ep.18 卒業試験(ゲシュクール歴789年)
――それから一年半。
長かった冬も終わりを迎えようとしていた。
頬を撫でる風はまだ冷たい。
それでも真冬の刺すような寒さは和らぎ、どこか春の気配を感じさせていた。
中庭の雪はほとんど解け、石畳の隅では小さな草花が顔を覗かせている。
季節は止まることなく巡っていた。
人は季節とともに成長し、歳を重ねる。
けれど私は、あの日から何一つ変わっていない。
鏡に映る十七歳の少女。
銀色の髪も、青銀の瞳も。
一年半という時間すら、私の姿を変えることはなかった。
時だけが、私を置き去りにしていく。
遠くで鐘が鳴った。
澄み切った冬空へ吸い込まれるような音色が学院中へ響き渡る。
卒業試験当日を告げる鐘だった。
私は窓を閉め、静かにローブを羽織る。
試験終了後、学院生活は終わる。
そう思うと、不思議と実感は湧かなかった。
部屋を出ると、磨き上げられた廊下には朝日が差し込み、床板を淡く照らしていた。
静かな足音だけが廊下に響く。
「おはよう、エリシャ」
ノエルだった。
腰まで伸びた黒髪を揺らし、柔らかく微笑んでいる。
「おはよう」
短い挨拶。
一年半前と何一つ変わらない朝。
変わってしまったものが多すぎるからこそ、その変わらなさが少しだけ心を落ち着かせてくれた。
二人で寮を出る。朝の学院は活気に満ちていた。
訓練場からは木剣を打ち合う乾いた音。
食堂から漂う焼きたてのパンの香り。
1年生たちが、足早に校舎へ向かっていく。
その横を、慣れた様子で歩く上級生たち。
見慣れない顔が増えた。
その代わり、見慣れた顔は少しずつ学院から消えていった。
卒業した者。志半ばで去った者。
学院はそうして、新しい世代へ受け継がれていく。
一年半という時間は、それだけ多くの出会いと別れを積み重ねてきたのだ。
「一年生、ずいぶん落ち着いてきたね」
ノエルが歩きながら呟く。
「そうだね」
制服は同じでも、顔には見覚えがない。
私たちも昔は、あんなふうに未来だけを見て歩いていた。
「ほら、早く!」
フィアが満面の笑みで振り返る。
春の陽射しを浴びた赤い髪が、風に揺れていた。
あの笑顔を見るだけで、不思議と足取りが軽くなった。
クレイは困ったように肩をすくめながら、その後を追い掛ける。
ノエルは小さく笑い、私はそんな三人を少し後ろから眺めていた。
賑やかで、何気ない毎日。
あの頃は、それが永遠に続くものだと思っていた。
あの日からほどなくして、フィアとクレイは別の寮へ移った。
私は、一度もその宿舎を訪れていない。
向こうも来ることはなかった。
廊下ですれ違えば、小さく会釈を交わすだけ。
四人で食堂へ向かうことも。
依頼の帰り道に寄り道をすることも。
休日に街を歩くことも。
あの日を境に、私たちは別々の時間を歩いていた。
「……エリシャ?」
気づけば立ち止まっていた。
心配そうに覗き込むノエルと目が合う。
「ごめん。少し昔のことを思い出してた」
「そっか」
ノエルはそれ以上何も聞かなかった。
聞かないことが優しさになる時もある。
この一年半で、彼女はそれを知ったのだろう。
私は何度、その優しさに救われただろうか。
「行こう」
「うん」
冷たい風がローブを揺らした。
空を見上げる。雲ひとつない青空だった。
あの日も、こんな空だった気がする。
再び歩き出す。
校舎の向こうには、大講堂が見えていた。
学院生活最後の舞台だ。
入口には受験者名簿が掲示され、多くの生徒が足を止めている。
私は人混みの間から、その名簿へ目を向けた。
エリシャ。
ノエル。
フィア。
クレイ。
四人の名前が並んでいた。
一年半ぶりに並んだ、その四つの名前。
胸の奥が小さく痛む。
学院で四人の名前が並ぶことは、きっともう二度とない。
私は小さく息を吸い込むと、ノエルと並んで大講堂の扉へ向かった。
重厚な扉がゆっくりと開く。
私たちの卒業試験が、静かに始まった。
大講堂へ足を踏み入れると、すでに卒業予定の生徒たちが席についていた。
普段は授業や式典で使われる講堂も、今日だけは空気が違う。
小さな話し声は聞こえるものの、誰もがどこか緊張した面持ちだった。
私とノエルは空いている席へ腰を下ろす。
周囲を見渡す。
フィアとクレイの姿も見えた。
以前なら手を振り合っていただろう。
けれど今は、お互い視線を向けることもない。
一年半という時間は、距離を縮めることなく過ぎてしまった。
やがて講堂の扉が開く。一人の少女が静かに壇上へ歩み出た。
緑がかった長い髪。
エリシャと同じ十七歳ほどの少女の姿。
しかし、その場にいる誰も彼女を生徒とは思わない。
学院統括監――メリル。
学院を統べる賢者の一人であり、生徒たちにとっては雲の上の存在だった。
ざわめいていた講堂が静まり返る。
メリルは全員を見渡すと、静かに口を開いた。
「卒業予定者諸君」
穏やかな声。
それだけで講堂の空気が引き締まる。
「本日より、卒業試験を開始します」
誰一人として口を開かない。
「今回の試験は、王国軍との合同任務です」
講堂のあちこちで息を呑む音が聞こえた。
「諸君らは学院生としてではなく、一人の賢者として戦場へ赴きます」
「現地では王国軍の指揮系統に従い、各任務へ参加してください」
「今回の試験結果は卒業判定だけでなく、卒業後の進路にも反映されます」
卒業試験。
その言葉とは裏腹に、内容は実戦だった。
戦場には魔族がいる。
当然、死者が出る可能性もある。
講堂を包む静寂が、その事実を物語っていた。
メリルは一呼吸置く。
「最後に、今回の作戦を統括される王国軍最高司令官をご紹介します」
メリルは静かに一礼すると、一歩だけ後ろへ下がった。
講堂後方の扉が、ゆっくりと開く。
重い軍靴の音が静寂の中へ響いた。姿を現したのは、一人の男だった。
短く刈り込まれた白髪。幾筋もの傷が刻まれた鋭い顔立ち。
濃紺の軍服を隙なく着こなし、その胸には王国軍最高司令官を示す紋章が輝いている。
ただ歩くだけで、講堂の空気が変わる。
誰一人、その足音から目を逸らせなかった。
戦場を何十年も生き抜いてきた者だけが持つ圧倒的な威圧感。
男は演台へ立つと、生徒たちをゆっくり見渡した。
「王国軍最高司令官、ガイゼルだ」
低く響く声。
それだけで講堂の空気がさらに張り詰める。
「学生だからといって特別扱いはしない」
「戦場では身分も年齢も関係ない」
「賢者は最前線へ配置する」
「命令に従え」
淡々とした口調だった。
だが、その一言一言には、何百という死を見届けてきた者だけが持つ重みがあった。
私は思わず息を呑む。
学院は人を育てる場所。
戦場は、人が死ぬ場所。
私たちは今、その境界を越えようとしていた。
ガイゼルは最後に短く言った。
「以上だ」
それだけだった。
余計な激励もない。
希望を語ることもない。
現実だけを突きつける言葉だった。
説明会が終わる。
生徒たちは静かに席を立ち始めた。
誰も大声では話さない。
これから向かう場所が、訓練場ではないことを理解していたからだ。
私はノエルとともに講堂を後にする。
その途中、不意に前方でフィアとクレイの姿が目に入った。
一瞬だけ、目が合う。
フィアの唇がわずかに動く。
何かを言おうとして――やめた。
私も何も言えなかった。
小さく会釈を交わし、そのまますれ違う。
それだけだった。
一年半という時間は、「久しぶり」の一言さえ奪ってしまっていた。
大講堂を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
吐く息はもう白くならない。冬は終わろうとしていた。
広場には卒業予定の生徒たちが集まり、慌ただしく出発の準備を進めている。
王国軍が用意した荷馬車が何台も並び、その横では兵士たちが食料や武器を積み込んでいた。
金属がぶつかる音。
馬のいななき。
兵士たちの短い号令。
学院の穏やかな空気とはまるで違う。
ここから先は、戦場へ向かう者たちの世界だった。
「おい、エリシャ!」
聞き覚えのある声に振り返る。
「レオン」
革鎧に身を包み、大剣を背負った青年が大きく手を振っていた。
隣にはリズも立っている。一年ぶりだった。
「久しぶりだな!」
レオンは昔と変わらない笑顔を見せる。
けれど、以前の少年らしさは少し薄れていた。
日に焼けた肌。逞しくなった肩。
使い込まれた革鎧には幾つもの補修跡が残り、背中の大剣にも細かな傷が刻まれている。
この一年、彼もまた戦い続けてきたのだろう。
「久しぶり」
自然と笑みがこぼれた。
「リズも元気そうだね」
「はい、お久しぶりです」
リズは柔らかく微笑む。
肩までだった髪は胸元まで伸び、幼さの残っていた表情にも少しだけ大人びた落ち着きがあった。
「似合ってるよ。その鎧」
「だろ?あれから傭兵になったんだ」
レオンが胸を張る。
「王国軍から依頼を受けることも増えてさ。今回は護衛任務だ」
「もう立派な傭兵なんだね」
「まだまだ駆け出しだけどな!」
豪快に笑う。
その笑い声だけは、一年半前と何も変わっていなかった。
少し離れた場所で、フィアがこちらを見ていた。
レオンも気づく。
「……まだ仲直りしてないのか」
私は答えなかった。
答えなくても、レオンには分かったようだった。
「そっか」
それ以上は聞かない。彼らしい優しさだった。
「各隊、乗車開始!」
兵士の号令が広場へ響く。
談笑はそこで終わった。
「また後でな!」
レオンは大きく手を振る。
「気を付けて」
リズも静かに頭を下げた。
私とノエルは荷馬車へ乗り込む。
木製の座席は硬く、車輪が動き始めるたびに小さく軋んだ。
やがて隊列がゆっくりと動き出す。
学院の正門を抜け、王都の街並みを進んでいく。
石造りの建物。朝市の準備をする商人。
元気よく走り回る子どもたち。
見慣れた景色が窓の外を流れていく。
不意に、図書館の前で見覚えのある姿が目に入った。
「・・・ロイドさん」
ロイドだった。
両腕いっぱいに本を抱え、いつものように図書館へ向かって歩いている。
こちらに気付くと、小さく目を丸くした。
そして穏やかに微笑み、軽く手を振る。
私も振り返す。
一年半。その時間はロイドにも刻まれていた。
目尻には以前より深い皺が増え、こめかみには白い髪が少しだけ混じっている。
優しい笑顔は変わらない。けれど、確かに歳を重ねていた。
時間は誰にでも平等に流れる。
私達を除いて。
その時だった。
「先生ー!」
図書館の中から、小さな声が響く。
勢いよく飛び出してきた少女が、ロイドの隣へ駆け寄る。
ルルだった。
胸に何冊もの本を抱えながら、こちらを見る。
「あっ!」
私たちに気付き、大きく手を振る。
背が少し伸びていた。
髪も以前より長くなり、あどけなさの中に少女らしい面影が見え始めている。
あの小さかったルルも、この一年半で成長したのだ。
私は窓から静かに手を振り返した。ルルは嬉しそうに何度も手を振る。
その横で、ロイドが困ったように笑っていた。
荷馬車は止まらない。少しずつ二人が遠ざかっていく。
やがて姿は人混みに紛れ、見えなくなった。
私は静かに窓から視線を外す。
変わっていく人たち。
成長していく人たち。
歳を重ねていく人たち。
私は、その誰とも違う。
十七歳の姿のまま、また一つ季節だけを見送っていく。
荷馬車は王都を抜け、北へ向かう街道を走り続ける。
遠くには、まだ雪の残る山々が見えていた。
その向こうに待つのは戦場。
卒業試験は、まだ始まったばかりだった。
最後までお読み頂き有難うございます。
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