第二話 走れ、アルト
「走れ! 来た道を戻るぞ!」
ディランの声に押されるように、四人は一斉に駆け出した。
最初に走り出したのはリゼットだった。次いでフィリアが続き、ディランは二人が動いたことを確認してから最後尾へ回る。アルトも慌てて床に置いた大きな背負い袋を担ぎ直し、その後を追った。
「待ってくれ!!」
「アルト、急げ!」
「おう!!」
返事をしながら、アルトは走った。
背中には四人分の荷物がある。食料に水、野営道具、予備の装備、道中で回収した魔物の素材。それらが走るたびに背中で揺れ、肩へ食い込むような重さを伝えてきた。
それでもアルトの足は止まらない。
ディランたちと同じ速度とはいかなかったが、これだけの荷物を背負ったままでも走ることはできた。成人する前から荷運びをはじめとした肉体労働を続け、焔の剣へ入ってからは日常的に四人分の荷物を運んできた身体は、少なくともこういう場面では役に立っている。
だが、その程度の差など、背後から迫ってくるものには関係がなかった。
「ブオオオオオオオオオッ!!」
空気を震わせる咆哮が響いた。
「うおっ!?」
アルトは思わず首をすくめる。
続いて聞こえてきたのは、凄まじい勢いで床を踏みつける音だった。一歩ごとに硬い地面が震え、その間隔が急速に短くなっていく。
アルトは走りながら後ろを振り返った。
「来てるぞ!!」
「見れば分かるわよ!」
「速いです……!」
巨体からは想像できない速度だった。
牛頭の怪物――ミノタウロスは、巨大な斧を片手に持ったまま、四人を追ってくる。狭い通路では肩が壁へぶつかるほどの巨体だというのに、その速度はほとんど落ちていなかった。
むしろ、距離が縮まっている。
「このままじゃ追いつかれる!」
リゼットの声に、ディランも同じ結論を出した。
「前の広いところで迎え撃つ! リゼット、詠唱を始めろ!」
「正気!?」
「逃げるためだ! 倒そうとするな、足を止めればいい!」
「……分かった!」
リゼットは走りながら杖を握り直した。
「フィリア、アルトを先に!」
「はい!」
「ディランは!?」
「俺は奴を止める!」
「だったら、おれも――」
「お前は荷物を持って走れ! 今はそれが仕事だ!」
「わかった!!」
役割がある。
そう言われれば、アルトに迷う理由はなかった。
さらに前へ走る。
やがて通路が少し広くなったところで、ディランが急停止した。アルトたちが横を通り抜けるのを待ち、長剣を抜いてミノタウロスへ向き直る。
「リゼット!」
「やってる!」
リゼットも少し離れた場所で立ち止まった。
杖を両手で構え、先端をミノタウロスへ向ける。
「燃え盛る炎よ、我が呼びかけに応えよ。
灼熱を束ね、穿つ槍となれ。
立ち塞がる敵を焼き、その身を貫き、
我が示す先へ疾く走れ――!」
詠唱が進むにつれて、杖の周囲へ赤い光が集まっていく。
普段の戦闘で使っていた火球とは違う。
時間をかけて魔力を練り、術式を完成させる完全詠唱。短縮詠唱や無詠唱より発動までに時間はかかるが、そのぶん威力も大きく上がる。
「――《ファイアスピア》!」
杖の先から炎が噴き出した。
細長く凝縮された炎は一本の槍となり、通路を赤く染めながらミノタウロスへ飛んでいく。
直撃。
轟音とともに炎が爆ぜた。
「やった!?」
「まだだ!」
ディランだけは構えを解かなかった。
炎の中から、巨大な影が飛び出す。
「嘘……!」
リゼットの顔が引きつった。
効いていないわけではない。
胸元の毛が焼け焦げ、その下の皮膚も赤黒く変色している。
だが、それだけだった。
C級ダンジョンに出現する魔物なら一撃で致命傷を与えられるリゼットの魔法を真正面から受けて、それだけ。
ミノタウロスは速度すらほとんど落としていない。
「ブオオオオッ!」
「来い!」
ディランの長剣が炎に包まれた。
先ほど狼型の魔物を倒したときとは比較にならないほどの炎だった。刀身を覆った炎が腕まで届きそうなほど燃え上がり、周囲の空気が熱で歪む。
「《バーニングソード》!」
踏み込む。
ミノタウロスも斧を振り上げる。
まともに打ち合えば力負けする。それが分からないディランではない。振り下ろされた斧を紙一重で横へかわし、地面へ叩きつけられた直後を狙って懐へ飛び込む。
「はあああっ!」
全力で振り抜いた。
燃え盛る剣が、ミノタウロスの脇腹へ直撃する。
肉を焼く音。
炎が爆ぜる。
確かな手応えがあった。
それでも――浅い。
「硬っ……!」
ディランの顔が歪む。
斬った。
間違いなく刃は入った。
だが、浅すぎる。
本来なら胴体へ深く食い込むはずの一撃が、分厚い筋肉に阻まれている。
「ディラン、離れて!」
リゼットの叫びと同時に、ミノタウロスが動いた。
斧ではない。
空いていた左腕が横薙ぎに振るわれた。
「ぐっ!」
ディランは剣を盾にするように構えた。
次の瞬間、身体が宙に浮いた。
「ディラン!」
数メートル吹き飛び、壁へ叩きつけられる。
肺から空気が押し出され、ディランの口から声にならない息が漏れた。剣を持ったまま地面へ崩れ落ち、すぐに立とうとしたものの、右腕へ力を入れた瞬間に激痛が走る。
「……っ!」
折れている。
防いだ右腕の骨が、たった一撃で。
「ディラン!!」
フィリアが駆け寄る。
「来るな! リゼット!」
「分かってるわよ!」
リゼットは腰の鞄へ手を突っ込み、小さな透明の石を取り出した。
風属性の魔術触媒。
それを杖へ押し当てると、石が砕け、周囲の空気が一気に渦を巻いた。
「これならどう!? 《ストームエッジ》!」
杖を振り抜く。
圧縮された風の刃が何枚も生まれ、ミノタウロスへ殺到した。
一枚目が肩へ。
二枚目が胸へ。
三枚目、四枚目が腕と腹を斬りつける。
さらに風が渦を巻き、後続の刃が同じ巨体へ叩き込まれた。
鋭い風切り音が連続する。
「……効いて!」
リゼットが祈るように呟く。
やがて風が収まった。
ミノタウロスの身体には、何本もの傷がついていた。
血も出ている。
だが、浅い。
致命傷には程遠い。
「そんな……触媒まで使ったのに……」
リゼットが一歩下がる。
「フィリア! 早くしろ!」
「今やっています!」
フィリアはディランの隣に膝をつき、折れた腕へ両手をかざしていた。
「慈愛の光よ、傷つきし者へ癒やしを――《ヒール》!」
淡い光がディランの腕を包む。
痛みが少しずつ引いていく。
完全に元通りになるわけではない。法術による治癒にも限界はある。それでも折れた骨をつなぎ、再び剣を握れる程度まで回復させることはできる。
「もう少しです!」
「動ければいい!」
「無茶をしないでください!」
「ここで無茶をしなきゃ死ぬ!」
その言葉に、フィリアは何も返せなかった。
アルトは少し離れた場所で、三人の戦いを見ていた。
いつもなら圧倒的だった。
ディランが前に立てば魔物は近づけず、リゼットの魔法が当たれば大抵の魔物は倒れる。怪我をしてもフィリアが治してくれる。
その三人が、必死になっている。
「……あいつ、そんなに強いのか?」
「強いなんてもんじゃないわよ!」
リゼットが叫ぶ。
「アタシのファイアスピアとストームエッジを両方食らって、なんで普通に立ってんのよ!」
「じゃあ、どうする!?」
「逃げるのよ!」
「どうやって!?」
「それを今考えてるんでしょうが!」
ミノタウロスが再び歩き出す。
先ほどまでより遅い。
だが、怯んでいるからではなかった。
逃げ場のない獲物を追い詰めるように、斧を引きずりながら近づいてくる。
ディランは治療を受けながら、その姿を睨んでいた。
勝てない。
それは最初から分かっていた。
だが、今ので確信した。
全力のバーニングソードでも浅い。リゼットの完全詠唱と触媒を使った魔術を連続で叩き込んでも、まともな傷にならない。
こちらは一撃受けただけで骨折。
次にまともな一撃を食らえば、死ぬ可能性すらある。
「……ディラン」
フィリアが小さく呼ぶ。
「腕、動きます」
ディランは指を曲げ、剣を握り直した。
痛みは残っている。
だが、使える。
「全員、聞け」
ディランは短く息を吐いた。
「ここから離脱する」
「だから、どうやってよ?」
「奴は俺たちより速い。このまま全員で逃げても追いつかれる」
「じゃあ――」
リゼットが言葉を止める。
ディランの視線が動いた。
アルトを見る。
フィリアも、その視線を追った。
「……ディラン?」
「アルト」
「おう!!」
「荷物を置け」
「え?」
「全部だ。今すぐ置け」
「でも、食料とか――」
「いいから置け! 身軽になれ!」
「わかった!!」
アルトはすぐに肩から背負い袋を下ろした。
どさり、と重い音がする。
その大きさを見て、ディランは一瞬だけ奥歯を噛んだ。
この男は、本当に役に立っていた。
戦えない。
判断も速くない。
だが文句も言わず、毎日のように四人分の荷物を運ぶ。素材の解体も覚えたし、野営の準備もする。何より、頼んだことを途中で投げ出さない。
優秀な荷物持ちだった。
失えば、今後の探索には間違いなく影響が出る。
だが、それでも。
四人全員が死ぬよりはいい。
「アルト。お前は来た道を戻れ」
ディランが指さしたのは、先ほどミノタウロスが現れた大空間の方向だった。
「え?」
「あっちへ走って、奴の注意を引きつけろ」
「ディラン!?」
フィリアの声が裏返った。
ディランは彼女を見なかった。
「俺たちは反対側へ回る。奴がお前を追えば、その隙に距離を取れる」
「なるほど!!」
「待ってください!」
フィリアがディランの腕を掴む。
「それって……アルトさんを――」
「援軍を呼ぶ」
ディランは遮った。
アルトを見る。
「俺たちはこの通路から離脱して、ギルドへ援軍を呼びに行く。それまで、お前は奴を引きつけろ」
「おれが!?」
「ああ」
アルトの顔に驚きが浮かぶ。
ディランは続けた。
「お前は荷物を背負ったまま俺たちについてこられた。全部置けば、もっと速く走れるはずだ」
「……!」
「戦う必要はない。逃げろ。とにかく走って、奴の注意を引きつけろ」
「それならおれにもできる!!」
「そうだ」
フィリアの手が震える。
「でも……」
「時間がない」
ディランが低く言った。
「このままなら全員死ぬ」
「だからって……!」
「なら他に方法があるか?」
フィリアは答えられなかった。
リゼットも黙っている。
ミノタウロスが近づいてくる。
十数歩。
もう、それだけしか離れていない。
「ブオオオ……」
低い唸り声。
アルトが両手を叩いた。
「よし!!」
三人がアルトを見る。
「おれが引きつける!!」
「アルトさん……」
「大丈夫だ!! 逃げるだけなら得意だぞ!!」
そう言って笑う。
フィリアの顔が歪んだ。
ディランは剣を構える。
「俺が一度攻撃する。その瞬間に走れ」
「わかった!!」
「絶対に止まるな」
「おう!!」
「……行くぞ!」
ディランの剣に、残った魔力が集まる。
先ほどほどではない。それでも刀身へ炎を纏わせ、ミノタウロスの顔へ向けて振り抜いた。
炎が走る。
ミノタウロスが腕で顔を庇った。
「今だ!」
「うおおおおおおっ!!」
アルトが走る。
三人とは逆方向。
先ほど逃げてきた道を戻り、大空間へ向かって全力で駆けていく。
「こっちだ!! 牛頭!!」
「アルト、声まで出さなくていい!」
「引きつけるんだろ!!」
「……もういい、走れ!」
「おう!!」
アルトはさらに速度を上げた。
荷物がない。
身体が驚くほど軽い。
いつもなら肩へ食い込んでいる重さがなく、足が前へ出る。これならいける、とアルトは思った。
背後で咆哮が響いた。
「来た!!」
振り返る。
ミノタウロスが自分を見ている。
成功だ。
「よし!! こっちだ!!」
アルトは走った。
ミノタウロスも追う。
少し進んだところで、アルトは一度だけ三人の方を見た。
ディランたちも走り出している。
自分とは反対方向へ。
どんどん遠ざかっていく。
「よし!! 逃げられた!!」
アルトは心の底から安堵した。
作戦成功。
自分にも役割があった。
しかも、今までとは違う。
荷物を運ぶだけではない。
あれだけ強い牛頭の怪物を、自分が引きつけている。
「おれ、今日めちゃくちゃ役に立ってるぞ!!」
嬉しくなった。
だからこそ、絶対にやり切る。
ディランたちが援軍を連れてくるまで、こいつから逃げ続ければいい。
アルトは前を向き、さらに奥へ走っていった。
◇
三人が足を止めたのは、それからかなり走った後だった。
未探索区域を抜け、岩壁が増え始めた辺りまで戻ったところで、ディランがようやく速度を落とした。
「……止まれ」
「はぁ……はぁ……」
リゼットが壁へ手をつく。
フィリアも杖を支えにして息を整えた。
ミノタウロスの足音は聞こえない。
咆哮もない。
追ってきていない。
「……助かった」
リゼットがその場へ座り込む。
「助かった……本当に……」
ディランは何も言わず、来た道を見た。
静かだった。
「……アルトさん」
フィリアが呟く。
誰も答えない。
「本当に、援軍を呼ぶんですか?」
ディランはしばらく黙っていた。
やがて剣を鞘へ戻す。
「無理だ」
「……」
「ここからギルドまで戻って、A級のパーティーを集めて、もう一度ここまで来る。そこまでに何時間かかると思ってる」
「でも、さっき……」
「そう言わなきゃ、アルトは行かなかった」
フィリアが俯いた。
「……最低」
リゼットが呟いた。
ディランが彼女を見る。
「何?」
「最低だって言ったのよ」
「そうか」
「何よ、その言い方」
「じゃあどうすればよかった?」
「それは……!」
「俺が残ればよかったか? それともお前か? フィリアか?」
「そういうこと言ってるんじゃない!」
「同じだ」
ディランの声は冷静だった。
だが、普段より少し低い。
「あのまま全員で逃げれば追いつかれた。戦えば全滅した。誰かが奴を引きつける必要があった」
「だからアルトにしたって?」
「そうだ」
「アタシたちより弱いから?」
「それもある」
リゼットが睨む。
ディランは視線を逸らさなかった。
「俺が抜ければ前衛がいなくなる。お前が抜ければ火力が落ちる。フィリアが抜ければ怪我をした時点で終わりだ」
「……アルトは戦えないから、いなくなってもいいって?」
「いいとは言ってない」
ディランが吐き捨てるように答える。
「正直、痛手だよ」
「……は?」
「アルトが持っていた荷物を見ただろ。あれを次から誰が持つ?」
通路の途中へ置いてきた巨大な背負い袋。
水も食料も野営道具も、魔物の素材も入っていた。
普段は当然のようにアルトが背負っていた。
「俺たちだけなら、今までと同じ量の物資は運べない。探索時間も短くなる。倒した魔物の素材だって全部は持ち帰れない。代わりの荷物持ちを雇うにしても、アルトほど素直に働いて、あれだけの重量を運べる奴がすぐ見つかるとは思えない」
「だったら!」
「それでも、俺たち三人が死ぬよりはましだ」
リゼットが言葉を失う。
「それに、ギルドに戻れば面倒なことになる」
ディランは苦々しく続けた。
「アルトを見捨てたと噂されるかもしれない。説明したところで、悪く言う奴はいるだろう。下手をすれば今後パーティーを組みたがらない奴も出る」
「分かってるなら……」
「分かってる。全部込みで判断した」
ディランは拳を握った。
治療された右腕がまだ痛む。
「あそこで迷っていたら、全員死んでいた。俺は間違った判断をしたとは思わない」
「……最終的に決めたのはディランでしょ」
リゼットが言った。
「何?」
「未探索区域に入るって決めたのも、最後はディランじゃない。アタシは見たいって言っただけ。危ないなら戻るって言ったでしょ」
「お前……」
「なによ」
「最初に行きたいと言ったのは誰だ?」
「だからって、リーダーはディランでしょ! 止めることだってできたじゃない!」
「リゼット」
フィリアが弱々しく止める。
だがリゼットは止まらない。
「だいたい、あんな魔物がいるなんて分かるわけないじゃない! アタシだって、こんなことになるって知ってたら行こうなんて言わなかった!」
「それは全員同じだ」
「じゃあアタシだけのせいみたいに言わないでよ!」
「誰もそんなことは言ってない!」
「二人とも、やめてください!」
フィリアの声が通路へ響いた。
二人が黙る。
「……今、そんな話をしても仕方ありません」
「でも……」
「私だって逃げました」
フィリアは杖を握りしめる。
「アルトさんが一人で走っていくのを見ていました。それでも、私は止めなかった。追いかけもしなかった」
「フィリアは――」
「だから、ディランだけを責めることもできません」
声が震えていた。
「私も……死にたくなかったですから」
静かになった。
三人とも、来た道を見た。
誰も戻ろうとは言わない。
ミノタウロスがいる。
それを知っているから。
「……帰るぞ」
やがてディランが言った。
「まずギルドへ報告する。未探索区域とミノタウロスの存在を伝える。ここは封鎖されるはずだ」
「アルトさんは?」
フィリアが聞く。
ディランは答えるまでに少し時間を置いた。
「……生きていれば、救助隊が探す」
生きていれば。
その言葉が何を意味するのか、三人とも分かっていた。
フィリアはもう何も言わなかった。
◇
一方。
「うおおおおおおおっ!!」
アルトは走っていた。
全力で。
未探索区域の奥へ向かって。
「まだ来てる!!」
後ろを見る。
いる。
牛頭の怪物がいる。
距離は少しずつ縮まっていた。
荷物を置いたおかげで、アルトの身体はこれまでにないほど軽かった。それでも、ミノタウロスの方が速い。
「速すぎるだろ!!」
「ブオオオオオッ!」
「怒るなって!!」
当然、通じない。
アルトは前を向く。
息が苦しい。
胸が焼けるように熱い。
脚も重くなってきた。
それでも止まれない。
「援軍来るまで……どのくらいだ!?」
分からない。
アルトは距離も時間も正確に計算するのが苦手だった。
だが、ディランは援軍を呼ぶと言った。
なら、それまで逃げればいい。
「よし!!」
自分に気合いを入れる。
「まだいける!!」
足を動かす。
何年も働いてきた。
重い荷物を持って歩いた。
焔の剣に入ってからも、三人が戦っている間に荷物を運び、素材を剥ぎ取り、野営の準備をした。
走る訓練などしたことはない。
けれど、身体を動かすことそのものには慣れている。
だから、まだ走れた。
「こっちだ!! おれを追え!!」
後ろへ声を投げる。
ミノタウロスが咆哮で答えた。
「よし!! ちゃんと来てるな!!」
もし誰かが見ていれば、追われている側が確認して安心するなと言ったかもしれない。
しかしアルトにとっては重要だった。
自分を追っている。
なら、ディランたちは安全だ。
自分は今、役に立っている。
それだけで、重くなってきた脚をもう一歩前へ出せた。
大空間を抜ける。
その先にも道があった。
先ほど四人で探索した場所よりさらに奥だ。
壁に黒い人工物が増えている。足元もほとんど平らで、ところどころに意味の分からない線や模様が走っていた。
アルトはそんなものを見る余裕もなく走る。
「はぁ……はぁ……!」
呼吸が乱れる。
さすがに限界が近い。
後ろからの足音は、もうかなり大きい。
アルトは振り返った。
「うわっ、近っ!!」
すぐそこにいた。
ミノタウロスが斧を振り上げる。
「それはまずい!!」
アルトは横へ飛んだ。
直後、巨大な斧が床へ叩きつけられる。
轟音。
硬い床が砕け、破片が飛び散った。
「うおおっ!?」
転がりながら立ち上がる。
斧が床へ食い込んでいる。
「今だ!!」
アルトは走った。
別に何か技術があったわけではない。
ただ必死だった。
斧を引き抜く時間だけ距離を稼げる。
それくらいはアルトにも分かる。
「いける!! まだいけるぞ!!」
だが、ミノタウロスもすぐに追跡を再開した。
走る。
追われる。
斧が振られる。
避ける。
また走る。
何度か繰り返すうち、アルトにも少しだけ分かってきた。
「斧振る前、ちょっと遅くなるな!!」
巨大な斧を振り上げる瞬間。
ほんのわずかだが速度が落ちる。
それを見て横へ逃げれば、ぎりぎり避けられる。
「よし!!」
アルトは笑った。
「これなら――」
その判断は、早すぎた。
ミノタウロスが斧を持つ右腕を引く。
アルトは今までと同じように、横へ逃げようとした。
だが。
斧は振り下ろされなかった。
「え?」
空いている左腕が伸びてくる。
ディランを一撃で吹き飛ばした、あの腕。
アルトが気づいたときには遅かった。
「ぐっ――!」
巨大な拳が、アルトの身体を捉えた。
息が消えた。
何が起きたのか理解するより先に、足が地面から離れる。
身体が宙を飛んだ。
「――っ!?」
声すら出ない。
視界が激しく揺れる。
そして背中から、壁へ叩きつけられた。
轟音が響いた。
背中に凄まじい衝撃が走り、頭の中が真っ白になる。
「が……っ」
息ができない。
痛い。
どこが痛いのかも分からない。
壁にもたれるようにして、アルトの身体がずるりと下がった。
「……まず……」
逃げなければ。
ディランたちが援軍を呼びに行っている。
ここで自分が倒れたら、牛頭が三人を追いかけてしまうかもしれない。
「立た……ないと……」
壁へ手をつく。
力を入れる。
そのとき。
ぱらり、と。
アルトの頭へ、小さな石の欠片が落ちた。
「……ん?」
背後から音がした。
みしり。
岩が軋む。
アルトが叩きつけられた壁に、細い亀裂が走っていた。
「え?」
亀裂が広がる。
一本。
二本。
それどころではない。
「ちょ、ちょっと待て!!」
慌てて離れようとする。
だが身体が動かない。
ミノタウロスの一撃で力が入らない。
さらに、壁の向こうから妙な音が聞こえた。
石が崩れる音とは違う。
何か硬いものが折れるような、聞いたことのない音。
「おい!!」
アルトは壁を見上げる。
「待て待て待て!!」
崩れた。
「うおおおおおおおおっ!?」
背中を預けていた壁が、一気に抜け落ちた。
支えを失った身体が後ろへ倒れる。
掴むものを探して両手を伸ばすが、何もない。
そのままアルトは、崩れた岩と一緒に壁の向こうへ落ちていった。
暗い。
下が見えない。
身体が落ちていく感覚だけがある。
「なんだこれえええええええっ!?」
叫び声が暗闇へ吸い込まれていく。
遥か下。
岩の隙間から一瞬だけ、これまで見たこともない白い光が瞬いたように見えた。
だが、それが何なのか確かめる暇などない。
アルトの身体はそのまま、誰にも知られていない暗闇の奥深くへと落下していった。




