第四章 「特別な朝」
「ゼスティール……」
セラは、さっき聞いたばかりの名前をもう一度口にした。
そして、ふと壁を見る。
何枚もの写真。
牧場で過ごす馬。
レースを走る馬。
人と並んで写る馬。
さっきまでも見ていたはずなのに、
今は少し違って見えた。
セラが立ち上がる。
「この中にもいるんですよね?」
「ゼスティール?」
「はい」
男性が壁を見る。
「ああ。いるよ」
「どれ?」
ルカまで立ち上がった。
男性が一枚を指した。
「あれ」
二人の視線が、その先へ向かう。
青々とした放牧地。
その中央で、
こちらを見ている一頭の馬。
「これが……」
「ゼスティール」
まだ北海道にいた頃の姿だった。
セラは写真へ少し近づく。
「……かっこいい」
「レイワスタールビーのときと反応が違うね」
「だって違うもん」
「何が?」
「なんか……」
写真をじっと見る。
「強そう」
「感想が小学生」
「じゃあルカは?」
訊かれたルカも写真を見る。
しばらくして、
「……目かな」
「目?」
「うん。なんか、気が強そう」
男性が笑った。
「正解」
「やっぱり?」
「こいつは気が強いよ」
「写真だけで分かるものなんですね」
「まあ、こいつは分かりやすい方かな」
セラは壁の写真へ、もう少し近づいた。
一枚だけでは、
どんな馬なのかまでは分からない。
「ほかにも写真、あります?」
「あるよ」
男性は壁際の棚へ向かい、
置かれていたファイルを一冊取り出した。
何枚かめくってから、
「あった」
テーブルの上へ置く。
セラとルカが同時に覗き込んだ。
そこには、
壁の一枚だけでは分からなかったゼスティールの姿が何枚もあった。
放牧地を走る姿。
人のそばに立っている姿。
まだ幼さの残る頃の姿。
男性が一枚めくる。
今度は柵の向こうから、
こちらを睨むように首を伸ばしている。
「ほら」
「ほんとだ」
セラが笑った。
「めっちゃ見てる」
「自分が一番じゃないと気に入らないようなところがあってね。こっちにいた頃は手を焼いたよ」
「でも、競走馬ならいいんじゃないですか?」
「いい方に出ればね」
男性は写真を見ながら答えた。
「強さになることもある。力みになることもある。気持ちが強すぎて、自分で自分を苦しくする馬もいる」
セラの笑顔が少し消えた。
「性格も関係するんだ」
「そりゃするよ。機械じゃないから」
その言葉に、
セラはもう一度写真を見た。
馬にも性格がある。
機嫌もある。
得意なことも、
苦手なこともある。
当たり前なのかもしれない。
けれど競馬をほとんど知らなかった二人にとって、
競走馬とはこれまで「速い馬」だった。
その一頭一頭が違う性格を持ち、
誰かが毎日それを見て、
育て、
送り出している。
そんなことを、
今日初めて知った。
ルカが尋ねた。
「この写真って、いつ頃ですか?」
男性が一枚を指した。
「これは、本州へ行く少し前かな」
「じゃあ、このあと?」
「ああ」
男性が頷く。
そして、
ファイルをもう何枚かめくった。
「あった」
その手が、
一枚の写真で止まる。
馬運車へと引かれていくゼスティール。
セラが少し身を乗り出した。
「これ……?」
「北海道を出た日」
「ここから?」
「そう」
「東京まで?」
「いや、直接東京じゃないよ。育成を経たり、厩舎へ入ったり、馬によって道筋はいろいろある。ゼスティールも段階を踏んで今の厩舎へ行った」
男性は写真から目を上げ、
窓の外を見た。
その視線の先には、
牧場の入口へ続く道がある。
「馬ってね、送り出すことの方が多いんだよ」
「送り出す……」
「生まれて、育てて。ある程度まで来たら、次の場所へ行く」
セラも窓を見る。
さっき二人が車で入ってきた道。
その道を、
馬を乗せた大きな車が走っていく。
想像してみる。
「寂しくないですか?」
セラが訊いた。
男性は少し笑った。
「寂しいよ」
あっさりした答えだった。
「でも、行ってもらわなきゃ困る」
「それもそうですね」
「ここにずっと置いておくために育ててるわけじゃないからね」
それから少し考えて、
「行ってこい、って感じかな」
「行ってこい?」
「うん」
男性は窓の向こうを見たまま続けた。
「帰ってこい、じゃなくて?」
セラが訊く。
「もちろん無事には帰ってきてほしいよ。でも、競走馬として送り出すときは――」
少し間があった。
「行ってこい、だな」
セラはその言葉を黙って聞いた。
「向こうで何になるかは、もう俺たちには決められない。だから、あとは頼んだぞって」
「誰に?」
「馬にも。向こうの人たちにも」
男性は笑った。
「――全部だよ」
セラは、
もう一度ファイルの写真を見る。
馬運車へと引かれていくゼスティール。
「……どんな朝だったんですか?」
セラが訊いた。
「普通の朝だよ」
男性は笑った。
「普通?」
「馬房掃除して、馬の様子見て、いつもの仕事して。それから時間が来たから乗せた」
「もっとこう……」
セラが言葉を探す。
「特別な感じなのかと思った」
「こっちは仕事だからね」
そう答えてから、
男性は少しだけ笑みを弱めた。
「まあ、車が見えなくなるまでは見てたけど」
セラが男性を見る。
「やっぱり」
「何が?」
「特別じゃないですか」
「……そうかな」
男性は頭を掻いた。
ルカが写真を見ながら笑う。
「少なくとも普通の朝の写真は、こんなふうに残さないですよね」
男性が黙った。
「…………」
セラがルカを見る。
「ルカ、たまに鋭いよね」
「たまに余計」
「いつも鋭い」
「訂正が雑」
男性が苦笑した。
「参ったな」
そして写真を見下ろした。
「まあ――そうかもしれないね」
その一枚だけ、
男性はすぐにはファイルへ戻さなかった。
————
外へ出ると、
空の色が少し変わっていた。
二人が牧場へ来たときより、
陽が傾いている。
「あ」
セラが声を上げた。
放牧地の向こう。
レイワスタールビーが走っている。
何があったわけでもない。
一頭で突然駆け出し、
少し走って、
止まる。
そしてまた草を食べ始める。
「……自由だなあ」
セラが笑った。
「誰かさんみたい」
「私、草食べないよ」
「そこじゃない」
少し離れた放牧地では、
メロゴールドが変わらず静かに立っている。
若いレイワスタールビー。
年を重ねたメロゴールド。
そして、
ここにはもういないゼスティール。
同じ牧場に生まれながら、
三頭は違う時間を生きていた。
一頭は、
まだ何者でもない。
一頭は、
すでに走り終えている。
そして一頭は、
今まさに何かを掴みに行こうとしている。
セラがぽつりと言った。
「なんか、不思議」
「何が?」
「今日来たときは、スタールビー見られればそれでよかったのに」
「うん」
「今はゼスティールが気になる」
ルカも笑った。
「本人には会ってないけどね」
「そこなんだよ」
「そこ?」
「会ってないから余計に気になる」
「セラらしい」
二人の後ろから男性が声をかける。
「だったら見てやってよ」
二人が振り返った。
「ゼスティール?」
「ああ」
男性はポケットに手を入れたまま、
放牧地を眺めている。
「これから大きいところを走れるかもしれない」
「ダービーも?」
セラが訊く。
「そこはまだ分からない」
男性はきっぱりと言った。
「競馬だからね。何があるか分からない」
それから少し笑う。
「でも、俺たちは行けると思ってる」
セラは頷いた。
「見ます」
即答だった。
ルカも続く。
「私も」
「競馬、詳しくないんだろ?」
「今は全然ですけど」
セラが答える。
「じゃあ、まず馬券の買い方から――」
「そこから?」
「冗談だよ」
男性が笑った。
セラも笑う。
けれど、
次の言葉だけは少し真面目だった。
「でも、応援します」
男性は二人を見た。
「ゼスティール」
名前を確認するように、
セラが言う。
「覚えました」
「忘れない?」
「忘れませんよ」
「名前には強いんです」
ルカが言った。
「グレープフルーツを、もじるくらいですから」
「それまだ言う?」
「大事なんでしょ?」
「大事」
男性が笑った。
「グレイプフルーツ、ね」
「はい」
セラとルカが答えた。
その名前を、
男性が初めてきちんと口にした。
————
帰り際。
セラはもう一度、
レイワスタールビーのいる放牧地へ向かって手を振った。
「またね」
「馬には分からないって」
「いいの」
ルカも小さく手を上げる。
「ルカもやってるじゃん」
「これは挨拶」
「私も挨拶」
「はいはい」
車へ乗り込む前に、
セラが振り返った。
メロゴールドは見えなかった。
レイワスタールビーの姿も、
柵の向こうへ隠れている。
けれど、
この牧場からすでに遠くへ行った一頭の名前だけが、
妙にはっきりと頭に残っていた。
ゼスティール。
エンジンがかかる。
男性が手を上げた。
二人も手を振る。
車がゆっくりと牧場を離れた。
しばらくして、
セラが助手席から後ろを振り返る。
牧場が小さくなっていく。
「……見えなくなった」
「うん」
ルカは前を向いている。
セラが座り直した。
しばらく無言で走った。
やがてルカが訊く。
「海、どうする?」
セラは窓の外を見る。
西の空が、
少しずつ橙色に変わり始めていた。
「帰りに見る」
「まだ見るんだ」
「最初の目的だから」
「忘れてたかと思った」
「忘れてないよ」
「ゼスティールは?」
「それも忘れない」
ルカが小さく笑った。
「忙しいね」
「何が?」
「セラの頭の中」
セラも笑った。
「楽しいよ」
車は海へ向かって走っていく。
この日、
歌は生まれなかった。
歌詞の一行すら書かなかった。
ギターにも触れなかった。
ただ、
一度きりという言葉を知った。
あと少しという時間を知った。
今度こそという願いを知った。
そして、
一頭の馬が牧場を離れていった朝のことを知った。
それらはまだ、
歌ではない。
けれど確かに、
二人の中へ入っていた。
この日からしばらくして――
グレイプフルーツの二人は、
これまでなら開くこともなかった競馬の記事を、
ときどき探すようになる。
検索する名前は、
いつも一つだった。
—— ゼスティール。
つづく




