺れる。反射的に、西の空を見上げた。
遠くで黒煙が立ち昇り、その下では炎が空を赤く染めている。
「伝令!」
兵士はガイゼルの前へ膝をつく。
「報告します! 西部第二防衛線、突破されました!」
周囲が静まり返る。兵士は、震える声で続けた。
「アスカー、東進を続けています!」
ガイゼルは地図へ目を落とし、短く命じる。
「全部隊、迎撃準備」
兵士たちが一斉に動き出した。燃え上がる西の空を、じっと見つめる。
――幕間 西部防衛線付近――
雪煙の向こう、一人の魔族が、ゆっくりと歩いていた。
「……アスカー」
兵士が震える声で呟く。その男は、決して止まらない。
倒れた兵士にも、燃え上がる砦にも、一度たりとも視線を向けることなく、ただ真っ直ぐに歩き続けていた。誰も、前へ出ることができなかった。
この戦場にいる誰もが、本能のレベルで理解していた。あれは、人が勝てる相手ではない。
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