ep.17 決別(ゲシュクール歴787年)
――――統括監室。
静かに扉が閉まる。
廊下の喧騒は完全に遮られ、部屋には張り詰めた静寂だけが残った。
質素な部屋だった。壁一面に並ぶ本棚。年季の入った木製の机。
飾り気のない室内は、学院の最高責任者の部屋とは思えないほど簡素だった。
窓から差し込む夕日だけが、部屋を赤く染めている。
「座ってください」
統括監に促され、私とノエルは向かいの椅子へ腰を下ろした。
ミディス先生は統括監の隣へ立つ。
誰も口を開かない。
沈黙だけが静かに流れていたが、やがて統括監が口を開く。
「病棟も見たそうですね」
「・・・はい」
エリシャは静かに頷く。
病棟。あの静まり返った廊下。
自分の名前を忘れ、虚ろな瞳で天井だけを見つめていた賢者達。
そして、先ほど目の前で苦しみ続けていたアミル。
胸の奥が重く締め付けられる。
「アミルさんは、自己認識障害を発症しています」
エリシャはゆっくりと目を伏せた。
やはり、あの叫びは見間違いではなかった。
「原因は・・・何なんですか」
統括監は私を真っ直ぐ見つめる。
「記憶枯渇です」
聞き慣れない言葉だった。
「記憶枯渇・・・?」
「賢者は時短再生を行う度に、記憶を消費します。その代償として起こる現象です」
エリシャは思わず息を呑んだ。
時短再生。
学院へ入学してから、私達は何度も使ってきた。
戦闘でも。訓練でも。
賢者である以上、それは当たり前の力だった。
その代償が、記憶。
そんなことは誰も教えてくれなかった。
「私達も・・・そうなるんですか」
思わず口をついて出た。
統括監は静かに頷く。
「賢者である以上、可能性はあります」
短い言葉だった。しかし、その一言だけで十分だった。
部屋が静まり返る。私は自分の手を見る。
この手で、何度時短再生を使っただろう。
その度に。私は何を失っていたのだろう。
隣を見る。ノエルは俯いたまま、小さく拳を握り締めていた。
「治るんですか」
私はもう一度尋ねる。
統括監はすぐには答えなかった。
長い沈黙。やがて静かに口を開く。
「記憶枯渇の段階であれば、回復した例もあります」
胸の奥に、小さな希望が灯る。
だが。
「自己認識障害を発症すると、現在の医学では治療できません」
その希望は、一瞬で消え去った。
「アミルさんは・・・既に自己認識障害を発症しています」
それ以上、言葉は続かなかった。
部屋を包む沈黙だけが、現実を突き付けてくる。
しばらくして、静寂を破ったのはノエルだった。
「・・・どうして」
消え入りそうな声。
「どうして、そのことを隠しているんですか」
統括監は静かに立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
夕日に照らされた学院が、赤く染まっている。
「人々は賢者を、不老不死の存在として信じています」
「絶対に滅びることのない存在として。学院は、その信頼の上に成り立っています」
エリシャは黙って聞いていた。
「自己認識障害。記憶枯渇。そして、永久欠損」
「それらが公になれば、人々が賢者へ抱く信頼は揺らぎます。学院は、それを望みません」
部屋が静まり返る。
「だから・・・病棟も」
エリシャが呟く。
「はい」
統括監は小さく頷いた。
「学院機密です」
エリシャは言葉を失う。
目の前で苦しむ人がいる。それなのに、その存在は隠される。賢者という理想を守るために。
「この件は、他言しないでください」
穏やかな口調だった。
だが、それは命令だった。
エリシャは静かに頷く。
「・・・分かりました」
ノエルも小さく頭を下げる。
統括監はゆっくりと扉へ向かった。
「お待たせしました」
扉の向こうには、何も知らないフィアが待っている。
そして私は、この扉を開いた瞬間から、もう元には戻れない気がしていた。
――――医療棟廊下。
扉がゆっくりと開く。先に姿を見せたのは統括監だった。
その後ろからエリシャとノエルが部屋を出る。
「エリシャ!」
待っていたようにフィアが駆け寄ってきた。
「アミル先輩は!? 大丈夫なんだよな!」
エリシャは言葉に詰まる。
何と答えればいいのか分からなかった。
「エリシャ・・・?」
不安そうな瞳が私を見る。
エリシャは小さく目を伏せた。
「・・・ごめん。学院機密だから話せない」
フィアの表情が止まる。
「・・・え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかったようだった。
「何それ・・・」
小さく笑う。
冗談だと思ったのだろう。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。アミル先輩が苦しんでるんだよ」
私は答えられない。答えられないことが、何より答えになってしまう。
フィアの笑顔がゆっくりと消えた。
「・・・本当に話せないのか?」
「・・・うん」
短く答える。
「何日か待てば話せる?」
「……ごめん」
「卒業したら?」
「……分からない」
「一生?」
沈黙。
「……答えられない」
その瞬間だった。
「アタシだけ?」
小さな声だった。
「アタシとクレイだけ?」
「違う」
思わず口を開く。
「そういうことじゃ・・・」
「じゃあ何?」
言葉を遮る。
「仲間じゃないの?」
廊下に静寂が落ちる。
職員達も足を止め、こちらを見ていた。
「仲間だからこそ、話せない」
自分でも苦しい言い訳だった。
フィアは悲しそうに笑う。
「分かんないよ。そんなの」
「私には分かんない」
一歩。また一歩。私から距離を取る。
「私はずっと仲間だと思ってた。何でも話せるって」
「信じてた」
その声は怒っていた。
だけど、それ以上に傷付いていた。
「ノエルは知っているのに・・・アタシとクレイだけ知らない。アタシ達だけ仲間外れ」
「違う! 仲間外れなんかじゃない!」
エリシャは首を横に振る。
「私は、貴女達を信じてないわけじゃない」
「違わない!」
初めてフィアが怒鳴った。廊下に声が響く。
「フィア・・・エリシャも苦しんでるよ」
クレイが優しく話しかける。
「何も教えてくれない。苦しんでる理由も、何があったのかも。そんな仲間なら・・・」
言葉が止まる。
唇を強く噛む。
震える拳。
そして。
「もういい」
振り返る。
そのまま歩き出した。
「フィア!」
思わず呼ぶ。
しかし彼女は止まらない。
クレイが私を見る。
困ったように笑っていた。
「エリシャ。貴女は悪くないよ」
そう言いながらも、その表情は苦しかった。
「でも・・・」
フィアの背中を見る。
「今は一人に出来ない」
私は何も言えない。クレイは小さく頭を下げる。
「ごめん」
そう残し、フィアを追い掛けた。
二人の足音が少しずつ遠ざかる。
廊下には私とノエルだけが残った。
私は動けない。
追い掛けたい。
謝りたい。
それでも。
学院機密。
その二文字が私の足を縛っていた。
遠ざかる二人の背中を、私は見送ることしか出来なかった。
あの日を境に。
私達は同じ教室にいても、言葉を交わすことはなくなった。
フィアは私を避けた。
私も、声を掛けることが出来なかった。
季節だけが過ぎていく。
春が終わり。
夏が過ぎ。
秋を迎え――。
一年半。
私達は、同じ教室にいても別々の時間を過ごした。
一度も。
四人で笑うことはなかった。
最後までお読み頂き有難うございます。
なるべく短い間隔で、連載していきたいと思いますので
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