ep.19 王国軍(ゲシュクール歴789年)
荷馬車は北へ進み続けた。
王都を離れるにつれ、街道を行き交う人影は少なくなっていく。
窓の外に広がる景色も、少しずつ色を変えていた。
春の訪れを感じさせた王都とは違う。北部には、まだ冬が残っていた。
山肌には雪が積もり、吹き抜ける風は肌を刺すように冷たい。
街道脇には焼け落ちた建物が点在し、黒く焦げた木々が立ち並ぶ。
屋根だけを残した民家。崩れ落ちた石壁。放棄された畑。
人の営みがあった痕跡だけが、静かに残されていた。
避難民を乗せた馬車と何度もすれ違う。
子どもが通り過ぎる兵士へ深く頭を下げた。
街道沿いには新しい墓標が、途切れることなく並んでいた。
「……」
荷馬車の中も静かだった。誰も無駄な話はしない。
外の景色が、これから向かう場所を十分すぎるほど物語っていた。
やがて前方に巨大な城壁が見えてくる。灰色の石で築かれた高い防壁。
何本もの見張り塔。壁の上では弓兵たちが周囲を警戒している。
その中央には、大きく開かれた門。王国軍北部前線基地。
荷馬車は速度を落とし、その門をくぐった。基地の中は、まるで一つの街だった。
兵士たちが慌ただしく行き交い、補給部隊が荷車を押して走る。
鍛冶場では槌を打つ音が鳴り響き、治療所では包帯を巻かれた兵士たちが列を作っていた。
遠くから怒号が聞こえる。
馬のいななき。
鉄がぶつかる音。
負傷兵のうめき声。
そして、風に乗って運ばれてくる血の匂い。
学院とはまるで違う世界だった。
「……これが、戦場」
ノエルが思わず漏らす。
「降りろ」
ガイゼルの短い声が響く。私たちは荷馬車から降り立った。
冷たい風がローブを揺らす。
「休憩は一時間。その後、部隊編成を行う」
それだけ告げると、ガイゼルは振り返ることなく歩き去った。
説明はない。
激励もない。
軍では、それが当たり前なのだろう。
エリシャたちは広場へ集められた。
しばらくすると、一枚の大きな掲示板が運ばれてくる。
兵士が名簿を張り出した。
「部隊編成だ」
生徒たちが一斉に集まり始める。
エリシャとノエルと並んで掲示板へ近づいた。
そこには班ごとの名簿が並んでいる。
ゆっくりと視線を動かす。
――第七遊撃班。
その文字の下には、四つの名前が並んでいた。
エリシャ。
ノエル。
フィア。
クレイ。
思わず目を止める。
「ここで一緒になるのか……」
後ろから、小さな声が聞こえた。
振り向く。
フィアだった。
少し離れた場所にはクレイも立っている。
「……偶然、かな」
クレイが苦笑する。
エリシャは答えられなかった。
ノエルだけが静かに口を開く。
「よろしく」
短い一言。
フィアは少しだけ迷うような表情を見せた後、小さく頷いた。
「……よろしく」
一年半ぶりに交わした言葉は、それだけだった。
ぎこちない沈黙が四人の間に流れる。
以前なら、班が同じだと分かっただけで大騒ぎしていた。
そんな日々は、もう遠い。
「おーい!」
聞き慣れた大きな声が広場へ響いた。
レオンだった。傍らにはリズもいる。
二人の腕には、傭兵団の腕章が巻かれていた。
「また会ったな!」
レオンは豪快に笑う。
「俺たちは別部隊だけど、近くで戦うことになるらしい」
「何かあったら助けてくれよ!」
冗談交じりに笑うその姿に、思わずフィアの口元も少しだけ緩んだ。
その時だった。
カ――――ン。
乾いた鐘の音が基地中へ響き渡る。
一度。
二度。
三度。
広場の空気が一瞬で変わる。
兵士たちが一斉に持ち場へ走り出した。
「斥候部隊帰還!」
誰かが叫ぶ。
門の向こうから数人の兵士が駆け込んできた。
鎧は傷だらけ。
血に染まり、肩を貸し合いながら歩いている。
広場から笑い声が消えた。
兵士の一人がガイゼルの前へ膝をつく。
「報告します!」
息を切らしながら叫ぶ。
「魔族の先遣隊を確認!こちらへ向かっています!」
静まり返る基地。
ガイゼルは表情一つ変えず、静かに命じた。
「全部隊、戦闘準備」
その一言で、基地全体が動き始めた。
エリシャは無意識にローブの裾を握り締める。
卒業試験。
エリシャはようやく理解した。
この試験は、卒業するための試験じゃない。
生き残るための試験だった。
王国軍基地の正門が、重々しい音を立てて開き始める。
冷たい風が城壁の隙間を吹き抜け、雪混じりの空気が流れ込んできた。
ガイゼルは広場を見渡し、低く告げる。
「全部隊、出撃準備」
その一言だけだった。
兵士たちは迷うことなく動き始める。
鎧を締め直す者。
武器を受け取る者。
馬へ飛び乗る騎兵。
誰一人として無駄な動きをしない。
一方で、卒業予定の学院生たちは違った。
「ど、どうすればいいんだ……!」
「隊列は?」
「武器は持ったけど、このままでいいのか?」
「先生はいないの?」
焦りが広場へ一気に広がる。
学院では違った。
訓練が始まれば教師が指示を出し、危険になれば止めてくれた。
だが、ここは戦場だった。
誰も教えてはくれない。
誰も守ってはくれない。
恐怖だけが、生徒たちの足を止めていた。
その時だった。
「――落ち着いて!」
広場によく通る声が響く。
フィアだった。
赤い髪を揺らしながら、一歩前へ出る。
「慌てても状況は変わらない!」
その一声だけで、ざわめきが少しずつ静まっていく。
「武器と装備を確認しろ!」
「勝手に動くな!」
「班ごとに固まって!」
「一人になるな!」
迷いのない指示だった。
学院で何度も班をまとめてきた彼女らしい声。
その姿に、生徒たちも次第に冷静さを取り戻していく。
「……そうだ、まず装備だ」
「魔石は持ったか?」
「回復薬も確認しろ!」
止まりかけていた歯車が、ゆっくりと動き始めた。
クレイも前へ出る。
「深呼吸しよう」
穏やかな声だった。
「焦る気持ちはみんな同じだ。でも、一人で抱え込まなくていい」
「隣には仲間がいる」
その言葉を聞き、生徒たちは大きく息を吐く。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
エリシャは何も言えなかった。
一年半ぶりだった。
それでもフィアは変わらない。
誰よりも前へ立ち。
誰よりも仲間を引っ張っていく。
エリシャが立ち止まっている間にも、彼女は迷うことなく前へ進んでいた。
少し離れた場所では、ガイゼルが腕を組んでその様子を見ていた。
隣に立つ副官が、小さく口を開く。
「学院生にしては、統率が取れています」
ガイゼルは赤い髪の少女へ視線を向ける。
「……あの赤髪」
短く呟く。
「指揮ができるな」
それだけ言うと、再び前を向いた。
評価も賞賛もない。
ただ事実だけを口にした一言だった。
やがて出撃のラッパが鳴り響く。
「第七遊撃班!」
兵士が名簿を確認しながら叫ぶ。
「前へ!」
エリシャたちは互いに顔を見合わせ、小さく頷いた。
城門の向こうには、雪の残る丘陵地帯が広がっている。
冷たい風が頬を撫でた。
遠く。
白い雪原の上に、小さな黒い影が見えた。
一つ。
二つ。
十。
数十。
魔物だった。
「行くよ」
フィアがレイピアを抜く。
その横でクレイが盾を構える。
ノエルは静かに杖を握り締めた。
エリシャも長剣へ手を添える。
その時、別方向へ向かう傭兵部隊の中から聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい!」
レオンだった。
「死ぬなよ!」
フィアは少しだけ笑う。
「そっちこそ!」
ほんの一瞬だけ、一年半前の空気が戻る。
しかし、それもすぐに消えた。
ガイゼルが右手を振り下ろす。
「迎撃開始」
その号令と同時に、王国軍は一斉に前進した。
エリシャたちの初陣が、始まった。
ガイゼルの号令と同時に、王国軍は一斉に前進した。
雪を踏みしめる足音が大地を揺らす。
盾兵が前へ。
その後ろを槍兵が続き、さらに後方では弓兵たちが一斉に弦を引き絞った。
学院の訓練とは違う。一糸乱れぬ陣形。無駄のない動き。
その姿だけで、この軍が幾度となく戦場を生き抜いてきたことが伝わってきた。
「来るぞ!」
前方の兵士が叫ぶ。雪原の向こうから黒い影が一斉に駆け出した。
ゴブリン。
ホブゴブリン。
牙を剥き、獣のような雄叫びを上げながら雪煙を巻き上げて迫ってくる。
「弓兵、放て!」
次の瞬間、無数の矢が空を裂いた。数体の魔物が雪の上へ倒れる。
しかし残りは怯むことなく突撃してくる。
「前衛、迎え撃て!」
盾と盾がぶつかり合い、金属音が辺りへ響き渡る。
怒号。
咆哮。
剣戟。
静寂だった雪原は、一瞬で血煙の舞う戦場へと姿を変えた。
「行くよ!」
フィアが真っ先に駆け出す。
レイピアが鋭く閃いた。
突き。
返し。
流れるような連撃。
一体目の喉を貫き、そのまま二体目の肩口を切り裂く。
噴き出した血が白い雪へ飛び散った。
「クレイ!」
「任せてください!」
クレイが盾を叩きつける。
鈍い音とともにホブゴブリンの身体が大きく仰け反る。
その一瞬の隙を逃さず、フィアのレイピアが胸を貫いた。
後方ではノエルが静かに杖を掲げる。
「アイスランス」
幾本もの氷槍が一直線に飛び、ゴブリンの胸を貫通した。
エリシャは長剣を抜き、前へ出る。
初めての実戦。鼓動だけが耳の奥で鳴り響いていた。
辺りでは兵士の腕が宙を舞い、
魔物の断末魔と人間の悲鳴が入り混じる。
雪は踏み荒らされ、
白ではなく赤黒い泥へ変わっていた。
その時だった。
「うああああっ!」
悲鳴が響く。
振り向くと、一人の若い兵士がゴブリンに組み伏せられていた。
「た、助け――」
叫びは最後まで続かなかった。
ゴブリンの短剣が喉元へ深々と突き刺さる。
肉を裂く鈍い音。
次の瞬間、温かな鮮血が噴き上がり、真っ白な雪を一瞬で赤く染めた。
兵士は必死に両手で傷口を押さえる。
だが、指の隙間から血は止めどなく溢れ続けていた。
「……ぁ……」
口を開くたび、赤黒い血泡がこぼれる。
何かを伝えようとしていた。
家族の名だったのか。
仲間への言葉だったのか。
それは誰にも分からない。
兵士の瞳からゆっくりと光が失われ、その身体は力なく雪の上へ崩れ落ちた。
鉄臭い血の匂いが鼻を刺す。
胃の奥が締め付けられる。
エリシャは動けなかった。
学院では誰も死ななかった。
訓練には終わりがあった。
けれど、この場所には終わりがない。
死は、あまりにも突然だった。
エリシャは一体目のゴブリンを斬り伏せる。
続けざまに二体目へ剣を向ける。
――その瞬間だった。
「エリシャ!」
フィアの叫び声が耳を打つ。
その瞬間、背後から殺気が迫った。
反射的に身体が動く。
踏み込む。
長剣が流れるような軌道を描いた。
一閃。
刃がゴブリンの首筋を切り裂く。
鮮血が弧を描き、雪へ飛び散った。
魔物は喉を押さえながら数歩よろめき、そのまま崩れ落ちる。
エリシャは思わず長剣を見つめた。
(……今のは)
初めての動きだった。
教わった覚えもない。
それなのに、身体だけが知っていた。
胸の奥に、小さな違和感だけが残る。
「まだ来ます!」
クレイの声で我に返る。
「右から回り込まれる!」
「ノエル、左!」
「クレイ!押さえて!」
エリシャは長剣を握り直し、再び前へ出た。
戦闘は十分ほどで終わった。
最後の一体が倒れると、雪原に静寂が戻る。
吐く息だけが白く空へ溶けていく。
勝った。
それでも誰も笑わない。
兵士たちは黙って仲間の亡骸を運び始める。
負傷者は治療班へ。
倒れた魔物も兵士も、区別なく雪の上に横たわっていた。
勝っても、人は死ぬ。それが戦場だった。
その時だった。
一人の伝令兵が全力で駆け込んできた。
「伝令!」
肩で息をしながら、ガイゼルの前へ膝をつく。
「報告します!西部第三防衛線、突破されました!」
広場に緊張が走る。
ガイゼルは静かに問い返した。
「敵は」
伝令兵の喉が小さく鳴った。
先ほどまで魔物と戦っていた兵士たちとは違う。
もっと深い恐怖が、その顔に浮かんでいた。
「……アスカーです」
その名が告げられた瞬間だった。
周囲の兵士たちが一斉に息を呑む。
「まさか……」
「もう来たのか……」
「西部が落ちたのか……」
ざわめきが静かに広がる。
ガイゼルだけは表情を変えなかった。
ほんのわずかに目を細めると、低く命じる。
「全部隊、警戒態勢を維持」
「西部へ増援を送れ」
「情報を各戦線へ伝達しろ」
「はっ!」
兵士たちは慌ただしく走り出す。
誰もが「アスカー」という名前だけで緊張を強めていた。
私はその場に立ち尽くくす。
(アスカー……?)
初めて聞く名前だった。
それなのに。
歴戦の兵士たちでさえ、その名を聞いた瞬間に顔色を変えた。
その理由を。
エリシャは、まだ知らない。




