第五章 「五月への切符」
それから、二人の日常は元に戻った。
札幌へ帰れば、また音楽がある。
リハーサル。
小さなライブハウス。
新しい曲の打ち合わせ。
SNSに届く感想。
休日の日高で馬を見たことなど、忙しい毎日の中に紛れてしまってもおかしくなかった。
けれど、完全には消えなかった。
数日後。
スタジオで休憩していたセラが、スマートフォンを見ながら言った。
「ルカ」
「なに?」
「ゼスティール、走るよ」
ギターの弦を拭いていたルカの手が止まった。
「いつ?」
セラが顔を上げる。
「……覚えてたんだ」
「何を?」
「ゼスティール」
「覚えてるよ」
「競馬、興味ないって言ってたのに」
「それセラもでしょ」
「私はもう興味ある」
「いつから?」
「日高から」
「浅いなあ」
そう言いながら、ルカはセラの隣へ座った。
画面を覗き込む。
競馬の記事だった。
専門用語がいくつも並んでいる。
二人とも意味が分からない。
「これ、何?」
「分かんない」
「これは?」
「分かんない」
「何が分かるの?」
セラが画面を指差した。
「ゼスティールが出る」
「そこだけか」
二人は笑った。
それでも、開催日だけは覚えた。
その日。
ライブはなかった。
午後、ルカの部屋で二人はノートパソコンを開いていた。
「始まるよ」
「うん」
「どれ?」
「待って、今探してる」
「ゼスティール何番?」
「だから今――あ、いた」
画面の中に馬たちが映る。
日高の牧場で見た写真とは違う。
ゼッケンをつけ、騎手を背にして歩いている。
セラが画面へ顔を近づけた。
「これ?」
「たぶん」
「写真と顔違わない?」
「そりゃ写真と動画だから」
「そういうことじゃなくて」
やがて馬たちがゲートへ入る。
実況の声。
スタート。
二人の会話が止まった。
どこを見ればいいのか分からない。
何番がどこにいるのかも、すぐに見失う。
「ゼスティールどこ?」
「分かんない」
「さっきいたじゃん」
「馬みんな速いんだもん」
「当たり前でしょ」
「いた!」
「どこ?」
「外!」
「外ってどっち!」
「画面の外じゃない!」
初めて見る二人には、レースはあまりにも速かった。
それでも最後の直線に入ったとき、
一頭が前へ出てくる。
「あ」
セラが声を上げた。
「ゼスティール!」
ルカも分かった。
「来てる」
「行け!」
セラが立ち上がる。
「行け、行け!」
「セラ近い! 画面!」
「ゼスティール!」
数秒後。
二人は顔を見合わせた。
「……勝った?」
「勝った」
「勝ったよね?」
「たぶん」
着順が表示される。
一着。
ゼスティール。
「勝った!」
セラが両手を上げた。
「うるさい」
そう言いながら、ルカも笑っていた。
ほんの少し前まで、
名前すら知らなかった馬だ。
馬券も買っていない。
競馬の知識だって、ほとんどない。
なのに、
嬉しい。
「牧場の人達、見てるかな」
セラが言った。
「そりゃ見てるでしょ」
「あの人、今どうしてるかな」
「たぶんセラと同じような顔してるんじゃない?」
「こんな?」
「もっとすごいかも」
二人は笑った。
画面の中では、ゼスティールがゆっくりと戻ってくる。
セラはその姿を見ながら、
ふと日高の小さな事務所を思い出していた。
壁いっぱいの写真。
若いメロゴールド。
そして、
あの言葉。
――今度こそ。
「……一個、近づいたのかな」
「何に?」
「ダービー」
ルカが画面を見る。
「どうなんだろ」
「調べよう」
「セラ」
「なに?」
「本当に競馬見るようになったね」
セラは少し考えた。
「競馬っていうより」
画面の中の馬を指す。
「この仔を見てる」
ルカは何も言わず、小さく頷いた。
それが一番近かった。
二人はまだ競馬ファンではなかった。
ただ、
ゼスティールという一頭の馬の続きを見ていた。
—————
秋が深くなり、
北海道に最初の雪が降った。
グレイプフルーツのライブにも、少しずつ変化が現れていた。
以前より大きな会場から声がかかる。
地方のイベントへ呼ばれることも増えた。
「SNSで見ました」
そう言って初めてライブへ来る人もいた。
まだ北海道ではある。
けれど、活動を始めた頃より確実に遠くへ歌が届き始めていた。
ゼスティールもまた、北海道から遠く離れた場所で走っていた。
勝つ日もあった。
思うようにいかない日もあった。
レースが終わるたび、二人は結果を見る。
「三着」
「惜しいね」
「でも次あるよ」
別の日には、
「今日、ちょっと元気なかったのかな」
「私たちに分かるわけないでしょ」
「でも前と走り方違わなかった?」
「……ちょっとだけ」
「ほら」
「詳しくなってきたのかな、私たち」
「危ないね」
「何が?」
「そのうち新聞買い始める」
そんな会話が、いつの間にか日常へ混じった。
—————
冬を越えた。
雪解けが始まり、
北海道にも遅い春が来る。
その頃には、
ゼスティールの名前を探すことは、
二人にとってもう特別なことではなくなっていた。
レースが決まれば見る。
結果が出れば話す。
分からない言葉があれば調べる。
日高でたまたま知った一頭の馬は、
いつの間にか、
二人の日常の片隅にいる存在になっていた。
そして春。
ゼスティールは、
大きな舞台へ進んだ。
皐月賞。
「これ、知ってる」
スマートフォンを見ながら、
セラが言った。
「さすがにね」
ルカも隣から画面を覗き込む。
「ダービーの前のやつでしょ?」
「ざっくりしてる」
「合ってる?」
「たぶん」
「セラも分かってないじゃん」
少し前までなら、
出走馬の名前を追うだけで精一杯だった。
今は、
一番人気という言葉も、
重賞という言葉も、
クラシックという言葉も、
なんとなく分かる。
そして、
もう一つ。
「五着まで」
セラが言った。
「うん」
「五着までなら、ダービーに出られる」
正確には、
優先出走権。
そこまで二人も調べていた。
「……なんか緊張してきた」
「セラが走るわけじゃないよ」
「分かってるけど」
「騎手でもない」
「分かってるって」
画面の中で、
ゼスティールがゲートへ向かっていく。
日高で初めて名前を聞いたとき、
この馬はまだ二歳だった。
来年どうなるかなんて、
誰にも分からない。
男性もそう言っていた。
――行けたらいいな。
あのときは、
それだけだった。
その馬が今、
本当にその道の途中にいる。
レースが始まった。
二人は黙った。
もう、
「どれ?」
とは言わなかった。
ゼッケンを見失っても、
勝負服を見れば追える。
走り方だって、
少しだけ分かるようになった。
最後の直線。
ゼスティールが伸びる。
前には、
まだ二頭いる。
「行け」
セラが呟く。
「行け……!」
届かない。
一頭。
もう一頭。
ゴール。
セラは、
すぐに何も言えなかった。
画面に着順が表示される。
三着。
「……三着」
ルカが言った。
セラは画面を見つめたまま、
小さく息を吐いた。
「負けた」
「うん」
「でも……」
ルカも分かっていた。
「五着まで」
セラが頷く。
「うん」
もう一度、
着順を見る。
三着。
勝てなかった。
けれど、
掴んだものがある。
「ダービー……」
セラが言った。
ルカが続ける。
「出られるね」
その瞬間、
二人とも同じ場所を思い出していた。
日高の小さな事務所。
壁いっぱいの写真。
東京まで届かなかった馬。
あと少しだった馬。
そして、
穏やかに草を食べていたメロゴールド。
――今度こそ。
セラは、
しばらく画面を見つめていた。
「ほんとに行くんだ」
「うん」
「東京」
「うん」
「あの仔」
日高では、
写真でしか知らなかった。
その蹄がどんな音を立てるのかも知らなかった。
来年五月、
東京の芝まで辿り着けるのか。
何ひとつ分からなかった。
それが今、
一つずつ現実になっている。
ゼスティールは、
自分の脚で五月への切符を掴んだ。
その夜。
セラは久しぶりに、
牧場のSNSを開いた。
レイワスタールビーは、
少し大きくなっていた。
以前より身体つきがしっかりしている。
メロゴールドは相変わらずだった。
春の放牧地で、
のんびり草を食べている。
そして、
皐月賞を走るゼスティールの写真があった。
三着。
その結果とともに、
次走について短い文章が添えられている。
日本ダービーへ。
セラの指が止まった。
華美な言葉はなかった。
けれど、
それだけで十分だった。
去年の八月。
「来年のダービーを目指してる馬もいるんですか?」
そう訊いたセラに、
男性は言った。
――目指してる、って言うにはまだ早いけどね。
そして、
――行けたらいいな。
その「行けたら」が、
本当に「行く」になった。
セラはコメント欄を開いた。
少し考えてから、
文字を打つ。
今度こそ。
札幌から応援しています。
グレイプフルーツ
送信。
数分もしないうちに、
返信が届いた。
覚えてたか(笑)
ありがとう。
セラが笑う。
「ルカ」
「なに?」
「覚えてたか、だって」
「忘れてると思われてたんだ」
「失礼だよね」
「セラだからね」
「どういう意味」
ルカは笑いながら、
スマートフォンを見る。
そこには、
東京へ向かうことが決まった一頭の名前がある。
「でも、本当に行くんだね」
「ダービー?」
「うん」
セラも頷いた。
「見たいな」
「東京だよ」
「知ってる」
「桑園じゃないよ」
「それも知ってる」
「行く?」
セラがルカを見る。
ほんの一瞬、
その目が輝いた。
けれど、
すぐに現実へ戻る。
「……東京だよ?」
「うん」
「ダービー見るためだけに?」
「うん」
「交通費」
「かかるね」
「宿泊費」
「かかるね」
「その頃、仕事入ってるかもしれないし」
「ライブもね」
セラは少し考えた。
「……配信かなあ」
「だね」
少し残念そうに、
セラはスマートフォンを伏せた。
ゼスティールは、
東京へ行く。
けれど二人にとって、
東京競馬場はまだ、
画面の向こう側にある場所だった。
北海道で歌う二人と、
東京へ向かう一頭。
日高で一度だけ交わった道は、
また離れたまま進んでいく。
――はずだった。
それから数日後。
二人の活動窓口に、
一件の出演打診が届いた。
共有メールを最初に開いたのは、
ルカだった。
何気なく件名を読み、
一度閉じかける。
そして、
もう一度開いた。
「……セラ」
「なに?」
返事がない。
「ルカ?」
「これ」
画面を向ける。
セラが読む。
最初は普通の顔だった。
数行進んだところで、
その目が止まった。
「……え?」
もう一度、
最初から読む。
「これ……私たち?」
「宛名はそうなってる」
「間違いじゃなくて?」
「たぶん」
そこには、
東京で開催されるイベントへの出演打診が記されていた。
北海道で活動する若手アーティストを紹介する企画。
これまでのライブ活動を知った関係者から名前が挙がり、
さらには日高の牧場との縁も、人伝てに企画側へ届いていたらしい。
そして、
開催場所。
セラの指が止まる。
東京競馬場。
開催日。
その下に記された文字を、
二人は声に出さず読んだ。
日本ダービー当日。
部屋が静かになった。
「……ルカ」
「うん」
「これ」
「うん」
セラはもう一度、画面を見る。
「……もう偶然じゃなくない?」
「何が?」
「日高でたまたまゼスティールを知って」
「うん」
「その仔がダービーに出て」
「うん」
「私たちまで、その日に東京競馬場って」
ルカが少し笑った。
「奇跡?」
「いや」
セラは真顔で言った。
「運命だよ、これ」
「大きく出たね」
「だって!」
もう一度、画面を見る。
「……行けるじゃん」
ルカは少しだけ笑った。
「仕事でね」
セラの顔が一気に明るくなる。
「行けるじゃん!」
「だから声」
「だって!」
去年の夏。
日高へ海を見に行っただけだった。
SNSで、
たまたま一頭の若い馬を見つけた。
その名前が気になって、
少しだけ道を外れた。
そこで、
一頭の老いた馬と出会った。
まだ会ったことのない二歳馬の名前を聞いた。
ゼスティール。
あのとき男性は、
言った。
――行けたらいいな。
その馬はいま、
本当に東京へ行く。
そして――
グレイプフルーツにも、
東京へ向かう理由ができた。
セラはメールを見つめたまま言った。
「これってさ」
「うん」
「私たちも、初めてだよね」
「何が?」
「北海道の外で歌うの」
ルカは一瞬、
黙った。
そうだった。
馬のことばかり考えていて、
二人とも気づくのが遅れた。
これは、
グレイプフルーツにとっても、
初めて北海道を出るステージだった。
ルカがもう一度、
メールを見る。
そして静かに言った。
「……行こうか」
セラは頷いた。
「うん」
窓の外には、
北海道の春の夜が広がっていた。
ゼスティールは、
自分の脚で、
一度きりの五月へ辿り着いた。
そして二人にとってもまた、
それまでとは違う五月が、
静かに始まろうとしていた。
つづく




