第一話 「焔の剣」の荷物持ち
「アルト、今日も準備はいいか?」
「おう!! ばっちりだ!!」
肩越しにかけられた声へ、アルトは大きく頷いて答えた。
背負っている荷物は大きい。大人一人がすっぽり隠れてしまいそうな背負い袋には食料や水、野営道具をはじめ、予備の武器や防具、採取用の道具、魔物から剥ぎ取った素材を入れるための袋まで詰め込まれている。それだけでは収まらず、丸めた毛布や鍋まで外側に括りつけられていた。
アルト自身の荷物だけではない。ほとんどが、これからダンジョンへ潜る仲間たちのものだ。
「食料は?」
「ある!!」
「水は?」
「四人分入れた!! 予備もあるぞ!!」
「帰りの分まで考えてあるな?」
「もちろんだ!!」
即答するアルトに、ディランは一度頷いた。
魔法剣士ディラン。腰に長剣を提げ、動きを妨げない程度の軽装鎧を身につけた男で、C級冒険者パーティー『焔の剣』のリーダーでもある。
冒険者としての階級こそパーティーと同じC級だが、ディランの実力は一段上のB級冒険者にも匹敵すると言われている。剣だけでも強く、そのうえ魔法まで扱えるディランがいるからこそ、焔の剣はC級ダンジョンの中でも比較的奥まで安定して潜ることができていた。
「フィリア。回復薬と解毒薬は?」
「確認しました。回復薬はいつもより二本多めに持っています。解毒薬もありますし、包帯もアルトの荷物に予備を入れてあります」
「魔力は?」
「問題ありません。今日はまだ治癒魔法も使っていませんから」
僧侶フィリアが腰につけた鞄を軽く叩いてみせる。白を基調とした衣服の上から胸当てを装備し、手には杖を持っているが、柔らかな物腰もあって三人の中では一番冒険者らしい威圧感がない。
もっとも、回復役のフィリアが倒れれば、探索を打ち切らなければならない。戦闘能力だけで役割を測れないのが冒険者パーティーというものだ。
「リゼット。そっちは?」
「魔力も触媒も問題なし。昨日ちゃんと補充したって言ったでしょ?」
「聞いた。だが、潜る直前にもう一度確認するのが俺の仕事だ」
「はいはい。確認しましたー。火属性用も風属性用も十分。杖も異常なし。これでいい?」
「ああ」
少し面倒そうに答えたリゼットだったが、ディランもそれ以上は何も言わなかった。
リゼットは三人の中では比較的軽装で、長い杖を片手に持っている。好奇心が強く、何か珍しいものを見つければすぐに近寄りたがる性格で、以前も見慣れないキノコを素手で触ろうとしてフィリアに止められていた。
アルトは、そんな三人を少し離れたところから眺めていた。
剣と魔法を扱うディラン。仲間の傷を治すフィリア。強力な攻撃魔法を使うリゼット。
そしてアルト。
荷物持ちである。
「よし。行くぞ」
「おう!!」
「はい」
「今日こそ何か高いもの出ないかなー」
四人は揃って、岩肌に大きく口を開けた洞窟へと足を踏み入れた。
C級ダンジョン――『野獣の洞穴』。
その名の通り獣型の魔物が多く生息する洞穴型のダンジョンであり、焔の剣が普段から狩場として利用している場所だった。
洞窟へ入って一時間ほど経った頃には、外から差し込んでいた光はとうに見えなくなっていた。
それでも探索に支障はない。先頭を歩くディランが携帯用の魔道具を腰から提げており、淡い光が四人の周囲を照らしている。野獣の洞穴は何十年も前から冒険者たちに利用されてきたダンジョンで、主要な通路は地図にも記されていた。
先頭はディラン。その少し後ろをリゼットとフィリアが歩き、最後尾にアルトが続く。
これもいつもの並びだった。
「止まれ」
ディランが片手を上げる。
アルトもすぐに足を止めた。
「右奥。三……いや、四体だな」
「こっち来てる?」
「ああ」
「じゃ、いつも通りね」
リゼットが杖を構えると、フィリアも自然な動作で一歩後ろへ下がる。
アルトも背負い袋を壁際へ下ろした。
慣れたものだった。
自分は戦わない。
正確には、戦えない。
腰には護身用の短剣を提げているが、これまでまともに魔物と斬り合った経験はほとんどなかった。焔の剣に入ってからも、戦闘が始まれば荷物を安全な場所へ置き、自分も邪魔にならない場所まで下がるように言われている。
だから今回も、アルトは言われた通りにした。
やがて暗がりから現れたのは、灰色の毛皮を持つ狼型の魔物だった。普通の狼より一回り大きな身体を持ち、口元から覗く牙も長い。
四体。
先頭の一体が駆け出した。
「リゼット、右二体!」
「任せて!」
ディランが剣を抜く。
刀身へ赤い光が走り、直後、飛びかかってきた狼の爪と長剣がぶつかった。
甲高い音が洞窟内へ響く。
しかし押し負けたのは狼だった。
ディランは相手の勢いを真正面から受け止めず、剣を斜めに当てて身体ごと横へ流す。そのまま足を踏み込み、赤熱した刀身を狼の首筋へ走らせた。
一撃。
血を撒き散らして倒れた仲間を飛び越え、二体目が迫る。
「遅い」
振り抜いた剣を返し、今度は下から斬り上げる。
二体目も地面へ転がった。
一方、右から回り込もうとしていた二体の前では、リゼットがすでに杖を向けていた。
「燃えちゃえ!」
杖の先端から火球が放たれる。
一直線に飛んだ炎は先頭の狼へ命中し、爆ぜた炎がその後ろを走っていたもう一体まで巻き込んだ。
炎に包まれた二体が地面を転がる。
そのうち一体が火の中から飛び出したものの、そこへディランが駆け込み、すれ違いざまに剣を振るった。
それで終わりだった。
「怪我は?」
「アタシはなし」
「私も大丈夫です。ディランは?」
「問題ない」
フィリアの確認に答えながら、ディランは剣についた血を振り払う。
戦闘開始から、ほんのわずかな時間しか経っていない。
「おお!! 今日も早いな!!」
アルトは素直に感心した。
荷物のところまで戻ってきたリゼットが、呆れたようにアルトを見る。
「アンタ、毎回同じこと言ってない?」
「だって早いだろ!!」
「まあ、そりゃこの程度ならね」
「アルト。終わったから荷物を頼む」
「わかった!!」
ディランに言われると、アルトはすぐに背負い袋を担ぎ直した。
これだけの重量を背負うのも、最初はかなり大変だった。
けれど毎日のように運んでいれば、そのうち慣れた。冒険者になる前にも荷運びの仕事は何度もしていたし、焔の剣に入ってからは四人の荷物をまとめて持つことも珍しくない。
戦えない自分でも、これなら役に立てる。
それがアルトには嬉しかった。
「そうだ。素材はどうする!?」
「今日は奥まで行く。牙だけ取っておこう。毛皮はかさばる」
「じゃあ、おれが取る!!」
「頼む」
「おう!!」
アルトはすぐに道具を取り出し、狼の口から牙を切り取る作業を始めた。
ディランたちが戦う。
アルトが荷物を運ぶ。
必要なら素材を回収し、野営をするなら準備もする。
それが『焔の剣』のいつもの探索だった。
その後も探索は順調だった。
途中で大型の猪に似た魔物が一体現れたが、ディランが正面から注意を引きつけている間にリゼットの魔法が直撃し、最後はディランが仕留めた。フィリアが治癒魔法を使う必要すらない。
「今日は楽ね」
「油断するなよ。ダンジョンの中だ」
「分かってるって」
リゼットはそう答えながらも、足取りは軽い。
アルトも同じだった。
荷物は少し重くなっている。最初から持っていた装備に加えて、倒した魔物から回収した素材が入っているからだ。
それでもまだ余裕はある。
この調子なら、帰る頃にはもっといっぱいになっているだろう。
いっぱいになれば、それだけ今日の稼ぎが増える。
「今日もおれ、結構役に立ってるな!!」
「何よ、急に」
前を歩いていたリゼットが振り返る。
「荷物、いっぱい持ってる!!」
「……まあ、それは助かってるけど」
「だろ!!」
「そこでそんなに自信満々になれるの、ちょっと羨ましいわ」
「アルトさんが持ってくれるおかげで、私たちが余計な荷物を持たなくて済んでいるのは本当ですよ」
フィリアが笑う。
「おお!!」
アルトの顔がさらに明るくなった。
「もっと持てるぞ!!」
「帰りもあるんですから、無理はしないでくださいね?」
「大丈夫だ!!」
「アルトの場合、本当に持とうとするからな。必要な分だけでいい」
「わかった!!」
ディランに止められ、アルトは素直に頷く。
それからしばらく歩いたところで、不意にリゼットが立ち止まった。
「あれ?」
「どうした?」
「ディラン、ちょっと待って」
リゼットは壁際へ寄ると、手にしていた灯りを掲げた。
そこは一見すれば、どこにでもある洞窟の壁だった。凹凸のある岩肌が続き、その先は行き止まりになっているように見える。
だがリゼットは、その岩壁の端へ顔を近づけた。
「……ここ、風が来てない?」
「風?」
「うん。ほら」
ディランも近づく。
アルトには何が違うのかよく分からなかったが、言われてみれば、ほんのわずかに空気が動いているような気がした。
「地図を」
「わかった!!」
アルトは背負い袋を下ろし、中から筒状に丸めた地図を取り出した。
ディランが受け取り、広げる。
現在地を確認し、壁を見る。
もう一度地図を見る。
「……ないな」
「でしょ?」
リゼットの目が輝いた。
「この先、道があるんじゃない?」
「崩落で埋まった古い通路という可能性もあります」
「でも、それならそれで何かあるかもしれないじゃない。昔は使われてた道とかさ」
「地図に記載されていない以上、危険度も分からないぞ」
ディランが釘を刺す。
しかしリゼットは壁を調べながら、すでに半分以上行く気になっているようだった。
「だから面白いんじゃない。未探索区域よ? 誰も入ってないなら、手つかずのお宝だって残ってるかも」
「リゼット」
「ちょっとだけ! 危なそうなら戻ればいいでしょ?」
ディランはすぐには答えなかった。
フィリアも地図を覗き込む。
「現在地からなら、帰り道にはそれほど影響しませんね。あまり深く入らないのであれば……」
「でしょ?」
「私は賛成したわけではありませんよ」
「アルトは?」
「おれ!?」
突然話を振られ、アルトは壁とリゼットを交互に見る。
「行きたいか?」
「うーん……」
考える。
アルトには、危険かどうかを判断できる知識はない。
だから自分なりに考えた結果、いつも通りの答えを出した。
「ディランが行くなら行く!!」
「アンタに聞いた意味なかったわね」
「なんでだ!?」
リゼットが笑い、フィリアも小さく笑った。
ディランだけは地図を見たまま、しばらく考えていた。
「……分かった。ただし少しだけだ。何か異常があれば即座に引き返す。俺が戻れと言ったら、理由を聞かず戻れ」
「了解!」
「はい」
「わかった!!」
決まれば早かった。
風が漏れている場所を調べると、人一人なら通れそうな隙間が岩の向こうにある。入口を塞いでいた石を四人で動かし、最後の大きな岩だけはディランとアルトが二人がかりで押し退けた。
隙間の向こうには、確かに道が続いていた。
「……なんか、変じゃない?」
未探索の通路へ入ってしばらくして、最初にそう言ったのはフィリアだった。
アルトにも、その違いは分かった。
これまでの野獣の洞穴は、自然にできた洞窟だった。地面には大小の石が転がり、壁や天井には不規則な凹凸がある。場所によっては地下水が流れ、足元がぬかるんでいる場所も珍しくない。
ところが、進むにつれて少しずつ道が変わってきた。
最初は気のせいかと思う程度だった。
壁が妙に平らなのだ。
「ここ、削った跡があるな」
ディランが壁を撫でる。
「やっぱり昔、誰かが使ってた通路なんじゃない?」
「それにしては……綺麗すぎませんか?」
フィリアが首を傾げる。
さらに奥へ進む。
地面まで平らになってきた。
壁の一部には、岩とは違う黒っぽい何かが混ざっている。金属にも見えるが、アルトが知っている鉄とは質感が違った。
「これなんだ?」
「触らない」
手を伸ばしかけたアルトを、リゼットが止める。
「お前もさっき触ってただろ!!」
「アタシは魔術師だからいいの」
「ずるい!!」
「何がよ」
口ではそう言いながらも、リゼット自身も慎重になっていた。
ディランはさらに警戒を強めている。
「足元に気をつけろ。罠があるかもしれない」
「罠?」
「人の手が入っている場所なら可能性はある」
「わかった!!」
アルトはそれから、さっきまで以上に真剣に足元を見るようになった。
そのおかげ――かどうかは分からないが、少し進んだところで何かが落ちているのを見つけた。
「ディラン!! なんかある!!」
「止まれ。触るな」
「おう!!」
アルトは伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「……本当に触らないのね」
「触るなって言われたからな!!」
リゼットが微妙な顔をする横で、ディランがしゃがみ込む。
落ちていたのは、手のひらほどの大きさの板だった。
金属にも見える。
しかし薄い。
錆びてもいない。
「何だ、これ」
「見せて」
リゼットが隣へしゃがむ。
魔術師としての知識がある彼女にも正体は分からないらしく、表と裏を何度も確認する。
「魔力は……ほとんど感じない。でも、加工品よね」
「売れるか?」
「分かんない。でも、これだけの加工精度なら研究者が欲しがるかも」
「持っていこう」
「じゃあ、おれの荷物に――」
「いや」
アルトが背負い袋を開こうとしたところで、ディランが止めた。
「正体不明の物だ。ほかの荷物と一緒にするのはまずい。リゼットが持て」
「アタシ?」
「何か異常があれば一番気づきやすい」
「まあ、それはそうね」
リゼットは自分の腰鞄へ謎の板をしまった。
それから先でも、似たような物が見つかった。
透き通っているのにガラスよりはるかに硬い小さな板。細い金属線が何本も束ねられたもの。さらには、何に使うのかまるで分からない、掌に収まるほどの黒い箱。
「これ……本当に何なのよ」
「分からん」
「でも、全部人工物ですよね」
「ああ」
リゼットは黒い箱を灯りへかざす。
「持って帰ったら、結構な値段になるんじゃない?」
「可能性はあるな」
「でしょ!? ほら、来て正解だったじゃない!」
「まだそう判断するのは早い」
ディランはそう言ったものの、拾った物を捨てろとは言わなかった。
結局、謎の品々はディランとリゼットが分けて持つことになった。
アルトは少しだけ不思議に思った。
「おれ、まだ持てるぞ?」
「未知の品だからな。戦闘になったら、お前はいつも通り荷物を持って下がる。その荷物ごと何かあったら困る」
「そうか!!」
説明されると、すぐ納得した。
貴重そうなものなら、強いディランたちが持っていた方が安全なのだろう。
「じゃあ、なくすなよ!!」
「なんでアンタに言われなきゃいけないのよ」
「高そうだから!!」
「分かってるわよ!」
そんなやり取りをしながら、さらに進む。
しかし、笑っていられたのはそこまでだった。
通路の様子は、奥へ進むほどおかしくなっていった。
岩壁の中に混ざっていた黒い素材が増えている。場所によっては壁の大部分がそれに覆われ、まるで巨大な何かが洞窟そのものへ埋まっているようにも見えた。
天井には、細長い透明な棒のようなものが一定間隔で並んでいる。そのほとんどは暗く、割れているものもあったが、一つだけ、ごく弱い白色の光を放っていた。
「……光ってる」
「魔道具?」
「分からない。魔力を感じないのよ」
リゼットの声から、先ほどまでの浮ついた調子が消えていた。
「魔力なしで光るなんてこと、あるんですか?」
「アタシに聞かないでよ。知らないわよ、こんなの」
「引き返すか?」
ディランの言葉に、リゼットが黙る。
しばらく光を見上げたあと、彼女は通路の奥を見た。
「……もうちょっとだけ」
「リゼット」
「だって、ここまで来たのよ。さっきの物だって、たぶん相当珍しい。もう少し奥なら、もっと――」
「俺が危険だと判断したら戻るぞ」
「……分かってる」
ディランは少し考え、それから剣の柄へ手を置いたまま先へ進んだ。
アルトも続く。
フィリアは先ほどから周囲を何度も見回していた。
「静かですね」
「ああ」
「さっきから魔物を見てないわね」
「それも気になる」
ディランの返答は短い。
アルトも言われて初めて気づいた。
確かに魔物がいない。
野獣の洞穴では、ここまで何も出てこないことの方が珍しかった。
「魔物も来ないなら安全なんじゃないか?」
「そうとは限らない」
「なんでだ?」
「魔物が近寄らない理由があるかもしれない」
「なるほど!!」
「……アルトさん、怖くないんですか?」
フィリアに聞かれ、アルトは少し考えた。
「ちょっと怖い!!」
「ちょっとなんですね」
「でも、ディランたちがいるからな!!」
アルトは笑った。
フィリアが何かを言いかけ、結局そのまま口を閉じる。
「……そうですね」
四人はさらに進んだ。
やがて通路の先に、大きな空間が見えてきた。
「広いわね」
「待て。先に俺が見る」
ディランが三人を止め、一人だけ前へ出る。
入口から覗き込む。
何も起こらない。
「……入るぞ。離れるな」
四人は慎重に空間へ足を踏み入れた。
これまでよりはるかに広い場所だった。
天井も高い。
壁には人工物らしき黒い素材が何本も走っているものの、中央付近は岩が露出しており、長い年月の間に洞窟へ呑み込まれてしまったようにも見える。
「すご……」
リゼットが声を漏らす。
「ねえ、あそこ。何か――」
その瞬間だった。
ずしん、と。
重い音が響いた。
「……え?」
アルトが振り返る。
もう一度。
ずしん。
今度は、足元まで微かに震えた。
「何の音?」
「静かに」
ディランが低く告げる。
剣を抜いた。
リゼットもすぐに杖を構え、フィリアが後ろへ下がる。
アルトも慌てて荷物を下ろした。
暗がりの奥。
何かが動いた。
最初に見えたのは、二本の角だった。
太い。
その下から、大きな頭が現れる。
「うーん、牛……?」
アルトが呟いた。
確かに牛に見えた。
ただし、その頭がついている場所がおかしい。
巨大な胴体。
二本の腕。
二本の脚。
人間のように立っている。
だが大きさは人間などとは比べものにならない。
アルトよりも頭二つどころではなく高い巨体。その全身を分厚い筋肉が覆い、片手には刃こぼれした巨大な斧が握られている。
「なんだ、あれ……」
アルトは呆然と見上げた。
「リゼット」
「……知らない。アタシ、あんなの知らない」
「フィリア」
「私も……野獣の洞穴に、あんな魔物がいるなんて聞いたことありません」
牛頭の怪物が、ゆっくりこちらを向いた。
鼻から白い息が漏れる。
斧を持った腕が動く。
「ディラン?」
アルトが呼びかける。
返事がない。
普段なら、魔物が現れれば真っ先に指示を出す男だった。
右から回れ。
下がれ。
魔法を撃て。
何をするにしても、ディランの判断は早い。
そのディランが動かなかった。
「……嘘でしょ」
リゼットが小さく呟く。
「ねえ、ディラン。アレ……強いの?」
「……」
「ディラン?」
アルトからは見えなかった。
だが、リゼットとフィリアには見えていた。
剣を握るディランの手に、力が入りすぎている。
そしてその額には、戦闘が始まってすらいないというのに、汗が浮かんでいた。
ディランは知っていた。
実物を見るのは初めてだった。だが冒険者として活動する以上、危険な魔物の特徴は頭に入れている。
牛の頭。
人型の巨体。
異常に発達した筋肉。
そして、人間が使うような巨大な武器。
特徴が一致している。
見間違いであってほしかった。
だが、そんな希望に命を預けるほどディランは楽観的ではない。
怪物が一歩踏み出す。
地面が揺れた。
その瞬間、ディランの中から迷いが消えた。
手に入れた珍しい品々がいくらで売れるのか。
この場所に他に何が眠っているのか。
そんなものは、もうどうでもよかった。
命がなければ、金も宝も意味がない。
「……全員走れ」
「え?」
リゼットが聞き返す。
「走れ! 来た道を戻るぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! あいつ一体でしょ!? 四人なら――」
「無理だ!!」
ディランの一喝に、リゼットが言葉を止めた。
フィリアの顔からも血の気が引く。
アルトだけが状況を理解できず、巨大な牛頭の怪物と仲間たちを交互に見ていた。
しかし、ディランには分かっていた。
あれには勝てない。
自分一人ならB級冒険者にも匹敵するという自負はある。それでも足りない。焔の剣の四人で挑んだところで、勝負になる相手ではなかった。
ディランの記憶が間違っていなければ――あれはミノタウロス。
討伐には、A級冒険者パーティー相当の力が必要な魔物だった。




