ep.16 閉ざされた扉(ゲシュクール歴787年)
――――学院への帰路。
馬車の車輪が乾いた街道をゆっくりと転がる。
一定のリズムで響く音だけが、静まり返った車内に虚しく響いていた。
誰も話さない。
いつもならフィアが退屈そうに文句を言い、クレイが苦笑しながら宥める。
そんな何気ないやり取りすら、今日はなかった。
荷台の中央には、簡易ベッドに寝かされた少女。
アミル。
規則正しい呼吸だけが、彼女が生きていることを教えてくれていた。
「・・・」
エリシャは視線を落とす。
あの時の光景が何度も脳裏に浮かぶ。
頭を抱え、苦しそうに呟いていた少女。
――私は誰。
あの言葉だけが耳に焼き付いて離れない。
「・・・私は・・・」
不意に、小さな声が聞こえた。全員の視線がアミルへ向く。
閉じられた瞼は開かない。眠ったまま、小さく唇だけが動く。
「・・・誰・・・」
それだけだった。
再び静寂が訪れる。フィアがゆっくりと拳を握った。
「学院なら助けられるよな・・・」
誰に向けた言葉でもない。願うような小さな声だった。
病棟で見た患者達。
同じ言葉を繰り返し、自分自身さえ分からなくなっていた賢者達。
胸の奥がざわつく。
「きっと大丈夫だよ」
クレイが穏やかに微笑む。
「学院にはミディス先生もいる。きっと何とかしてくれるよ」
「……うん」
フィアは頷いた。
だが、その笑顔はどこかぎこちない。
リズは眠る兄の手を両手で包み込み、祈るように俯いていた。
レオンは目を覚まさない。
静かな馬車は、そのまま学院への道を進んでいく。
————ベルダット————
白い城壁が見え始める。賢者学院。
見慣れた門が開き、馬車はゆっくりと中庭へ入っていった。
既に数名の職員が待機している。
馬車が止まると同時に、扉が開かれた。
「急いでください!」
職員達が手際よく担架を運び込む。
アミルはそのまま担架へ移され、医療棟へと運ばれていく。
「先生!」
フィアの声に振り向く。
医療棟の入口には、ミディス先生が立っていた。その隣にはハルカ先生の姿もある。
「事情は早馬から聞きました。」
ミディス先生は静かに頷き、運ばれていくアミルへ歩み寄る。
「すぐに処置室へ!」
先生の声で職員達が再び動き出す。
担架は医療棟の奥へ消えていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に嫌な予感が広がるのを感じていた。
————医務室————
「・・・ん」
小さく呻き声がした。
レオンがゆっくりと目を開ける。
「お兄ちゃん!」
リズが勢いよく立ち上がる。
「よかった・・・!」
「リズ・・・?」
レオンはぼんやりと天井を見上げた。
「ここは・・・?」
「学院だよ」
「俺は・・・」
額に手を当てる
何かを思い出そうとするように目を閉じた。
「森で魔物を追って・・・駄目だ」
苦笑する。
「何も思い出せねぇ」
ミディスは机の上へ一枚の魔導紙を置いた。
「無理に思い出そうとしなくて構いません。まずは検査をしましょう」
「検査?」
「検査です。貴方からは異常な魔力の流れを確認します」
レオンは素直に頷いた。
手を魔導具へ乗せる。淡い光がゆっくりと広がる。
部屋の空気が静まり返る。やがて、先生の表情がわずかに曇った。
「・・・やはり」
リズが息を呑む。
「先生・・・?」
先生は検査結果から目を離さず口を開いた。
「バーサーカー因子が確認されました」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「バーサーカー・・・?」
レオンが眉をひそめる。
「どういうことですか?」
リズの声は震えていた。
ミディス先生は二人の顔を見渡し、静かに椅子へ腰掛ける。
「安心してください。今すぐ命に関わるものではありません」
その一言にリズは少しだけ肩の力を抜く。
ミディスは続けた。
「ですが、この因子は感情や極度の疲労をきっかけに暴走する危険があります」
「暴走・・・」
レオンは自分の手を見つめた。
「俺が?」
「森で意識を失ったのも、その影響である可能性があります」
沈黙。
レオンは何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「・・・まいったな。」
その笑顔はどこか力がなかった。
「定期的に学院で検査を受けてください。今はそれだけ守っていただければ十分です」
レオンは静かに頷いた。
「分かりました」
その返事を聞いたリズは、兄の手をもう一度強く握り締めた。
「ミディス先生!」
張り詰めた廊下に、悲鳴にも似た声が響いた。
診察室の扉が勢いよく開かれ、一人の医療職員が駆け込んでくる。
額には汗が滲み、息は乱れ、肩で大きく呼吸を繰り返していた。
「アミルさんが急変しました!」
その一言で、部屋の空気が凍りつく。
ミディスは椅子を引く音さえ立てずに立ち上がった。
「容体は?」
「魔力が急激に乱れています! 記憶障害も・・・!」
「分かりました」
短く答えると、先生は白衣を翻し部屋を出る。
去り際、こちらへ振り返った。
「皆さんは、ここで待っていてください。」
静かな口調だった。
しかし、有無を言わせない強さがあった。
扉が閉まり、重い沈黙が落ちる。
誰も動かない。
動けない。
その沈黙を破ったのはフィアだった。
「・・・待ってられない」
小さく呟く。
「もし苦しんでるなら、一人にしちゃ駄目だ」
その言葉に私は顔を上げた。
クレイも困ったように笑う。
「止めても行くんでしょ?」
「もちろん」
フィアは即答した。
「仲間なんだから」
その一言だけ残して歩き出す。
エリシャは小さく息を吐いた。
「・・・行こう」
処置室の前は騒然としていた。
医療職員達が慌ただしく廊下を走り回る。
治療器具や魔導具が次々と部屋へ運び込まれていく。
「魔力が安定しません!」
「拘束具を!」
「駄目です! 暴れています!」
緊迫した声が廊下中へ響き渡る。
フィアは扉へ駆け寄る。
わずかに開いた隙間から中を覗いた。
「・・・っ!」
思わず息を呑む。
処置台の上で、アミルが苦しそうに身体を震わせていた。
両手で頭を抱え、何かを振り払うように何度も首を横へ振る。
「私は・・・」
掠れた声。
「私は・・・」
言葉を探すように唇だけが動く。
「私は誰!」
叫び声が部屋中へ響く。胸が締め付けられた。
エリシャは思わず一歩後ずさる。
あの日見た患者達と、まったく同じだった。
昨日まで笑っていた人が、こうして自分自身を失っていく。
――賢者でも、救えない。
病棟で見た患者達。自分の名前を忘れ。家族を忘れ。世界を忘れ。
最後には、自分という存在さえ失っていた。
目の前の光景が、あの日と重なった。
「先生!」
フィアが部屋へ飛び込もうとする。
ミディス先生がフィアの前へ立ち塞がる。
「今近付けば、症状を悪化させます。」
「でも!」
「落ち着いてください。」
「落ち着いてなんていられないよ!」
フィアの声が震える。
「苦しんでるじゃない!」
「目の前で助けを求めてるじゃない!」
「このまま見てるだけなの!?」
ミディス先生は何も言わない。
ただ苦しみ続けるアミルを見つめていた。
「先生・・・。」
フィアは唇を噛んだ。
「助けられるんだよな?」
返事はなかった。その沈黙だけで十分だった。
フィアの瞳から希望が少しずつ消えていく。
「・・・統括監を」
ミディス先生が静かに告げた。職員達の動きが一瞬止まる。
「しかし・・・」
「お願いします」
その一言に、職員は深く頭を下げた。
「承知しました」
足音が遠ざかり、廊下は再び静寂に包まれた。
しばらくして、規則正しい足音が聞こえてくる。
一人、また一人と職員達が道を空けた。
誰も指示していない。
それでも自然と人垣が割れる。
現れたのは、一人の賢者だった。
飾り気のない白いローブ。
静かな眼差し。
威圧感はない。
それなのに、その場の空気だけが変わる。
ミディスが深く頭を下げた。
「統括監」
少女は小さく頷く。
何も言わず処置室へ入り、アミルの顔を見つめた。
長い沈黙。誰も声を出さない。
やがて少女はゆっくりと瞼を閉じた。
「・・・記憶枯渇」
その四文字だけだった。
部屋の空気がさらに重く沈む。
統括監はゆっくりと私達へ視線を向けた。
「皆さんに、お話ししなければならないことがあります」
その時だった。
「統括監」
ミディスが一歩前へ出る。
「その前に、お伝えしておきたいことがあります」
統括監は静かに視線を向けた。
「エリシャさんとノエルさんは、以前、私の案内で病棟を訪れています」
「自己認識障害の患者も、その目で見ています」
しばらく沈黙が流れた。
統括監は私達を見つめ、小さく頷く。
「・・・そうでしたか」
そしてフィアとクレイへ視線を移した。
「それでは、エリシャさんとノエルさんだけこちらへ」
「他の皆さんは、この場でお待ちください」
「え・・・?」
フィアが戸惑ったように私を見る。
「どうして?」
統括監は穏やかな表情のまま答えた。
「この件は学院機密です」
「知る必要がある者だけに、お伝えします」
フィアは私を見る。
「エリシャ・・・」
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
「・・・ごめん」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「・・・ここで待ってて」
フィアは小さく目を見開く。
傷付いたような表情。
それが胸に刺さる。
統括監が扉を開ける。
私はノエルと共に部屋へ入った。
背後で、扉が静かに閉まる音だけが響いた。




